八章 終幕

八章一話

 あの日から一週間ほどが過ぎ、多少傷の状態が改善したイーケンは軍から一月ほどの休暇を与えられた。軍医から傷が完全に塞がるまでは激しい運動を禁じられたため特にやることがない。自室の寝台で本を読んで過ごしていたある日の昼下がり、扉の向こうから人の気配を感じた。ここで誰かに襲われるとは思えないものの、用心して愛刀を持って扉に近寄る。一気に扉を開くと青灰色の上着を被ったアルンがいた。


「左手と腕の付け根のその後はどうです?」

「あまり痛まないが不便だな。時々知り合いや友人が顔を見せてくれるから、自分では出来ないことは彼らに頼んでいる」

 三部屋ある借家の寝室ではない部分で、イーケンはアルンに切った果物を皿に乗せて出した。木製の無愛想な食卓に鮮やかな橙色の果肉が華やかである。アルンは上着を脱いで椅子の背にかけた。

「わざわざ貴様が出向くのだ。あのことで何か動きがあったのだろう?」

「はい。実は河野が、全ての情報を吐きました」

「本当か?」

 天竜乗りの言葉にイーケンは驚いて問い返した。アルンは呆れたような、諦めたような顔である。

「何もかもが信用できるかは分かりませんが、とりあえず知っていることは全て言ったと主張していました」

「それで?」

「大尉にも解決のために協力していただきましたので、お伝えするべきかと思いまして。ところがこれがまた長い話でして、それこそ夜通し話すことになりかねませんが、よろしいですか?」

「かまわん。時間だけはあるからな」

 アルンは果物とともに供された水差しを持ち上げる。器に水を注ぐ銀髪の天竜乗りは、一組の主従の物語を語ろうとしていた。


 河野とその主君たる真奏が出会ったのは、彼女が七歳になった年のことだった。当時戦に明け暮れていた桐生家の大人達には先代当主の残した末娘にかまけている時間が無く、負傷によって前線から退いていた河野が傅役もりやくに抜擢された。

 河野が教えるのは礼儀作法や読み書き計算を中心とした物事だったが、真奏は好奇心旺盛な子であった。生半可な知識量では満足しない彼女に、河野は密かに本来女子に教える必要のないことまで教えていた。その内容は軍略、真名と呼ばれる男が使う文字や文法、異国の歴史など幅広いものであった。

 しかし真奏の好奇心はもっと違う方向へと動き出す。きっかけは河野自身の差料の刀身を見せてくれと言われたことだった。真奏は目の前の打刀の白刃をじっと見つめた。日を受けたしのぎがきらりと光る。

「武具がお好きですか?」

 河野の問いに真奏は黙ってうなずいた。その日は見事な秋晴れの日で、二人のいる釣殿には秋の日差しが差し込んでいた。板張りの床も空気も太陽の光で温まっていて実に心地良い。そして真奏の目は日の光で輝く刃から動かなかった。

「河野、わたしもいつかこれをもてるかしら」

 先代当主譲りの切れ長の目が、じっと刃の煌めきを見つめる。幼いながらも理知的な光を宿すその目は期待を孕んでいた。

「これは男が持つ刀です。残念ながら姫様がお持ちになることはございませんが、懐刀くらいならお持ちにはなれましょう。それか薙刀です」

 それを聞いて彼女は残念そうに肩を落とした。天守閣よりはるかに場所を飛ぶ海鳥の鳴き声が秋空に響いていた。

 これ以降、真奏は異様に武器に興味を示すようになった。刀剣の類ならまだしも、弓矢、弩、投石機、攻城兵器などその幅は広い。河野が登城するたびに彼女は武器の話を聞かせろとねだった。たったそれだけの平穏な時間を過ごす間に三年が過ぎ、信じられない事態が起きることになる。


 三年後の冬、桐生家の所領で大規模な海賊討伐が行われた。海路を主な交通手段とする汰羽羅には多くの海賊団がいるが、特に大きな勢力を持つ海賊団が他の海賊団と手を組んだことで被害が拡大した。

 さすがに見過ごせない規模であること、桐生単独では対処が難しいことを理由に汰羽羅を統べる宗主・相良家が動いた。当時の相良家当主の相良親久直々に軍勢を率いての参戦が決まったその討伐戦で、真奏は許されない禁忌を犯した。

 戦が片付いて帰城しようとした頃、桐生の軍船に城からの使いがやって来た。甲板に上がったその男は真奏の警護役を担っていた。何度か見たことがある顔だったので河野はすぐに気がついた。彼は甲板に膝をついて決まった挨拶をしてから、正孝に向かって言った。

「真奏様のお姿が城中にございません」

 その場が静まり返った。警護役は堰を切ったように話し続ける。

「我々はもちろん厨の女までもがお探し申し上げました。しかしながら城中だけでなく城下にもお姿がございません」

「いつからだ」

 先代当主が真奏の姉の婿として迎えた正孝は自分の打刀を腰から外して問いかける。内政にも軍事にも長けているが時折ぞっとするほど冷酷な部分を持っているために、彼はあらゆる相手を常に戦慄させていた。このときも抜き身の刃よりも鋭い眼光で警護役を睨んでいた。

「殿が戦に出向かれたその日からでございます」

「それで今日まで駆けずり回っていたと?」

 その一言で警護役の身体が硬直する。それを見ていた河野の父が口を挟んだ。

「殿、おそれながら申し上げます。無いこととは思っておりますが、船倉をお探しになってはいかがでございましょう? 姫様は武具がお好きだと愚息より伺っております。加えて今の船倉は木箱が多く、姫様のお身体であればその中にお入りになることも出来るやもしれませぬ」

 その場の誰もが目を見開いた。汰羽羅において女が軍船に足を踏み入れることは許されない行為である。もしそれが本当であれば歳に関係なく厳しい処断が下るだろう。その可能性を河野の父は平然と口にしたが、正孝の判断は早かった。手に持った打刀の鍔を撫でつつ指示を出し、それを受けてわっと人が動き出した。

 桐生の所有する全ての軍船にて捜索が行われたが結局真奏は見つからなかった。正孝は思うように事が運ばないせいか苛立ちを隠さない。帰城してからもそのままだったが、その様子を見ていた相良親久が事情を聞いて自分の軍船の船倉を探させた。そして恐ろしいことに、真奏は大将船の船倉の中、それも槍を入れていたはずの木箱から見つかってしまった。

 真奏を親久の警護役が連れて来ると、正孝は力一杯その横顔を殴った。そして船着き場に聞いたことのない怒号を響かせる。

「この愚か者が!」

 あらん限りの怒りと憎しみを込めた言葉を受けても真奏は平然としていた。正孝の表情からは理性は失われ、むき出しの怒りだけがそこにあった。

「なぜこのようなことをした。許されない行為だと知っているだろう」

「武具について学んだら、それがどうやって動くのかを見てみとうなりました。それだけでございます、義兄上」

 真奏の返事に正孝は再び義妹を殴った。汰羽羅の武家では子どもへの折檻は珍しくもないが、これはいささか目に余る。河野はその光景を見ながら凍りついていた。真奏に武具の知識を与え、全ての元凶となったのは他ならぬ彼だった。取り返しのつかないことをしてしまったと呆然とする河野の前で、正孝はわなわなと声を震わせて真奏に語りかけた。

「これはお前一人の問題では無いのだぞ。汰羽羅きっての名門・桐生家の武威は地に落ちる。お前のその好奇心が、家を殺すのだ」

「家などどうでも良うございます」

 火に油を注ぐことばかり返す真奏は落ち着いていた。籠手で覆われた手で殴られても涙一つ零さない。それが余計に癇に障ったのか、正孝はまた腕を振り上げた。そこでようやく河野は声を上げる。

「殿、お待ちください!」

 正孝の目がゆっくりと河野に向かった。冷徹さと不機嫌さを隠さない声が甲板に落ちる。

「利治の倅か。いかがした」

「戦についてお教えしたのは手前にございます。全ては手前の浅慮と不始末がゆえ! かくなる上はこの場で腹を切ってお詫びいたします!」

 跪いたまま言えば、背後で父が動揺する気配を感じた。河野は躊躇わずに腰を下ろしてから自身の差料二振りを腰から引き抜き、甲冑を脱いで下の着物の帯に手をかける。袖から手を抜こうとした瞬間に鷹揚な声がその場に響き渡った。

「そこな若武者、せっかく戦で生き残ったというに早まるでないぞ」

 振り向いた先には派手な陣羽織を纏った男がいた。彼は汰羽羅全土を統べていた当時の相良家当主、相良親久。そしてこの日を境に、河野と真奏の運命が動き出す。

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