第七章 火の手(2)

 

 虎之助はその日訪れていた塾生の男に声を掛けられた。

「安藤先生、少し宜しいでしょうか」

 次々と帰っていく塾生たちの中から外れ、書物を片付ける虎之助の前へそそくさと膝を折った。

「先生は確か、元宮恭太郎殿とは知己であったかと」

「ええ、幼い時分から共におりましたので。……恭太郎がどうかしましたか」

 じっと見詰めてくる男の顔を見返して、虎之助は首を傾げる。

 よく見ればこの男、確か与力の一人である。

 城下に戻って間もないために、誰がどの役職に在るのか今も覚えきれていない。

「近頃の恭太郎殿に何か変わったことはないでしょうか?」

「変わったこと、ですか」

 そう言われて先日顔を合わせた恭太郎の姿を思い描く。

 が、特筆するような何かは無かったように感じた。

 うーん、と暫時唸ってから、

「強いて言うならば、刑場での検視のお役目が辛いのではないかと、そのくらいでしょうか」

 と答える。

「しかし、私が想像していたよりは気丈にやっているという印象でしたが」

 すると、男は一度背後を振り返って、また虎之助に向き直る。

 人のすべて退出したのを確認したのだろう。

「それだけですか? 実のところ、恭太郎殿は目を背け耳を塞ぎ、挙句は刑場から遁走する始末。それがごく最近ではぱたりとお逃げにならなくなった。先だっての磔刑の折にどこかへ逃げ出してからです」

 磔や打ち首などの刑は、確かに見るに恐ろしいもの。逃げ出したくなる恭太郎の気持ちは虎之助も充分に理解出来る。

 元来、血を見るのが苦手な男であったために、検視せねばならない立場には尚更同情の念を抱いてしまう。

「以前は処刑となると沈み切った面持ちで、口数も少なかったのが、このところはお出ましも早く、表情も妙に明るいように感じることがあるのです」

「それは、漸く慣れてきた、というのとは違うのですか」

「いや、それならば良いのですが、執行のその時は相変わらず目を背けているし、その間に何を見ているのかと思えば、どうも非人の女をじっと見詰めておいでで……」

 当の女は恭太郎と目を合わすこともなく、仕事を遂行しているのだが、刑場にいる間は何かとその女に気を取られている様子が窺えるのだと、男は大まじめに話す。

「まあまあ、恭太郎とは私も随分長い付き合いですが、流血や苦痛を伴うものは大の苦手とする男でしてね。たまたま、その女を眺めてやり過そうとしていたのでしょう」

「そうでしょうか? 失礼ながら恭太郎殿はまだお独り者ゆえ、妙な気を起こしていなければ良いのですが」

 口振りから察するに、恭太郎を案じているらしい。

 虎之助に話を持ち掛けたのも、言外に今のうちに釘を刺しておくべしという親切心からだろう。

 恭太郎に限って、おなごに手を出すというのは考えにくいことだったが、一応は確認しておくべきだろう。

「わかりました。折角のご忠告だ、杞憂に終わればそれで良し、それとなく話を聞いてみましょう」

「そうして頂けるとありがたい。正直なところ、私以外にも奇妙に思っている者がいるものですから」

 そうして、男は一礼して帰途に着いたのだった。

 

 ***

 

 そういう懸念は無用と考えていたのが、いざ恭太郎の様子を具に窺えば、やはり問い詰めておいて正解だったと虎之助は思った。

 ぼんやりと放心しているかのようにも見えたが、時折微かに熱の入った眼差しになる。

 虎之助自身そこまでおなごに熱を上げたことはないが、淡い初恋くらいならば経験はあった。

「おまえ、自分では気付いていないのか? 好いたおなごの話をしているようにしか見えんぞ」

 ずばり言ってやれば、恭太郎は戸惑ったように視線を逸らして俯く。

「流石にその娘は駄目だ。囲い者にするにも角が立つぞ」

 正妻に収まることが難しい場合、気に入った娘を別宅に住まわせ妾奉公させることも間々ある。

 大身の武士のみならず、大店の主人にもそのような妾宅を持つ者はたまにいた。

 妾宅を構えるには随分と金も掛かるため、余程の財力がなければ妾を持つことは不可能だ。

 元宮家は家中でも屈指の家柄。財力に問題はないだろうが、遊郭の女を身請けするのとはわけが違う。

「何の教養もなく後ろ盾もない、刑場の手伝いで暮らしているような娘と噂になってみろ。家名に瑕がつくんだぞ。おまえと、おまえの親父様にもだ」

 そんなことになれば、父親である帯刀が黙ってはいないだろう。

 思い直すよう宥め透かすほどに、恭太郎の面持ちは曇りを帯びる。

 これは、と虎之助も眉宇を顰めた。

「おまえなら、家中の娘を選び放題だろう? 見合いでもすれば良い相手に当たるかもしれん。おまえも既に妻帯して子があっても良い歳なんだ、帯刀様だってそろそろと考えているんじゃないのか?」

「私だって、はじめからそんな気はなかったのだ。だが、こればかりはどうしようもない。ふと気付くと秋津のことを考えてしまっている」

 そんな折に知ったのが、次の非人頭となる十兵衛の存在だった。

「十兵衛とかいう男には任せられない。いくら次の頭だとしても、秋津に無体を働くような男だ。そんなことならば、いっそ私が──」

「囲うというのか? 落ち着いてよく考えろ。それでそのおなごは本当に幸せか? おまえの一方的な想いで、今の暮らしから無理に引き離して良いのか」

 元宮家を継ぐ以上、いずれ然るべき相手を正妻に迎えねばならず、恭太郎の今の想いが一体いつまで続くものかも、虎之助には判断がつかない。

 互いに不幸な道行きになるように思えて、虎之助は辛抱強く諭したのであった。

 

 ***

 

 一つに束ねた髪に触れる。

 刑場よりも少し上流の河原に水を汲みに訪れた秋津は、汲み上げた桶に張った水面にその顔を映した。

 恭太郎が丁寧に梳いてくれた髪を眺め、懐に仕舞った櫛を取り出す。

 歯の一本一本が滑らかに削られた逸品だ。

 髪に通せばするりと流れるように滑る。

(こんなに良い物を、わざわざあたしなんかに)

 やはり、返したほうが無難だろう。

 物好きも度を越している。

 恭太郎ほどの身分なら、周りには綺麗な着物を纏って髪も艶やかに結い上げた、美しい姫君たちが大勢いるであろうに。

 朽ちて薄気味の悪い岩屋に住み、刑場での仕事で細々と糊口を凌ぐような暮らしをするおなごを気に掛けるなど、正気の沙汰ではない。

 優しく髪を梳いてくれた、あの時の労るような手付きが、首筋に蘇る。

 

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