三章二話

「お前、よく腑分けの後に肉なんぞ食えるな」

 腑分けを終えてから夕餉を摂っていたイーケンは、目の前で辛い鶏肉を噛み切ったアルンに向かってそう言った。

「いちいち気にしていたら飢え死にます」

 薄く柔らかく蒸された小麦粉の饅頭も二つ平らげたばかりのアルンは、汁物の椀に手を伸ばす。牙月風のあっさりとして香辛料が効いている料理を、彼女は信じられない勢いで食べ尽くしている。槍使いの方は、これまた信じられない酒と大盛りの魚の蒸し料理をぺろりと胃に収めてしまった。恐ろしい健啖家ぶりである。

「大体海軍士官なんだから戦場で飯を食うこともあるだろ。そんなんでどうやって戦をするんだ?」

 腹が減っては何も出来んだろうに、と言って、今度はまだ残っていた肉に箸を向けた。

「戦死者の死体は陸戦であろうと海戦であろうと敵味方を問わず、出来る限り処理します。周辺環境を原因とする病を防ぐためです」

 イーケンは汁物以外に手がつけられていない。固形物を受け付ける気分にはなれないのである。アルンの手際は良かったが、さすがに夏では死体の腐敗も早い。死体に防腐処理を施していなかったこともあって、イーケン達はひどい悪臭に苛まされた。そこは二人も同じようだったが精神的な図太さは段違いだったらしい。

「でも、予想は当たりましたね」

 人心地がついたらしいアルンはそう言って箸を置く。イーケンもうなずいて敷物の上で組んだ足を組み直した。

「まさか本当に精製された薬を飲んでいたとは。お前もよく気がついたものだな」

芥子けしなどの薬には特有の臭いがあります。覚えていれば問題なく感知できますよ」

 腑分けの際、アルンは喉から胃にかけてを豪快に切り開いたのだ。そして口元と鼻を覆った布を引き下げたかと思うと、突然内臓に顔を近づけた。驚く男二人をよそに奇行を続け、胃の中に手を入れてかき回す。さしもの朱真も慌てたが、アルンは精製された薬を飲んでいると宣言したのだ。男達にはとんと分からなかったが、アルンの鋭敏な嗅覚は薬の臭いを捉えた。

「薬はすぎれば毒となります。そして毒は古来から暗殺の手段とされてきました。無味無臭のもの、遅効性のものなど様々な毒がありますが、その全てを理解し反応出来るように訓練されたのが我ら天竜乗りです」

 イーケンはふと思いついたようにアルンに言葉を投げかけた。

「毒への耐性があったりするのか?」

「ありますよ。子どもの頃から少量ずつ様々な毒を飲まされて育ちます。おかげで寿命はせいぜい三十と少しですがね。だから私も、あと十年と少しで墓に収まる……」

 恐ろしいことを言ったアルンは、何食わぬ顔で果物に手を伸ばした。皮を剥かれた柑橘類の香りがふわりと漂った。朱真は海老の殻をむいて、何食わぬ顔で空き皿に放り込んだ。イーケンは衝撃で動けない。

「そんなに驚かなくたっていいでしょう。建国以来我らはずっとそうして生きてきたのですよ。親の代どころか、その遥か昔から。そしてそれが我らの生き方です」

「しかし、それでいいのか?」

 イーケンの言葉を受け、アルンは目線を動かした。奇妙な空気とともに鮮烈な柑橘の香りが漂う。

「それでいいのか、とは?」

「強制的に寿命を縮められていいのかと聞いているんだ。自分の命は自分のものだろう。望んでもいないのにそんなことをされて嫌じゃないのか?」

 軍人の言葉にアルンは首を傾げる。その場に漂い始めた空気に牙月の戦士も酒盃を傾ける手を止めた。

「そうは申されましても、天竜乗りの子として生まれた以上はそうなる決まりです」

 天竜乗りは手に持った果実の実を口に放り込む。

「お前の親もそれを知っているんだろう? 何も言わないのか?」

 イーケンの険しい口調にアルンは呑気に応じた。

「父は天竜乗りの禁忌を犯した大罪人として私が生まれてすぐに殺されたと聞きました。母については何も聞かされていませんが、恐らく殺されたんでしょう。なぜ私だけが生かされているのかは、未だに分かりませんが……」

「何だ、それは」

 アルンは皮をむいたばかりの果実の実を口に放り込む。それからイーケンの薄青と焦げ茶の目を見つめた。

「天竜乗りにはいくつかの禁忌があります。そのうちの一つが、天竜乗り以外の者と血を混ぜることです。混血児は許されない存在とされています」

 言葉が聞き取れても文章の意味が分からない、とイーケンは思った。

 貿易が盛んなフラッゼには様々な国から人と物がやって来る。中にはフラッゼに定住する者もおり、そうした者がフラッゼの者との間に子どもを作ることも珍しくない。イーケン自身にも北方の異国の血が流れている。母は北方のとある国の出身で、家族でフラッゼに移住して出会った父と結婚した。異国の血を引く人々は街を歩けばいくらでも目にする。さらに今の女王の夫である暁遼は牙月の皇子だったため、王族にも異国の血が流れているのだ。

「天竜乗りは本来純血でなければならないとされています。その中で異国の女の腹から生まれた私がどう扱われるかは想像がつきませんか? つまるところ私にとって短い寿命は救いなんです」

「だがフラッゼで混血が疎まれていたのは何百年と昔の話だ。なぜそんな考えがまかり通っている?」

「天竜乗りは変わることを良しとしません。閉鎖的な一族の世界に閉じこもりすぎたんでしょう。学問の進化や変化は受け入れても他は受け入れない」

 アルンはそう言って誰も手を付けていなかった甘い果実酒の酒瓶に手を伸ばす。呆然とするイーケンを横目で見ながら適当な器に注いで飲み干した。朱真は自分の器に清酒を流し込んでから小さな声で言う。

「狭い鳥籠みてえだ」

 純粋な感想にアルンは動きを止める。その様子に気がついた朱真がアルンの目を覗き込んだ。黄昏に浮かぶ疑問の色に牙月の槍使いは問いかける。

「どうした」

「そんなことを言われたのは初めてです」

「だって狭いだろ。ほぼ全員と親戚みたいな世界で、寿命も決められて、禁忌とやらに縛られてる。広いように見えて、気味が悪いほど限られてる」

 それを聞いたアルンの目が数回瞬いた。朱真の言葉にイーケンも頷いて口を開く。

「そう言われたのが初めてだと言っていたが、それはこれまで周囲にいた人間がそう考えていなかったからではないか? 天竜乗りだけの世界で教育されていたら他の意見や世界に触れる機会は自ずと限られる。生育環境の影響だ」

「ですが狭いと感じたことはありません」

「閉鎖的な集団は外部からの余計な刺激などを遮断する傾向がある。そう思うように育てられているのかもしれん」

 イーケンはそう言ってぶどう酒の入った瓶を手に取る。その発言にアルンは渋い表情を見せた。

「そんな洗脳みたいな……」

「洗脳ではないが、自分にとっての普通が本当に普通なのかを今一度考えてみたらどうだ。考えるくらいなら怒られはせんだろう」

 切り捨てるように返してから、イーケンはアルンに目を向ける。

「今その目に見えているよりも世界は広いぞ、天竜乗り」

 突きつけられた言葉にアルンの目がわずかに大きくなった。


 翌朝、イーケンが目を覚ますと中庭から空を切る音が聞こえた。眠い頭で考えている間に、それが剣の素振りであると分かる。士官学校時代から聞き慣れた音だ。海兵隊の練兵場でもよく耳にする。しかしこの屋敷にいるのはほとんど武人のようだから、誰がやっているのか予想もつかない。

 床に敷いた寝具から起き上がり、いつの間にかここへ持ってこられていた軍服に着替える。あてがわれた部屋の外に出て中庭に足を向けた。東の雲が淡い橙色に染まりかけている。西の空は濃紺と薄青で、空気はあまり温まっていない。まだかなりの早朝であった。

(あれは天竜乗りか)

 中庭にいたのはアルンだった。細身の短剣を両手に持ち、軽やかに芝生の上を飛び回っている。その様は舞踏のようにも見えた。宙返りしたかと思うと前に向かって跳んだ。今度は高い位置に向かってしなやかな蹴りを放つ。しばらくその様子を遠目に見ていた。すると見られていた方も気がついたようで、つかつかと歩み寄って来る。

「おはようございます」

「おはよう。見たことのないものが見られて面白かった」

「天竜乗りに受け継がれる技です。単独での奇襲、狭所における多対一の戦闘など様々な状況に対応出来るように編み出されたと教わりました」

「そんなものを人に見られて良かったのか?」

「普通の人間には真似出来ません。これを身につけたかったら、まずは身体を作るところからやらねば」

 天竜乗りは軽く笑って短剣を鞘に収めた。首筋には汗が伝っている。この早朝にこれだけの動きができるということは寝起きではあるまいと思い、イーケンは当然の問いを投げかけた。

「いつ起きたんだ?」

「海軍と王宮の天竜乗りからの手紙を受け取りに行かなければならなかったので、日が昇り始める前に起きました」

「そうか」

「それと、昨日の夜に大尉が話していたことを少し考えてみました」

 意外な返事に軽く目を見開く。二人の髪を夜明けの風が撫でた。アルンは芝生に腰を下ろして空を見上げる。

「私は死ぬまで天竜乗りです。大尉の言う世界の広さを知りたくともできません。任務で忙殺されるうちに身体がおかしくなって、最後には寝台から動けなくなって死ぬと決まっています。私の人生は、私のものではない」

 穏やかな声音とは真反対の言葉だったが、隣に座ったイーケンはただ頷く。イーケンにとっては信じられなくともそれがこの若い天竜乗りにとっての現実だ。

「何もかもを忠誠という言葉一つで片付けられて、縛られて、奪われることが決まっている人生です。……大尉は月を手に入れようとした牙月の詩人の逸話を知っていますか?」

 思いもしなかった返しにイーケンは少し考えてから答える。

「月と酒を愛した詩人があるとき大河の上に浮かべた船の上で酒に酔い、川面に映っていた月を掴もうとして溺死したという話か?」

「私はその詩人で、手の届かない高い場所にある月は大尉の言った広い世界。触れたくても触れられないと思います」

「……そうか」

「月は、見て楽しむことしかできません」

 きっぱりとした言葉にイーケンは黙って頷く。年若い天竜乗りは悲観するでもなくただ考えたことを言っただけだったようで、ぽん、と自身の手を軽く合わせた。

「昨日干した紙が乾いているはずです。内容を確かめにいきましょう」

 厩舎の近くの木箱のところへ向かったアルンは、積まれていた大きい木箱を動かした。その下に挟まれていた紙を取り出し、満足そうに唇の両端を持ち上げる。

「よし、完璧な仕上がりだ」

 紙は多少血の染みが残っているものの、文字は読み取れるようになっていた。イーケンが見つけたもの以外にも複数あり、そちらも処理を施されている。

「何て書いてある?」

 食い気味なイーケンをアルンは右手を上げて制す。

「読むので待ってください」

 しばらくしてから、アルンはため息をついた。心底呆れた声音が伴ったそれにイーケンは首を傾げる。

「予想通り命令書です。しかも名前入り?」

「どういうことだ?」

「この命令書は、赤穂あこう家の若衆わかしゅである蜂谷公康はちやきみやす宛の命令書です。どうやらあの切腹した若者へのもので、彼は伝令と調査を任されていたようですね」

「伝令? まさかこの国に汰羽羅の関係者がまだいるのか?」

 さっさと逃げ出せば良いのに、と付け加える。アルンもそれにうなずいた。取引を見られたというのに国内に居座るのはおかしい。

「いるようです。伝令する相手は……、河野利昌こうのとしまさ

「調査がどういうものかは書いてあるか?」

 アルンはさらに文章を読み進める。イーケンは内容が気になって落ち着きを無くしそうになった。

「海軍内部、コージュラ、ギッシュの協力者についての調査のようです」

「続きがある」

「急かさないでください。任務につくのが決まってから三週間で覚えたのでまだ不慣れなんですよ」

 不満げな声にイーケンはぎょっとして若い天竜乗りを見る。見られた方は怪訝そうにイーケンを見つめた。

「なんです?」

「覚えるのに三週間? この複雑な言語を?」

 汰羽羅語は最も複雑な言葉とされ、習得に膨大な時間を要するとも言われている。そのため、学者や高位の人物で時間と金に余裕のある者以外は学ぶことが難しい。それが世間での認識なのだ。ところがアルンはたったの三週間で覚えたと言う。本当だとすれば信じられない速度だ。

「天竜乗りは膨大な知識を叩き込まれます。中でも異国の言葉は必須の項目です。言葉が分からなければ諜報も潜入も出来ません」

 何食わぬ顔で言ってのけ、文章に目線を落とす。黄昏色の視線が行ったり来たりして、イーケンの目に視線を合わせた。

「調査という名目ですが、実際は彼らが本当に協力するかの最終確認だったようです」

「海軍内部の協力者か。実に嫌な話だ」

 渋い表情になったイーケンは腰に手を当てる。まだ淡く明るい空を見上げ、息を吐いた。

「名前はあったか?」

「いえ、ありませんでした。大尉こそ心当たりは?」

 複数枚の紙をまとめたアルンはイーケンの前に屈んで問う。

「あるわけない。そもそも俺が知っているのは全体の一部にすぎん。自分の艦隊の上官やら直属の部下だけで恐ろしい数がいるからな。将官にもなればほとんど分からん」

「そうですか」

 話し終えたアルンは、再び命令書を読み始めた。縦書きの文章を読んでいくと、最後の行にたどり着く。黄昏色の視線が固定される。

「何があった?」

「この命令書を書いた人物が分かりました」

「誰だ?」

「桐生真奏と書いてありますが」

 それを聞いたイーケンの背中に、緊張が走った。

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