第31話 M
館山の海をすっかり満喫すると、ふたたび車に乗りこみ、今度は鴨川を目指して走り出す。
途中、寄ってみたい所はいくつかあるけれど、今回の旅の一番のメインは何といっても綾さんの従姉のお見舞いだ。
この後さらに寄り道をして、鴨川に着くのが遅くなってしまっては本末転倒だ。今日は真っすぐ鴨川に向かい、観光は明日に回そう。
国道一二八号線を東に向かってまっすぐ進む。夏らしい豊かな緑の風景を眺めていると、ふと故郷を思い出した。
「のどかでいいですね」
「こうして見ると、千葉もけっこう田舎だよね」
「日本の原風景って感じで、僕は好きですけど」
「ねえ、律くんは将来故郷に帰るつもりなの?」
予期せぬ問いが、綾さんから飛んできた。
あまりの不意打ちに、言葉がつまってしまう。
僕は将来どうすればいいのだろう?
故郷に帰って、家族と生活するのもいい。
けれども、綾さんはどうだろう?
綾さんのことを考えたら、かかりつけ医のいる千葉で生活するほうが望ましいに違いない。病気を抱えながら新たな地で一歩を踏み出すのは、相当な勇気が必要な気がした。
「今はまだなにも。ただ、千葉に残ったほうがいいのかな、という気はしています」
「どうして?」
「どうしてって。綾さんはそのほうがいいでしょう?」
しかし、綾さんは静かに首を横にふる。
「私のことは気にせず、律くんの好きなようにしたらいいよ。私が律くんの将来を縛るようなら申し訳ないもの」
「綾さんは将来どうするんですか?」
「私は、できれば在宅の仕事がしたい。文章を書いてなにか情報を発信できるような、そんな仕事につけたらなって思ってる。まだ漠然とだけどね」
綾さんは眉をハの字にして微苦笑を浮かべる。
やっぱりしっかりしているな、綾さんは。
僕より一つ年上というものあるけれど、それ以上に、自分の運命とちゃんと向き合って最善を尽くそうとしている感じが、僕なんかよりもずっと大人で輝いて見える。
「律くんの夢ってなに?」
「僕の夢……ですか?」
どうしてだろう? 今日の綾さんは僕の内面にぐいぐいと踏みこんでくる。
自然豊かなのどかな風景が綾さんの心を開放させるのか? はたまた、車内に二人きりという状況が綾さんを饒舌にさせるのか?
もしかしたら、旅に出ているというこの特別な非日常が、普段はあまりしない会話を綾さんにさせているのかもしれない。
「実は、僕にはこれといった夢がなくて。ただ働いて、お金を得て、綾さんを幸せにできたらなって。それだけなんです」
「気持ちは嬉しいけど、律くんはそれでほんとうに幸せなの? 私のためを思ってくれるのは嬉しいよ。でも、私は、律くんには律くんが主人公の物語を生きてほしい」
「僕が主人公の物語?」
綾さんが固い表情でうなずく。
「律くん、いつか言ったよね。私の侍者になり切るって」
幕張まで一緒に雪斗のライブを見に行った時の話だ。
あのライブは綾さんの宿願とでも言うべきもので、僕は綾さんのお供のような立場だったから、ついそんな言葉を口走ってしまったのだった。
けれども、綾さんの耳の奥には印象深く刻まれていたらしい。しかも、綾さんの雰囲気から察するに、あまり良くない印象として。
「律くんはいつも私に付き合ってくれる。でも、さっきも言ったけれど、もし私が律くんを束縛しているのなら、それは嫌」
「束縛だなんて」
「だって、そうじゃない。木更津のアウトレットに行ったのも、幕張のライブに行ったのも、今こうして鴨川に向かっているのも、全部私が言い出したことじゃん。律くんは優しいから、なんでも私に付き合ってくれる。でも、これじゃフェアじゃないよ。私は律くんにもっとわがままを言ってほしい。もっと自由に、律くんのしたいことを表現してほしい」
「それで、僕に夢を聞いたんですか」
「うん。やりたいことがあるのなら、私に構わず全力でやってほしいから」
綾さんの愛情が、僕の胸に染みわたる。
僕は僕なりに、綾さんのことをずっと考えてきたつもりだった。
けれども、僕なんかよりもさらに真剣に、綾さんは僕のことを考えてくれていた。
やっぱり、僕は綾さんにはとうてい敵わない。年は一つしか変わらないのに、精神的には子供と大人くらい違う気がした。
「律くん、運命は過酷だよ。どんなにやりたいことがあっても、身体が言うことを聞かない時だってあるんだよ。私の従姉だってそう」
「綾さんの従姉の方って、どこが悪いんですか?」
「たぶん精神的なものだと思う。何年か前に台風の被害に見舞われて、その傷も癒えないうちに今度は未知のウィルスだもの。おかしくなっても不思議じゃないよ」
そういえば、ここに来るまでにも、屋根の一部がブルーシートにおおわれた家を何軒か目にしたっけ。家屋の破損だけでなく、断水や停電もあったろうし、ニュースではゴルフ練習場の鉄塔が倒れたって報じられていたっけ。台風の被害だって、まだ風化させてはいけない問題なんだ。
思えばこの十年、大きな災害が僕たちの生活をおびやかしてきた。大震災、台風、洪水、ウィルス……。僕たちの生活はいつも危険と隣り合わせで、だからこそ、今ある幸せを当たり前と思わず、感謝しなくちゃいけない。
『運命は過酷だ』ともらす綾さんの言葉には説得力がありすぎて、もっと真剣に将来のことを考えなくちゃ、という気にさせられる。
けれども、もしこうして綾さんと出会えたことも『運命』なのだとしたら――けっして悪いことばかりでもないような気もするのだった。
それに、綾さんは一つだけ、大きな勘ちがいをしている。
「安心してください、綾さん。僕はちゃんと自分が主人公の人生を生きていますから」
「そう?」
「ええ。僕は物語の主人公となって、これからも綾さんに尽くします」
「……はい?」
綾さんが間の抜けた声を発する。
「それじゃ、なんだい? 律くんが思い描く物語の主人公は、私に忠義を尽くす執事のようなものなのかい?」
「いけませんか?」
「律くん、私が呼び鈴を鳴らしたら飛んで来てくれる? どんなわがままを言っても、優しく受け入れてくれる? もし落ちこんでいたら、甘くささやいてくれる?」
「が、頑張ります」
綾さんは嬉しそうな困ったような複雑な表情を浮かべ、小さく息を吐く。
「あのさ。言いにくいんだけど……。律くんってMだよね?」
「えっ?」
思いがけない言葉を投げかけられ、さすがに戸惑う。そんなこと、これまで言われたことも考えたこともなかった。
「時にはSになって、もっとわがままを言って、ふり回してくれてもいいんだよ?」
「SとMの定義がよく分かりませんが。もしかして、綾さんは強引なほうが好きなんですか?」
「べ、別にそういうわけじゃないけどっ。でも、たまにはそういう時があってもいいよって話っ」
顔を赤くして、もじもじと焦ったように告げる綾さん。
こういう少女のような可愛らしい反応をされると、つい冗談の一つも言ってみたくなる。
「じゃあ今夜、綾さんに強引に迫ってみます?」
「なぜ私に聞く」
「だって、綾さん、そういうの好きみたいだったから」
「そりゃあ、そんなことされたらドキドキしちゃうだろうけど。でも、事前に聞かれたらドキドキも半減だよ。そういうのって、何の予告もなしにいきなり来るからいいんじゃん」
「あの、綾さんのほうこそMってことはありません?」
「うるさいな。律くんはもっと乙女心を知るべきだよ。いかに私が待ち焦がれてカラカラに乾いているか、律くん分かる?」
「あ、すみません。喉乾きました? たしかお茶のペットボトルがあったはず」
「そういう話じゃないんだよなあ」
「?」
綾さんが額に手を添え、はあーっ、と悩ましげにため息をつく。
そうこうするうちに、車は鴨川市街へと到着した。
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