六章七話

 王都は夜中であっても人が出歩いている。特に花街や酒を出す店のあたりには人が集中していた。その中を二人して黙って進んでいく。とっくに日が落ちているので今日はもう馬は使わない。朱真は眠いから行かないと言って屋敷に残った。イーケンは腰に帯刀しただけの格好でアルンは昼間のように薄手の上着を着ている。

「大尉はどうして正義や正しいことにこだわるんですか?」

 夜道を歩きながらの問いに、イーケンはふと夜空を見上げる。濃紺の布に金剛石を散らしたかのような空で、その空は海の上で見るのとさして変わりのないものだった。真夏とは言え日が落ちればそれなりに気温が下がるために少し冷たくなった風が彼の黒髪を撫でる。

「俺の親は賊に殺された」

 短く答えたところ、銀髪の天竜乗りは失敗したと言いたげな顔を見せた。

「失礼しました」

「いや、いいんだ。もう十四年も前のことだからな。……父親が官僚で、俺が十二のときに西方の役所で働くように辞令が出てな。母と弟、俺と父で長旅をしていたことがあった」

 そう応じると、十四年前のことが昨日のように頭に蘇った。イーケンの家族が住んでいたのはフラッゼの北方だ。春になると冬の間に積もった雪が溶け出して雪崩が起きるような地域だった。年中冷たくてきれいな水を湛える川や湖が太陽の光を弾いて、宝石のようにきらめいていたことを覚えている。

 ある年、父に西へ行くようにと辞令が出た。当時フラッゼは西方へと国境を拡大していたため、新たに役所を増設する必要があったのである。そしてその道中、賊に襲われた。目的地まであと少しというところで街道に現れた賊は、周囲にいた者を片っ端から斬り伏せて金品を強奪した。イーケンと弟は両親が文字通り身を挺したおかげでかすり傷で済んだが、両親は真紅の海に沈んだ。しかしその賊は逃げおおせた。

 街道警備隊の検問をすり抜けてどこかへと消え去ったと知ったのは、襲撃を受けてから四日後のことだった。それからさらに一週間後、街道警備隊の隊員が一名絞首刑にされた。処刑された隊員は賊と通じていて、彼は多額の賄賂の代わりに逃走経路を教えたのだという。

「あってはならないことだと心底思った」

 あらましを語り終えたイーケンの声はかすれていた。喉の奥を焼くような感覚に奥歯を噛みしめる。自分の口の中から聞こえる嫌な音に気がついて力を緩め、顎から力を抜く。

「たった一人の正しくない行動ただ一つでのうのうと人殺しの賊が逃げおおせる。法の裁きを受けることなく、相応の罰が与えられることもない。その事実が俺にとってはこの上なく不愉快で納得できなかった」

 そこで彼は歩みを止めた。同じようにして歩みを止めたアルンの目を真っ直ぐに見据え、そしてきっぱりと言い切る。

「だから俺は正しくないことを嫌う。自分が信じた正しいことに、正義にこだわる。全ては俺のためだ」

 あまりに利己的で身勝手だとアルンは心底呆れる。だが同時に大した男だと思わざるを得ない。誰のためでもなく全ては自分のためだと言い切ることに一切のためらいを見せない人間を、アルンは生まれて初めて見た。

「おい、何をしてる。早く行くぞ」

 いつもどおりの高圧的な口調に、アルンは今度は違う意味で呆れたのであった。

 夜の王宮は信じられないほど静まり返っていた。先導しているアルンとイーケンの足音だけがカツカツと響く。途中で数名の陸軍近衛兵と出くわしたがアルンの笛を見ると何も言わずに道を譲った。その後に壁の裏にある細い道に入ると、唐突にアルンは立ち止まる。

「大尉、これからの動きを説明しますのでよく聞いてください」

 ろくな明かりもない真っ暗な通路の中ではアルンの顔など見えようがない。相手からも見えていないだろうがイーケンは頷いて見せる。

「正面から行っては追い返されるのがオチですので裏道を使います。ここを使えばまず間違いなく夜警の目には触れないまま独房まで向かえます。さらにお伝えしますと独房には見張りはいません」

「ずいぶん無用心だな……」

「脱走しても必ず捕らえられるだけの技術と力があるので不要な人員を割きません。とは言えさすがに巡回はあります。巡回には耳が良くて夜目の利く小柄で俊敏な者が当てられますので、見つかったら必ず捕まると思ってください」

 アルンの回答に半分呆れながら問い返す。イーケンの目が暗さに慣れたせいか、少し周囲のものの輪郭が見えるようになってきた。

「分かった。全ての采配はお前に任せよう」

「ではついて来てください」

 そう言って歩き出したアルンの背中の輪郭を追いかける。通路自体はよく使われているのか動いても埃が立つことはなかったが、両脇に迫る壁のおかげで随分狭苦しく感じる。時折肩をぶつけながら歩いているうちにアルンが歩みを止めた。

「下に見えるのが独房のある建物です。この通路で地下に下ります」

 壁の一部を外側に向かって押すとそこが開く仕組みになっているようで外の月明かりが入り込む。指し示された建物は四角い形をしていて一目では何のためのものかは分からない。アルンは黙って歩き始め、しばらくするとまた立ち止まる。暗闇からアルンの声だけが聞こえた。

「ここから徐々に下ります。梯子を使いますが明かりはありません。お気をつけて」

 明かりのない中で梯子を使う恐怖はなかなかのものだった。しかしアルンは至って落ち着いている。もしかして見えているのかと問いかけると彼女は平然とした声音でそうだと応じた。昼間のようには見えないが特に困らないのだという。ここまで来ると同じ人間かどうかすらも怪しい気がしてきたが、そんなことを考え続ける前にまた違う梯子を下ることになった。

 さらに数回梯子を下って辿り着いた独房は冷気で満たされていた。夏の夜とは思えない冷気を湛えた独房の並ぶ地下の通路を松明が煌々と照らしている。それだけの殺風景な場所だった。想像以上に明るく、そして乾燥して清潔な空間にイーケンは驚かされる。

「かなり清潔な空間だな。空気も乾燥しているし換気もされている」

「冬場には暖かく、夏には涼しくなるように作られています。せっかく捕らえた者を病で死なせては苦労が水の泡ですからね」

 そう言ったアルンはとある独房の前に立った。分厚い木製の扉には大きな錠前と鎖がかけられている。彼女はその錠前を弄って取り外し、鎖も外した。いよいよ鉄製の取っ手を下げるだけという状態になってイーケンは口の中が乾いていることに気がつく。

「時間が近づいたら扉を開けます。それまではどうぞ存分に話してください」

 アルンは扉の前の場所をイーケンに譲った。イーケンは一度自身の右手を握りしめ、それから取っ手を掴む。ぐっと力を込めて下げると呆気なく扉が開き、独房の壁が見えた。

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