素晴らしい劇場

烏川 ハル

前編

   

 ワインレッドの絨毯を踏みしめながら、ビロード張りの椅子が並ぶ中を進んでいく。

 周りを見渡せば、木目調の茶色い壁や天井が視界に入る。劇場としてはありふれた内装かもしれないが、私には特別素敵に思えてしまう。

「さあ、こちらです。お連れの方々も、どうぞ」

 面長の支配人に案内された先には、最前列の招待席があった。

 友人たちと共に腰を下ろすと、胸のうちに広がるのは「いよいよだ」という感慨。

 本日ここで、私の作品が上演されるのだ。



「当劇場で上演する舞台劇の脚本をお願いできますでしょうか」

 というメールが舞い込んだのは、二ヶ月前の出来事だった。

 もともと私は、趣味として小説投稿サイトで書いていた素人作家だ。読者にとって面白いかどうかは別にして、自分が好きなものを色々と投稿しており、筆の速さにだけは自信がある多作タイプだった。

 そうした作品の一つが運良く出版社の編集の目に留まり、作家デビューも成し遂げたが、売れ行きは芳しくなかった。書籍版は一巻だけで打ち切りとなり「また機会があれば別の作品で」と言われたけれど、しょせん社交辞令に過ぎないとわかっていた。実際その後、あの編集さんからはメールも電話も一度もなかった。

 こうして素人作家に戻った私は、再び小説投稿サイトで執筆を続けていた。ただし、一度は作家デビューしたという矜持から、プロフィール欄に「執筆依頼はお気軽に。お仕事募集中です」と書いておいたのだが……。

 まさか、本当に依頼を受けるとは!


 メールのやりとりを数回重ねた後、実際に依頼者と会うことになった。

 劇場の支配人だという男は、私よりも少し年上で四十前後。すらりとした体を、灰色の背広で包んでいた。

「早速ですが……」

 挨拶もそこそこに、男は用件を切り出した。

 彼の劇場は、既存の脚本ではなくオリジナル劇だけを上演する。一つの芝居の公演期間は二、三ヶ月であり、劇場付きの作家には毎年数本書いてもらっていた。しかしその作家が急病で亡くなり、新しい専属作家が必要になったという。

「来月いっぱいは今の上演が続きます。ですから先生には、まず二ヶ月で新作を用意していただき、その後、年に何本かのペースで書き下ろしていただきたいと考えております」

 大方の話はメールで聞いていた通りであり、執筆期間に関しては問題なかった。それよりも気になったのは、なぜ私に白羽の矢が立ったのかという点だ。

 筆の速さを見込まれたというのは想像がつく。だが、それだけでは理由にならなかった。いくつかネットの小説投稿サイトを見て回れば、私くらいの速筆作家も結構見つかるだろう。

 そもそも、今まで私が書いてきたのは小説であって脚本ではない。メールでは「先生の作品を読んで『ぜひこの人に!』と思ったのです」と言われたが、それもおかしな話だった。私が出版した小説はいわゆるライトノベルであり、私が思う舞台芝居のイメージとは大きくかけ離れていた。

 実際に会ったこの機会に、その点を尋ねてみたところ……。

「誤解させてしまったようですね。私が読んで感銘を受けたのは、先生が出版なさった作品ではありません。小説投稿サイトに掲載しておられる様々な作品です」

 具体的な作品名をいくつか挙げてくれたが、どれもライトノベルではなかった。ジャンルとしては現代ドラマやホラーばかりであり、もともと私が目指していた文芸路線の作品たちだ。

 なるほど、それならば芝居として上演するにも相応しい気がするし、そうした作風が求められるのであれば、私としても俄然やる気が出てくる。

 小説と脚本という形式の違いなんて、もはや些細な問題だ。

 こうして彼の依頼を快諾した私は、舞台作家としての第一歩を踏み出したのだ。



「ねえ、恵美。劇場の観客って、思ったより少ないのね」

「駄目だよ、優子。そんなこと言ったら失礼でしょ」

 連れの友人たちが交わす言葉を耳にして、私の意識は現実に戻された。

 二人に視線を向ければ、のんきに客席を見回す優子と、覗き見るような目でこちらの顔色を窺う恵美。

 少し無神経な優子の発言に対して、当の本人ではなく、恵美の方が申し訳なさそうな表情を浮かべている。私は気にしていないと示す意味で、穏やかに笑ってみせた。

 優子だって悪気はないはずだ。ただ無邪気に「芝居の初日ならば客は押し寄せるはず」と思っていたのだろう。

 しかし劇場も役者も脚本家も、知名度の低いものばかり。これくらい客が入っていれば十分ではないか。

 満席には程遠いものの、半分以上は埋まっていた。これほど大勢が私の物語を見に来てくれたのだから、それだけで大満足だった。

「ちょっと寒いよね。冷房効きすぎじゃない?」

「仕方ないよ、優子。映画館とか劇場とかって、そういうものだから……」

 という会話も聞こえてきた。

 確かに私も、少し背筋が寒くなるような感覚はある。しかし同時に、観客たちの顔を見ていると、芝居を楽しみにしている熱気も伝わってくる。

 こうした反応も、作者である私を喜ばせる点だった。

 そして、いよいよ舞台の幕が上がり、役者が舞台に登場する。

   

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