第十一章 捕縛(3)
孝庵の診療所が町のどの辺りにあるのかは定かでないが、塀の向こうを行き交う人の声や気配、時折やって来る患者とのやり取りを聞く限り、ここは外れのほうだろう。
そんな中に、反故紙を集める声が聞こえたのは、昼時のことだった。
「紙くず、葛布、短くなった蝋燭はありませんかね」
その声に、秋津はがばりと身体を起こした。
吉治の声だ。
それに続いて波留が対応する声が聞こえる。
(今、顔を出せば──)
吉治に居場所を報せることが出来る。
だが同時に、波留や孝庵に迷惑が掛かることになる。
今を逃せば、数日は吉治も周ってこないだろう。
居場所を報せたなら、恐らく頭や十兵衛が秋津の身柄を引き受けに来る。長屋を出てこそいるものの、抱え非人を統括する立場としても、そのままにはしておけないはずだ。
奉行所や恭太郎本人に何らかの行動を起こすものと思われた。
秋津の居場所を知らせぬように言い置いたのは、他でもない恭太郎だ。
秋津の所在を隠匿することには、個人的な感情や用心の他にも、何か思惑があるのかもしれない。
無事でいる──。
ごく身近な者にそう伝えることが叶わないのは、もどかしいことこの上もなかった。
***
とっぷりと日が暮れた頃、源太郎は十兵衛と向き合う形で囲炉裏端に胡座を掻いていた。
「吉治が町医者を当たってくれたらしいが、どこにも怪我人が運ばれたようなことは無かったそうだ」
十兵衛も方々を訪ね歩き、結局何の情報もないまま戻って来ていた。
「おめぇも卸問屋回って聞き込んでるんだろう? ここまで何の手掛かりもねえと、いよいよ人攫いじゃねえかと思っちまう」
番太や牢番に尋ねても、例の噂話こそ知るものの、今秋津が何処にいるのかを知る者は一人もいなかった。
「火を付けた奴がいるとすれば、そいつに攫われたんじゃねえか? あいつ、母親譲りで見目は悪かねえだろう?」
ただでもこのところの領内は不作に喘ぐ農村から欠けていく者が多く、娘がいれば売られていくという話は絶えない。
「売り物になると思われりゃ、そういうことだって……」
「いいや、それはねえよ」
来てから黙然と座り込んでいた十兵衛が、初めて口を開いた。
「しかしよ、そりゃあ俺だってあの秋津が大人しく攫われるとは思っちゃいねえが、火を付けて脅されりゃあ分からねぇだろう」
考えたくない気持ちはわかるが、と源太郎が続けようとしたのに重ねて、十兵衛は声を重くした。
「火が付いた時にゃ、あいつは御堂には居なかったんだよ」
源太郎は項垂れたままの十兵衛を凝視した。
「……どういうことだ」
「おれはあの時、秋津がいねえことを確認していたからな」
「…………」
それから随分と長いこと沈黙が流れたように感じた。
どう解釈して良いか判らなかった。
秋津の不在を狙って、自分が火を付けたとでも言うのか。
「どういうことだ。冗談にしちゃ笑えねえぞ」
「冗談でこんな事が言えるかよ。人目が集まりゃ、あんなところで逢引も出来ねえだろう。焼け跡になっちまえば、秋津も長屋に帰って来るしかなくなる」
「逢引っておめぇ、そんな話……」
秋津と恭太郎のことを言っているのは察しがついた。吉治の話していたことは、とっくに十兵衛の耳にも入っていたらしい。
「おれが秋津を連れ戻しに行った時、あの野郎間に入って来やがった。秋津も秋津だ。長屋に戻るのを渋るのは、そういうわけがあったんだ」
馬鹿馬鹿しい、と十兵衛は吐き捨てるように言う。
「十兵衛おめえ、なんて事を──」
***
野辺からの報告を受けて、恭太郎は静かに瞑目した。
非人頭に対し、御堂に火を付けたことを匂わせたところに踏み込んだのである。
非人頭の源太郎に関してはどうも事態を呑み込みきれず、ただ狼狽するのみだったという。
当の十兵衛に至っては、別段取り乱した風もなく、粛々と目明かしに従ったというが、牢屋敷に着いても押し黙ったままだという。
ただ一点、恭太郎を呼べ、と要求する以外は。
「やはりそうか」
「自白を迫っても一向に口を割りません。元宮様が来るまでは一切話さないとかなり強情で……。どうします、水責めにでもしてみますか」
「そうだな、自白はさせろ」
あの日、秋津を連れ帰ろうとしていたところを妨害され、内心で沸々と憤っていたのだろう。
そして恐らくは、今も恭太郎に対して遺恨を抱いている。
「非人頭のほうは、余程堪えているんでしょうなぁ。随分憔悴してますが、それでもまあ、尋ねたことにはぽつぽつ答えてますね」
しかしこちらは本当に何も知らない様子。
共犯である可能性は限りなく低い、と野辺は言う。
「非人頭には他にも二、三聞きたいことがある。後で中庭へ連れて来て貰えると有り難い」
野辺はそれに頷いたが、恭太郎の顔を躊躇いがちに覗う。
「十兵衛のほうには、水責めしていいんですね? ほんとに」
「自白しないのなら致し方ないだろう。それでも駄目なら、あとの拷問はおまえたちに任せる」
「……何だか、お変わりになられましたね。こんなにあっさり拷問を許可なさるなんて」
野辺は呆気に取られているのか、ぽかんと些か間の抜けた顔をしていた。
「火付けに温情は要らんだろう。どんな事情があれ、許せることではない」
「いやぁ、それは勿論そうなんですが……」
「どの道、火炙り刑だ。今のうちにたっぷり水をくれてやるがよい」
冷淡な物言いをしている自覚はあった。
恭太郎自身も、己の内に湧き上がる苛立ちを抑え込むのに苦心している。
「自白の上で、尚言い分があるのなら聞いてやると伝えておけ」
「それじゃあ、本当にやりますからね。ウチの連中容赦ないからなぁ……。ま、死なない程度にやりますか」
恭太郎の指示を以て、野辺は立ち上がった。
【第十二章へ続く】
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