第六章 柘植の櫛(1)

 

 

 真夏を過ぎると、日中は蝉、夕には蜩と混じって秋の虫の声が聴こえ始める。刑場近くの河原には、すすきがちらほらと背を伸ばし、非人長屋の周りにもだんだんと秋の草花が目につくようになってきていた。

「吉治、おれが秋津を長屋に戻すってぇ言ったらどうする」

「はあ? 秋津ぅ?」

 吉治の部屋を訪ね、十兵衛は間口から問いかける。

 奥には吉治の娘のさよ・・が粗末な寝床に横たわっているのがちらと窺えた。

「前に縄張りを荒らした事は、おれからも詫びる。この通りだ」

 出迎えた吉治に頭を下げ、十兵衛は平身低頭して謝罪する。

 考えに考えた末、吉治本人から長屋へ戻るよう要請があれば、秋津も考え直すだろうと思ったのだ。

「今更何だってんだ。あんたが謝るようなことでもねえし、俺ももう気にしちゃいねえと何度も言ってるだろ」

 戸口で頭を下げたままの十兵衛を、吉治はその肩を掴んで起こしてやる。

「縄張りで稼がれた時にゃ腹も立ったが、秋津はしっかり詫びを入れてきたし、頭もその分きっちり分け前を増やしてくれただろ」

 そもそもが長屋を追われるほどのことではないし、と吉治は困り顔でぼやく。

「今後気を付けてくれりゃあそれでいい。ああ、もしそれで納得しねえようなら、時々さよの面倒を見て貰えると助かるな」

「そうか、ありがてぇ。おれとしちゃすぐにも秋津を呼び戻したいんだが、あいつがなかなか強情でなァ」

 吉治のところに来るのも、もう何度目だろうか。

 十兵衛は逐一気に掛け、吉治の秋津に対する感情を探る。それは吉治も察している様子で、近頃ではうんざり顔を返されることすらあった。

「十兵衛も苦労するなァ。もう俺が秋津に直接言ってやろうか?」

 居場所が分かれば吝かではない、とまで言うが、十兵衛は礼を言いつつも丁重に断る。

「おれが連れ戻すさ。この際おれもはっきり言わなきゃならねえことがあるからな」

「そうかい、秋津は鈍いところがあるからなァ……。その上お前さんは肝心なところで口下手になっちまう。好きなら好きって言ってやらねえと、秋津には伝わらねえぞ」

 やれやれ、と額に手を当てる吉治に、十兵衛はぎょっとする。

「ぁあ!? 何だよ、別におれはそこまであいつにべた惚れなわけじゃねえぞ!? ただこれから寒くなる前に連れ戻さねえとだな──!」

「ああはいはい、確かに秋津は磨けば光る別嬪さんだ。早いとこ次期頭の女房に収めちまいな」

 吉次はおざなりにそう言うと、さっさと行けと言わんばかりに十兵衛の肩を押しやった。

 

 ***

 

 刑場から程近い御堂の境内にも、夏の盛りのそれよりも翳りが濃くなり、静けさが際立ち始めていた。

 これからの季節を乗り切るためには、もう少し厚手の衣服が要る。

 古着屋を覗くことも考えたが、懐は心許なく、かといって十兵衛にねだるのも気が引ける。

 長屋を出る時に冬を越すことを想定して袷を持ち出して来てはあるが、最悪の場合これで冬を凌ぐことになるだろう。

 これまでは長屋に身を置き、寒い冬も食べる物さえあれば何とかやって来れた。

 だが、この冬は違う。

 寒風の吹き込むであろう、岩壁が剥き出しの岩屋の中で過ごさねばならない。

 冬が来る前に薪を集めて蓄えておく必要もある。

 幸いにも周囲は山がちで、今から薪拾いをすればそれなりに集まるだろう。

「おぉい、秋津」

 岩屋の中へ声がかかり、秋津は思案から我にかえる。

 声だけですぐにそれと分かるくらいに、聞き慣れた声だ。

「なんだ、また来たの」

 岩屋から出ると、いつもと変わらぬ十兵衛の顔があった。

「なんだとはなんだ。随分な挨拶だな」

 憮然とする十兵衛を見上げ、秋津は小さく笑った。

「あたしを連れ戻そうってんなら、無駄だよ。此処は存外気に入ってんだ」

 長屋は賑やかで、部屋にいても薄い壁の向こうから隣の声や物音が聞こえてくる。常に誰かが側にいる。

 そんな日常も確かに良いものだが、御堂の静けさが心地良くもあった。

「もう何度も言ってるが、吉治はおめえが戻ってきてもいいと言ってる。もしそれで気が済まねえなら、たまにさよを面倒見てくれりゃあそれでいいとも言っていた」

 十兵衛はにこりともせずに、秋津の前に立ちはだかる。

 どことなく険しい雰囲気が漂い、十兵衛の視線も真っ直ぐに秋津のそれを捉えていた。

「今日、長屋に帰るぞ」

「え、今日……って、そんな急に」

「急でも何でもねえだろう。長屋を出てからどれだけ経ったと思ってる」

「まだ二月と経ってないだろ。無理だよ、あたしはまだ戻るつもりはないんだ」

 一歩後退ると、十兵衛はこちらへ一歩にじり寄る。

「こんなところにおめぇ一人で、何かあったらどうする気だ」

「どうもこうも、あたしなら平気だよ」

「平気なわけがあるかよ。長屋の何が気に入らないんだ? それとも何か、帰りたくない理由でもあんのかよ」

 やや語気が強くなり、十兵衛の眉根も一層顰められる。

 今までに見たことのない険しい面持ちだ。

 帰りたくないわけではない。

 が、ほんの刹那、何故か恭太郎の顔が脳裏を過ぎった。

(……?)

 恭太郎が時々ここを訪ねたいと言っていた。

 もし、このまま十兵衛の言う通りに長屋へ戻ってしまえば、次にこの御堂を訪ねた恭太郎はどう思うだろうか。

 弱音を吐く相手がいないことに落胆するかもしれない。

 そう思うと、やはり今すぐ長屋に戻る気にはなれなかった。

「やっぱり何かあるんだな」

 暫時沈黙してしまった秋津を、十兵衛の目が上から睨み落とす。

「理由ってほどじゃないけど……」

「けど何だよ」

「…………」

 恭太郎の存在を伏せたまま、どう話せば良いのか。結局は上手く言葉に出来なかった。

「とにかく帰るぞ! 荷は後でおれが運んでやる」

 痺れを切らした十兵衛が、秋津の腕を鷲掴みして強く引く。

 思わぬ力で引っ張られ、足が縺れて前へのめりそうになるのを、寸でのところで踏ん張った。

「何すんのさ! 別に今すぐじゃなけりゃならない理由だってないんでしょ、今はまだここで暮らすよ!」

 

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