追放されたヒーラー魔術師、ソロプレイに挑む

ガブロサンド

ランクアップ試験

「いってらっしゃい」


朝聞いた声が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った瞬間、前髪に棍棒がかすめた。

目の前には、体より大きな鈍器を持った一つ目巨人たちが大勢いた。サイクロプスの住処に入り込んだレグ達は、彼らの格好の獲物だった。


大人しく柿を拾っておけばよかった、とレグホーンは思った。


■■


数時間前、レグの所属する冒険者パーティ――パンテラは西の古代遺跡にやってきた。

今回の依頼は簡単なものだった。古代遺跡に生えている千年柿の採取である。


彼らが柿の群生地にたどり着いた時、木の下では多くの動物たちが舌鼓を打っていた。1000年に1度、やっと熟した柿の幸せな匂いが、そこら中に漂っていた。


その匂いを切り裂くように、パーティのリーダーであるマロウが飛び出した。殺気を出しながら大きな斬馬刀を振り回すと、たむろしていたキツネやシカ達が散り散りになって逃げていく。


「お前ら、さっさと集めろ!」


マロウは自慢げに笑いながら、残りのメンバー4人に指示した。


「相変わらずだな、リーダー様はよ」


獣人であるロイドが、レグの隣で溜息をついた。白い大きな犬がそのまま人型になったような体に、不快さがにじんでいる。レグは肩をすくませた。

ロイドはマロウに近寄って笑顔を浮かべると、軽快に巨木を登っていった。


「猫族に転職しようかな」などと冗談を言いながら柿をむしり、下に投げていく。


下では、召喚士のローズが召喚した鳥たちが待ち構えていた。落ちてきた柿をカゴに運ばせるのだ。黒い長髪に魔力が宿って、青く光っていた。

残りの一人、筋肉男のガンは、近くの木を揺らして実を落とそうとしていた。木の幹がグワングワン揺れている。

柿に激突されたくないレグは、少し離れたところで落ちている柿を集めることにした。潰れていないものを選んで、背負ったカゴに入れていく。


背の高い草むらに分け入った時、レグは目を見張った。


子ギツネが目を真ん丸にしてこちらを見ていた。口に咥えていた大きな柿がポロリと落ちて、足元に転がってきた。どうやら、柿を運ぼうとして逃げ遅れたらしい。


レグは柿を拾い上げると、しゃがんで子ギツネに差し出した。

子ギツネは腰を引いて体を縮こまらせながら、じっと柿を見つめた。そして、さっと柿をかすめ取ると、身をひるがえして草むらに消えていった。


「レグ! 魔力回復しなさいよ!」

「ああ、悪い」


大声で呼ばれ、レグはローズのもとに向かった。

彼女は少しの魔力減少も我慢できないたちだった。サポート系魔術師であるレグは、ローズの魔力を回復するために魔法を発動した。


「相変わらず時間かかるわね。他のヒーラーならこれぐらい一瞬よ」


ローズが不満げに腕を組んだ。レグは曖昧に笑った。


「千年柿の納品依頼なんて、いいやつを見つけてきたなあ、ロイド」


マロウが上機嫌に言った。


今回の採取依頼は、ロイドが探してきた。西の砂漠は立ち入り制限区域で、Bランク以上の冒険者が所属するチームでなければ入れない。楽なのに高報酬のコスパのいい依頼なのである。


「ほんとに、いつもどこから見つけてくるんだ?」

「鼻がいいからね!」


ガンの問いに、ロイドは犬歯を見せて笑った。


「レグ、全員分体力を回復しとけ。まだまだ採らないとといけないからな。他の奴に横取りされる前に」

「でも、依頼分はこれで十分ですよね?」


レグが言うと、マロウが鼻で笑った。


「つまらないことを気にしやがる。黙って集めろよ。取れば取るだけ売れるんだからな。まだ文句あるか?」

「……いえ」


なるべく急ぎながら、仲間たちにヒールをかけていく。実際、レグのヒールは、他のヒーラーに比べて少し時間がかかるのだ。

ただ、ロイドだけはすぐに元気になって、体を伸ばし始めた。さすが獣人の回復力だ、とレグは思った。


少しの休憩を挟んで、レグはまた柿狩りを再開した。そうして――その穴を見つけた。

ぽっかりと開いた、洞窟の入り口だった。周りには柵が立っていて、侵入禁止の赤文字看板が立っている。


眺めていると、近くにいたロイドが寄ってきた。


「なんだこれ……なあレグ、入ってみようぜ」

「おい、立ち入り禁止エリアだぞ」

「何があるんだろうな? 気になるじゃん」


ロイドが鼻をぴくぴくさせながら言った。すっかり前のめりになって、洞窟の中を覗き込んでいる。


「おい、待てよ」


レグホーンはうんざりした顔で後ろを振り返った。


「あんまり離れると、マロウがまた不機嫌になるだろ」

「ちょっとだけだって」


強く止めればよかったのだ。そうすれば、サイクロプスにこんばんはすることもなかったのに。


■■


周りを取り囲む、一つ目の巨人。

その巨体に囲まれると、まるで高い崖を下から見上げているような気分だった。


「ロロロロロイド!」

「ついてこい、逃げるぞ! 落ち着いて、もし何かあったらヒール頼む!」

「わ……わかった!」


二人は来た道を急いで戻った。サイクロプス一匹の討伐は、最低でもB級冒険者2人は必要である。しかもこの数では、太刀打ちできるわけがなかった。


後ろから、サイクロプスの怒声が聞こえてくる。地を揺らす足音を振り切るように、二人は走った。


外の光が見えた――と思った時、目の前に別のサイクロプスたちが立ち塞がった。


「囲まれた……!」


ロイドはレグと壁を背にして、サイロプスとにらみ合った。毛を逆立たせ、爪をむき出して戦闘態勢に入る。


死を覚悟した、その時――怪物たちが、ばたりと倒れた。

開けた視界に、一人の男が立っているのが映り、レグは目を見張った。


「グラン、さん……!」

「ここは立ち入り禁止だけど」


男の制服のロゴにあしらわれた星の刺繍が、暗い洞窟の中で輝いている。S級の証だ。

床のサイクロプスたちは皆、いびきをかきながら眠っていた。


ロイドが小声でレグに聞いた。


『レグ知ってんのか?』

『S級唯一のヒーラー魔術師だよ!』

『ああ、レグが大ファンのソロプレイヤーか……サイクロプスが寝たのは?』

『グランさんはアタック系もサポート系もカバーする魔術師なんだよ! 浄化も出来るんだよ! ヒーラーには常識!』

『ヒーラーじゃねえから知らねえよ……』


二人が小声で話していると、グランが近寄ってきた。


「今繁殖期だから、サイクロプスはピリピリしてるんだ。間に合ってよかった」


どうやらロイドが救援連絡をしてくれたらしい。それで、この辺りの管轄をしているグランが来たようだ。


「ここが立ち入り禁止なのは、サイクロプスがいるからですか?」


ロイドが聞いた。グランが頷く。


「そうだよ……と言いたいところだけど、それは嘘。実はここに、古代兵器が眠ってるんだ」

「古代兵器?」


グランがちょいちょいと手招きしながら、奥に進んでいく。レグ達は地面の巨人を避けながら付いていった。


横道を少し歩いたところで、広い空間に出た。真っ暗なその場所の空気はひどく冷たく、誰もいないのにピリピリとしていた。


闇に、グランが魔法で明かりを飛ばす。光に照らされ、真ん中に鎮座するが浮かび上がった。


巨大な頭蓋骨が斜めに埋まっていた。


見上げても頭のてっぺんが見えないほどの大きさだ。目があるはずの所はぽっかりと開いていて、鼻の半分から下はほとんど赤土に埋まっており、びっしりと苔がついている。時間の経過を感じさせた。


近づくと、表面が錆で埋まっているのが分かった。どうやら骨ではなく機械のようだ。


光に照らされて伸びた影が、壁に写っている。それがひどく不気味で、レグは身震いした。


「いつの時代に誰が作ったかは諸説あるけど、はっきりとはわかってないね。発動条件も不明。謎に包まれた、古代文明の生き残りさ」


グランは、壁の人間の絵を手でなぞる。砂が落ちて、地面に消えていった。


「近寄るものに災いをもたらし、病を振りまく。文献には、興奮・錯乱、幻覚を発症、最期には呼吸困難で例外なく死に至った。そう残されてる」

「これ、人の頭蓋骨の形ですよね? なら人間が作ったものでしょうか?」

「どうだろう。災いを、自分の種族の形で作るかは疑問だけど」

「確かに……」


ロイドが近くの段差に座って、じっとそれを見つめている。

グランがつぶやいた。


「これを作った奴は……すごく世界を憎んでたのかもしれないね」


レグも近くの壁を見た。血を吐いた二本足のネコらしき絵と、湖から逃げようとする二本足のシカが書かれている。おそらく、獣人の姿だ。


「子供の落書きみたいだけど……」

「おいおい、幽霊が聞いてるかもしれないだろ」


レグのつぶやきに、ロイドが突っ込んだ。グランも笑う。


「はは、一応貴重な資料だからね。あのね、恐ろしいことに、動力源は健在なんだ。だからここは立入禁止。いつでも見張ってるから、もう入らないようにね。……この地域はそういうのが多くてさ。歴史と生きる街、なんて自称してるんだよ」


■■


3人が外に出て、明るい光に目を細めていると、早速罵声が飛んできた。


「てめえら! なに持ち場離れてんだ!」

「やあ、君がリーダー? ごめんね、俺が捕まえてたんだよ」


グランが二人の前に立って、マロウに笑いかけた。


「アッいいいいえ! S級殿に文句なんて!」


マロウは顔を青くして、取れそうな速さで首を降った。


「そう。そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな? 必要な分は取れてるだろう?」

「アッもちろんですとも! お、お前たち、引き上げるぞ!」


■■


依頼後のミーティングを終えて、レグとロイドは集会所近くの酒場にいた。

依頼完了後は、酒場で二人で食べるのが習慣だった。


注文してすぐに、出来立ての料理が運ばれてきた。肉と肉と肉と、心ばかりの野菜である。

ロイドが骨付き肉にかぶりついて、幸せそうな顔をした。


「ひやひやしたけど、まあ飯が上手けりゃそれでよし!ってな」


明日も頑張れるぜ!と言ったロイドを、レグは半目で見た。


「お前があんなとこ行こうって言いだすからだろ……」

「悪かったよ、ほんとに! でも、おかげでグランに会えたろ? 喜んでたくせに」


レグホーンはムッとした。図星なのを誤魔化す為に、骨付き肉にかぶりつく。


「やっぱS級かっこいいよなあ……」

「そうだな」


彼らが所属しているのは、冒険者ギルド、アルマンディンである。創設して10年ちょっとでありながら、1000人ほどの冒険者が所属する大型ギルドだ。


ギルドとは、依頼主から依頼を受け、冒険者を紹介する組織だ。

冒険者には、能力評価の為にS級~E級までの階級がつけられ、ランクごとに受領できる依頼範囲が変わる。一番下のE級は採取依頼と弱モンスターの討伐が中心で、報酬も低い。しかし、ランクが上がるごとに高難易度依頼を受けられるようになり、ギルドから拘束費も支払われるしくみだ。


S級だけはギルドから直接雇用されており、A級では対処できない依頼の消化に加え、ギルド側の人間として冒険者の活動地域の管理や人材育成を任されている。

現在、アルマンディンで認定されているS級は7人のみだ。全員、創設時の初期メンバーである。


レグホーンは、制服のくすんだ灰色の紋章を見た。


「俺もいつかS級になるんだ」

「俺もだ。まずは来週のランクアップ試験! 頑張ろうぜ」


レグとロイドはD級冒険者である。リーダーであるマロウがB級冒険者のため、チームはB級依頼まで受けることができていた。


ランクの低い冒険者たちは、ランクアップ試験を受けてランクが上がるまでは、パーティを作って協力するのが普通だった。

また、ランクアップ試験は、ソロプレイヤーとチームプレイヤーで受験資格が違う。ソロでは、既定の依達成頼ポイントを溜めなければいけない。しかしパーティに所属していれば、リーダーの推薦だけでいいのだ。


「ああ~今年受からないと、ミアにまた怒られる」


レグホーンが言うと、ロイドがげらげら笑った。


「相変わらず嫁さん怖いんだなあ! まああの美人に本気で怒られたら俺もビビるわ。美人の怒り顔怖えーよな」

「笑い事じゃないんだよ。落ちたら離婚されるかもしれないし」

「はは、厳しー」

「ま、きっと大丈夫さ! それより、今日の主役だ」

「おっと忘れる所だったぜ」


ロイドが、鞄から千年柿を取り出した。今回のお土産として、チームメンバーに一つずつ配られたのである。

レグも半分に割った柿を取り出した。もう半分は家に持って帰るため、保存魔法をかけている。

二人は目を輝かせながら、息を合わせてガブリと噛み付いた。


「うまあ!」


溢れる果汁はお菓子のように甘いのに、鼻に抜ける香りも後味も爽やかで、しつこくない。果肉はしっかりと弾力があり、いくらでも食べられそうだった。


(ヒール効果もあるのか!)


体が温まり、力がみなぎってくる感じがした。感動を言葉にしようとロイドを見ると――ロイドはなにやら複雑な顔をして、柿を咀嚼していた。


「ロイド? 口に合わなかったか?」

「ああ、ちょっと……うま過ぎてこの世の物じゃないのかもしれないと考えてた」

「なんだそれ!」


レグはげらげらと笑った。


ふいに、酒場のドアがバタンと開いた。酒場の客が一斉に顔を上げる。

柿のいい香りが、一瞬で霧散した。


「よお、楽しそうだな」


乱入者――マロウとガンが近寄ってきた。後ろに、知らない男を一人連れている。


「やあ、さっきぶりですね」


ロイドが明るく返した。マロウは鼻で笑うと、レグを見た。


「レグ、いい話がある。新しいヒーラーが決まったから、お前はクビだ」

「はっ?」


素っ頓狂な声が出た。ロイドもぽかんとして、マロウを見ている


「なん、なんでそんな!」

「新しいヒーラーを見つけたんだ。いやあ、引き抜きには時間がかかったけど、ちょうどいい時期に来てくれたよ」

「ま、待って! 俺は今までちゃんとやって来たでしょう?!」


レグが立ち上がって叫ぶと、ガンが笑った。


「レグ、お前は所詮、引き抜くまでの替えだ。繋ぎに使ってただけさ。お前のヒールは、タンクである俺に合わねえんだわ。しかし、こいつは違うぞ」


彼は自慢げに、後ろの男を振り返った。


「俺はこのチームに来る前、こいつと組んでたんだ。タイミングが悪くて一緒に移籍できなくてな。やっと二人揃うってわけだ」

「そんな……なあ、待ってくれ! せめてランクアップ試験が終わるまで……!」

「お前の分申し込んでないから」


二の句が継げずに、レグは立ちすくんだ。

マルロとガンが、芝居がかったように話し始めた。


「個人申込みはいつだったっけか〜?」

「へへへ、リーダーは忘れっぽいなあ。それはなあ、今日だぜ、リーダー」

「おっとしまった、忘れてたなあ。もっと早く言えばよかったな、レグ」

「ほら、早くいかねえと窓口閉まるんじゃねえの?」


レグは呼吸が荒くなるのを感じた。頭がぐらぐらする。笑い声がずっと反響して――これ以上この場所に居たくなかった。


「レグ! 待て!」


ロイドの声も耳に入らず、レグは酒場を飛び出した。


■■


夜の空には、分厚い雲がかかっていた。冷たい空気から逃げるように、ギルドの集会所の扉を開いた。

集会所は依頼を探したり、手続きをする場所だ。中はうんざりするほどの人で混み合っていた。番号の書かれた木札をとって、レグはジリジリと順番を待った。


「はい次の方。ああ、ランクアップ試験の申し込みですね。個人申し込みでしたら、この赤枠の中を記入して、一番下の参加要件を呼んでサインしてください」


受付嬢が用紙を差し出してくる。

先に参加要件を読んだレグは、手を止めた。


「参加必要ポイント……10万ポイント?!」

「ああ、確認は当日行いますので、まだ足りてない分は申し込んでから溜めても構いませんよ。こちらとしても、依頼は多めに貼り出すつもりですから」

「そう、なんですか……」


レグはちらりと脇のボードの依頼書を見た。報酬金とは別に支払われる依頼達成ポイントは、Dランク一件で平均3000ポイントだ。一週間で10万ポイント溜めるには、少なくとも一日5件こなさなくてはいけない。1件2時間で終われば不可能ではないが、そんな簡単にはいかないだろう。

それに、レグはヒーラーだ。ポイントの高い討伐依頼を一人で行けるほどの戦闘力はない。


依頼ポイントは、元チームに分けて貰う事はできる。だが、マルロが分けてくれるとは思えない。

彼らはきっと、こうなるのを分かっていたはずだ。頼みに行けば嘲笑い、頼まずに試験を受けられなくても愉快に違いない。


レグはのろのろとペンを動かした。最後のサイン欄で手を止め、押し黙る。


「どうされました?」

「いや、ちょっと……持ち帰ります」

「承知しました。24時まで受け付けておりますので」


レグは足取り重く外に出た。用紙をまっぷたつに破り捨て、うつむいたまま歩き出した。


■■


レグの家は、集会所から1時間ほど離れた所にある。

それなりの広さの家には、畑と武器庫が併設している。台所の窓から光が漏れているので、ミアは家にいるのだろう。


彼は、家の扉を開けられずにいた。


この扉を開いたら、ちゃんと言わなければいけない。しかし、ひどく気が重かった。

やがてレグは決意して、取っ手に手を伸ばした。


玄関は暗かった。壁に取り付けられた魔法石を操作して、灯りをつける。

靴を脱いでいると、台所につながるドアが開いて、ミアが顔を出した。ぱっと笑い、金髪を揺らしながら駆け寄ってくる。


「遅かったね」

「ちょっと……あ、鞄忘れてきた」

「それなら、ロイドさんが持ってきてくれたわよ。急にいなくなっちゃったからって……何かあったの?」


彼女が首をひねると、


「あ、いや……何も」


レグはさっと否定した。


レグは居間に向かう。

後ろからついてきたミアが、玄関の明かりを消した。


「もう、節約してっていつも言ってるでしょ」

「うん……」


居間に置かれたとまり木に、三ッ目の鷹がとまっている。元冒険者であるミアの相棒、チャイだ。今は近所の子供の遊び役になっている。


「ただいま、チャイ」


チャイはじろっとレグを見た。いつもなら頭をつついてきたり、彼の黒い髪の毛を引っ張って遊ぶのだが、今日は大人しい。鉄灰色の瞳が心の底まで見通している気がして、レグは部屋に引っ込んだ。


さっきの決意はどこかに消え去ってしまった。大丈夫、後で言おう、と思い直して風呂に入り、物思いにふける。

気付くと湯舟は冷え切っていて、レグは風呂から上り、着替えた。


包丁がまな板に当たる音がしている。ミアが台所で明日の食事の用意をしているようだ。


「ミア、その……いつもありがとう」

「何、急に? 浮気でもしたの?」


ミアが笑いながら言った。


「あ、あの……聞いてほしい話があるんだ」


レグは今日の経緯を説明していった。でもその声はどんどん小さくなって、最後は蚊の泣くような声になった。


ミアは最後まで黙って話を聞いていた。それから頷いた。


瞬間、手が空を切る音がして、右頬に痛みが走った。ああ、これは離婚へのゴングか、とレグは泣きそうになりながら思った。


「弱気になってるんじゃないわよ!」


ミアは目を吊り上げて、レグを指差して言った。


「あなたのS級へのこだわりは知らないけど、夢なんでしょ。頑張って来たんでしょ!何諦めてるのよ?!」

「だ、だって、一週間しかないんだ!」

「一週間しかないじゃない、まだ一週間もあるのよ! 最後まであがきなさいよ! 試験に受かって、人を貶めて笑ってる奴らなんか見返してやりなさいよ! そしていつか追い抜いて、笑い返すの!」


勢い良く言い、それから息を吐いて、ふっと笑った。


「ね、大丈夫よ。私も冒険者に復帰してポイント集めるわ。少しは足しになるでしょう?」


「……うう、わかったよ。頑張るよ……ごめん……」


レグは泣きそうな声で言った。

ミアも何やら、ばつが悪そうにしている。


「その私も……ぶって悪かったわ……」

「ううう……ミア好き!!」

「ちょっ、急に抱き着かな……鼻水!鼻水が服に!こ、この、離れ……離れなさい!!」


バッチーン!といい音が響いた。レグはにこにこしながら、頬を冷やした。


「そういえば、申し込みはいいの?」

「あ、行かなきゃ!」


レグは焦りながら、急いで家を飛び出した。


■■


深夜の集会所はすいていた。夜に帰ってきたのであろう冒険者が休んでいるくらいだ。受付には、老婆が座っていて、暇そうにうたた寝をしていた。

24時まで、あと十分ほどしかない。レグは急いで受付に飛びついた。


「あの!ランクアップ試験の申し込みをしたいんですが!」

「んん、セールスなら別の窓口……ぐう」

「ランクアップ試験の申し込みしに来ました!!」


カチリ、と長針が動く音がした。レグは背後の時計と老婆に、何度も視線を走らせた。

老婆は目をしばたたかせ、耳をこちらに向けてまた問い返してきた。


「何の試験だって?」

「ラ・ン・ク・ア・ッ・プ!」

「ああ、わかったわかった。ええっと用紙はどこだったかねえ……」


老婆は大量の用紙を取り出して、一枚一枚眺めていく


「早く!早く!」

「待ちなさいって……ああこれだったかねえ」

「おばあちゃん! 手伝うよ!」


老婆から束を半分受け取って、ぱらぱらとめくっていく。目当ての用紙を見つけ、声を上げた。

「これこれ!」

「ああ、じゃあペンを……」


造花が飾られたピンクのファンキーなペンを受け取り、急いで書き込んでいく。老婆はのんびりしながら話しかけてきた


「そのペンは孫がくれたものでねえ……そうそう、ペンと言えばうちのおじいさんが、この前ペンの場所が思い出せないって言っててねえ、まあもうそんな年かしらと思っちゃって……」

「そうなんだ! 書けたよ!」

「話を聞きなさいよ……それでねえ……」

「おばあちゃん、後で聞くから!」

「はいはい、じゃあ申し込んどくからねえ」

「おばあちゃん、ちゃんと申し込んでよ! もう時間がないんだ!」

「分かったよ、まったく」


老婆がしかめっ面をして立ち上がった瞬間、用紙が手をすり抜けて地面に落ちた。老婆は気付かず、奥に引っ込もうとしている。


「最近の若者はねえ……老人を敬う気持ちが……」

「おばあちゃん! 紙落としてるから!」


それから10分ほどして、ようやく受験札を受け取ることができた。申し込み完了の証明である。老婆が戻ってくる前に12時を迎えたので、待っている間、レグは気が気ではなかった。


その後、のんびりとしている老婆の話をたっぷり30分ほど聞いた。老婆は最後に、レグに言った。


「頑張りなよ」

「はい!」


レグは受験札を握り締めて、しっかりと頷いた。

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