二章三話

 部屋に残された三人のうち、イーケンが声を上げた。

「おい、天竜乗り。他に客がいるようだが?」

 刀を収めた袋から取り出し、鞘の先で天井を示す。

「気がついてますよ」

 そう言って、アルンは天井に向かって短剣を投げつける。抜刀したイーケンの隣で、言葉の真意を悟った朱真は槍の代わりに腰の小刀に手を伸ばす。アルンは投げつけた短剣が天井に深く突き刺さると同時に、調度品と柱を使って天井の板を外して裏側に入り込む。刺した短剣を引き抜いてから満足気に笑った。

「大尉、そのあたりに手燭はありませんか?」

「あるぞ!」

 イーケンよりも上背のある朱真が火をつけた手燭を渡すと、アルンはしばらくしてから飛び降りて来た。

「ちょっと屋根に上がれるところを探して来ます」

 革帯に鞘に収めた短剣を固定し、廊下に出てから庭に飛び出る。身軽な動きを大したものだと思いつつ、イーケンは身構えたままその背中を追った。

「あの短剣には、しびれ薬を仕込んであるんです」

「しびれ薬?」

「ええ。見てください」

 手渡された短剣の刀身には血痕が付着している。短剣が薄い天井板を介して何者かに突き刺さった証だ。

「わずかな傷口からでも体内に入ればすぐに効き始めます。屋根裏を外へ向かって動いた痕跡もあったので、捕まえるのは早いと思います」

 自信満々に言い切り、年若い天竜乗りは雨樋を使って屋根に上がる。夕刻を迎えようとしている空は薄暗い。イーケンもアルンに続いて屋根に上がった。

「俺ァ下から追うぞ! ンなことしたら屋根が抜ける!」

 朱真の声に二人は仕草で応じる。アルンは瓦葺きの屋根の上を迷わず走って行く。

「天竜乗り、どこへ行くんだ!」

「こっちです! ついて来て!」

 アルンは街中の水路に面している方の屋根へと飛び移った。イーケンは何とか追いついているが、確かに朱真ではこんな芸当は出来ないだろう。

(あの天竜乗り、見た目よりも軽いのか?)

 そのとき、イーケンは足元を見てハッとした。光の加減もあって見えにくいが、赤茶色の瓦に点々と血痕が散っている。

(この速さで足元がよく見えるな。驚いた!)

 水路の方を見ると、イーケン達の向かう方向はどうやら下流らしい。しばらくしてアルンがその場に立ち止まる。

「いた!」

 目線の方を見れば、水路の中を泳いで渡り、対岸に上がって逃げ出す姿があった。

「朱真殿、西です! 馬で追ってください!」

「おうさ!」

 朱真は低い塀を飛び越えて、近くの馬に飛び乗る。鞍の無い裸馬は大きくのけ反っていなないたが、朱真はそれを一瞬でなだめ、夕刻の街へと馬で飛び出して行った。アルンは屋根から水路の対岸へ飛び降り、イーケンは水路に飛び込んでから這い上がって駆け出した。濡れた生地が肌に張り付いて気持ち悪いが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 朱真は馬で確実に相手を追い詰めていた。牙月人は今でこそ定住して暮らしを築いているが、古くは騎馬民族だ。馬を操る優れた技は連綿と繋がれ、この大陸において牙月人を上回る騎手などいない。

 雑踏の中を人を蹴飛ばさないように注意しながら全速力で走らせる。腹を一蹴りするとさらに速度が上がった。目の前を行く捕獲対象は血を流している。どんなに人混みに混ざろうとしたところで、幾多の戦場を駆けた男の鼻は誤魔化せない。捕獲対象は朱真の方を見て顔を引きつらせたが明らかに減速している。その様子を見た朱真はゆっくりと馬の上で身体を浮かせる。馬が減速しないことを祈って、横から槍ごと身を空中に躍らせた。追いかけていた相手は人間離れした芸当におののいてさらに逃げようとするが、その進路をアルンが塞ぐ。二本の短剣とともに肉薄され、後ろに向かって跳ねる。しかしそちらはイーケンが塞いでいた。

「詳しく聞かせてもらおうか!」

 低い声を聞かせながら、イーケンはすらりと刀を抜く。白刃が夕陽を弾き、それをかざす男の背からは異様な闘気が発せられていた。しかし相手はまだ諦めない。近くの細い路地に逃げ込む。それをいち早くアルンが追跡した。

 周囲の人々を押しのけた捕獲対象は、やがて逃げ場の無い場所へと追い詰められる。アルンは建物の屋上を伝って、朱真は障害物を弾き飛ばし、イーケンは平地をひた走った。

「ここまでだ! 諦めて投降しろ!」

 捕獲対象はイーケン、アルン、朱真に進路を塞がれる。背中側は分厚く高い石塀。逃げ道など無い。相手の服装はフラッゼのものだが、身のこなしも顔立ちも汰羽羅のものだと一目で分かる特徴的なものがある。

「命までは取らない。情報さえ渡せば国まで返してやる」

 イーケンの言葉に、若い顔は揺らがない。代わりに目線がクルクルと泳ぐ。呼吸の乱れも激しい上に、口の端に泡が見えた。

(目線が……? それに痺れ薬が効いていない。おかしい、即効性のはずなのに!)

 アルンは相手を警戒しつつ、内心では首を傾げた。

「若いの、そう思い詰めるな」

 朱真の気だるさを孕んだ声が響いた瞬間、胸元から出した短刀を一気に鞘から引き抜いた。青年は自ら腹に刃を突き立て、横に引く。アルンが慌てて飛び出し、短刀を手から剥ぎ取った。

「まずい。情報源が!」

 口からどす黒い血を吐きながら青年は地に倒れ伏す。アルンとイーケンはどうにか止血しようと躍起になったが、内臓まで達した傷ではどうにもしようがない。青年の目から光が失われた。

「くそっ!」

 近くの壁を蹴りつけたイーケンは、苛立っているのを隠さない。アルンは失意を感じさせる表情でうなだれた。

「しかし、汰羽羅の切腹とやらはいつ見ても嫌なもんだな」

 朱真がそう言うと、アルンは複雑な顔で言う。

「私は初めて見ました」

「前の征服戦争のときに俺は散々見たぞ。武士の妻子は迷いなく自害してた。あんなにためらいなく死ぬ人間がいるもんだと思ってなかったから俺の周りも驚いてた」

 その光景を思い返したのか、朱真は眉をひそめた。

「あるいは城主の腹を切って首を落とし、それを持って投降してきた。血なまぐさいことが好きな連中なのかね」

 朱真の隣でそれを聞いていたアルンの目の前でイーケンはかがみ込んで青年の服を検分する。靴や腰の革帯の裏まで確かめ、突然立ち上がった。

「吉報だ」

 衣服をいじったせいで血まみれになった両手を下げ、彼はニヤリと笑う。

「この男は隠密としては優秀ではなかったようだな」

 その手にあるのは血に塗れた一枚の紙だった。

「命令書の類の可能性がある」

 薄青と焦げ茶の目が、怪しく光る。

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