第4話 天狗の目覚めた夜の事【後】




 義経は一応刀を構えるが、知章は手ぶらだ。一見して普通の現代の男の子という感じで、お世辞にも強そうには見えないが、平氏の連中は御霊の力を使えるらしい。油断は出来ない。


「昼間、教経ってのに襲われたんだけど、あいつの友達?」


 教経の名前を出すと、知章の眉がぴくりと動いた。そして、忌々しげに舌打ちをする。どうやら、あまり仲はよろしくないらしい。


 構えも取らずに突っ立っている知章に、義経は先手を打つべきか迷う。だが、次の瞬間、体にずしんとした衝撃が訪れ、背中に激痛が走った。

 目の前にいたはずの知章が、一気に遠ざかった気がした。


「あうっ……」


 背中が壁に当たっていることに気づく。知章が遠ざかったのではなく、自分が後ろに飛ばされたのだということをようやく理解した義経は、取り落としそうになった刀を慌てて掴み直した。


(何だ、今の……)


 弾き飛ばされるというよりは、重い物にぶち当たられた感じだった。トラックに跳ねられたらあんな衝撃なのかもしれない。


「の……教経と、同じ力……?」


 江三郎が教経に吹き飛ばされた時のことを思い出して呟くと、知章が不快そうに顔を歪めた。


「あいつと一緒にするな」


 倒れそうになるのをなんとか堪える義経に歩み寄って、知章が掌をかざした。


「強いのはあいつの方だがな。僕の力の方が「重い」んだ」


 知章がそう言った途端、義経の体が床に叩きつけられた。みしみしと骨が軋む音がする。


「ぐえ……」


 まるで、巨大な岩に押し潰されているような、いや、自分の全身が鉛になったような感覚で、内臓が圧迫される。


 呻く義経を冷たい目で見下ろして、知章が言う。


「さあ、天狗の力を見せてみろ」

(……天……狗……?)


 薄れそうになる意識の片隅で、その言葉を思い浮かべる。教経にも同じことを言われた気がする。


(天狗の力って、なんだ……なんで、僕に……)


 義経には、意味がわからなかった。



「義経っ!」


 弟の惨状に、範頼はなんとか戒めから逃れ助けようともがくが、紙の鎖はまったく千切れない。


「無駄無駄。大人しく見てろよ。殺しはしないからよ」


 能宗がからかうような調子で言う。

 範頼はきっと能宗を睨むが、ふと、頼朝が何も言わないことを不審に思ってそちらへ目をやった。頼朝は冷静な表情で義経を見守っている。範頼は眉をひそめた。

 考えてみればおかしいのだ。頼朝が、こんな容易く捕まったままでいる訳がない。ましてや、義経が痛めつけられているのを黙って見ているなんてあり得ない。


「兄さん……?」


 頼朝は黙ったまま義経を見ている。

 その横顔がいつもの兄とは違って見えて、範頼はぞくりと寒気がした。



 ふっと体が軽くなって、義経はよろよろと体を起こした。床に膝をついたまま喘いでいる義経に、知章が先程と同じことを要求してくる。


「天狗の力を出せ」

「……だから……天狗って、何のこと……っ!」


 ぐんっと引っ張られる感覚がして、体が宙に浮き上がった。そのまま、天井に叩きつけられ張り付けにされる。


「出てこい天狗。さもないと、このまま殺すぞ」


 知章は同じことを繰り返す。義経は腹が立った。


「だから……僕は天狗なんか知らないって言ってるだろ! 僕は、源義経だ! 天狗なんかじゃない!!」


 渾身の力でそう叫ぶと、知章の目に激しい怒りが宿った。


「ぐっ!」


 ふっと体が解放される感じがして、天井に縫いとめられていた体が力なく床に落ちた。痛む体を押さえて起き上がれずにいる義経を、知章は黙ったまま見下ろす。

 その張り詰めた表情に異変を感じたのか、能宗がふと真顔になった。


「知章……お前、まさか」


 その声に応えるかのように、知章が倒れた義経に向けて掌をかざした。


「知章っ!!」

「やめろ馬鹿者!! 命令に背くつもりか!!」


 能宗と清宗が口々に叫ぶが、知章はそれに耳を貸さずにかざした手を振り上げる。


「知章っ!!」

「義経っ!!」


 知章が振り上げた手を叩きつけるように振り下ろした。

 その瞬間、倒れた義経の周囲に強風が巻き起こった。


「!」


 風に目を刺されて、範頼は慌てて目を閉じた。室内の物が倒れる音があちこちで響く。これも知章の力かと思い、義経の身を案じる範頼だったが、風が弱まったのを感じて恐る恐る開いた目に飛び込んできたのは、自分と同様に目を押さえて立ち尽くす知章の姿だった。


 そして、知章の向こうに見える黒い塊に目を凝らす。それが何なのか、最初はわからなかった。


 収まりつつある風の中心に佇む漆黒の塊。照明の光を受けて濡れたように鈍く光るそれは、声もなく見つめる一同の前でばさりと翼を広げた。

 床に手をついて俯いている義経の背中から、巨大な黒い翼が生えていた。


 知章が茫然と呟いた。


「……天狗」


 その声が聞こえたかのように、義経が顔をあげた。知章と目が合う。吊り上がった瞳は虹彩が縦に細く、野生の動物のように爛爛と輝いていた。


「!」


 その目に射られて、知章は息を飲んだ。その知章に向かって、義経が獲物を見つけた獣のように飛びかかった。

 身動きをすることすら出来ず、知章は目の前に広がる黒い翼を見上げていた。義経がかざした手には、肉食獣のように鋭い鉤爪が光っていた。


 ザシュッ


 右肩から袈裟懸けに切りつけられ、知章がよろめいた。


「知章っ!」


 能宗が範頼を戒めていた紙の束を放り出して知章に駆け寄る。倒れる寸前で抱きとめて、怪我の状態を確認する。トレーナーが引き裂かれて血が滲んでいる。咄嗟に身を引いたらしく、致命傷ではないが浅い傷でもない。


「大丈夫かっ!?」

「う……うん……」


 知章が苦しげに頷く。


「撤退するぞ能宗っ!」


 頼朝の上から退いた清宗が叫ぶ。能宗は知章を支えながら片方の手を伸ばし、清宗の手に触れる。

 義経が血のついた手を眺めて残酷な笑みを浮かべ、再び知章に狙いを定めた。


 だが、義経が飛びかかるより一瞬早く、三人の姿がふっとかき消えた。

 義経の腕が空を切る。


「消えた……」


 範頼が茫然と呟いた。その声を聞きつけて、義経がゆらりと振り向く。

 弟の姿をした何か別のものと目が合って、範頼は息を飲んだ。義経の姿をしたそれが、にやりと口の端を上げた。

 厭な予感に突き動かされて思わず構えをとった範頼だったが、その時、いつの間にか背後に回り込んでいた頼朝が、義経の首筋に手刀を叩き込んだ。


「ぐっ……」


 一声呻いて、義経はその場に崩れ落ちた。その体を頼朝が受け止める。

 意識を失った義経の背中に生えていた羽が、さらさらと塵になって消えていった。


「兄さん……」


 荒れ果てた部屋の中心で、今はいつもの弟の寝顔に戻った小さな体を支えながら、頼朝は暗い目でじっと消えた翼を見つめていた。



***



 何か、ひどく恐ろしい夢を見たような気がする。ざわざわと残る厭な感覚を振り切るように、義経は目を開けた、


「う……」


 ぼんやりと霞む視界に、見慣れた居間の照明が見えた。


「あ……?」


 状況を把握しようと回転を始めた頭を押さえながら起き上がろうとした義経の視界に、いきなり秀麗な顔が飛び込んできた。


「義経! 目が覚めたか!」

「どわあっ! 兄さんっ!!」


 泣きながら抱きついてきた頼朝に、義経は寝かされていたソファからずり落ちかけた。そこらに飛び散ったガラスやら何やらを掃き集めていたらしい範頼も義経の顔を見て安堵の息を吐いた。


「いやー、義経が無事でよかった」


 まだよく事態を飲み込めていない頭をぎゅーっと抱き締められて、義経は「え?え?」と疑問符を漏らした。最後の記憶を思い出そうとして頭に浮かんだのは、頰に当たる床の感触と全身に走る痛み、憎しみのこもった目で見下ろしてくる知章……


「あっ! あいつらはっ!? どこ!? どこに行ったの!?」


 絶体絶命の瞬間に意識を失ったことを思い出して、義経は慌てて辺りを見回した。忘れていた痛みも蘇ってきて、背中がひどく痛み出した。


「お前、何も覚えていないのか?」

「へ? 何が?」


 範頼に逆に尋ねられて、義経は首を傾げた。そんな義経を見て、頼朝は一瞬真顔になった後、すぐにいつもの優しい兄の顔に戻って義経の頭を撫でた。


「ああ。あいつらは兄さん達がやっつけて追っ払ったよ。義経のピンチに今まで眠っていた正義の愛情パワーが目覚めてな」

「そうなの? てーか、倒せるなら捕まってないで最初からやってよ!」


 自分は何のために痛い目を見たのだとむくれる義経に、頼朝は笑いながら謝罪した。


「ははは。すまんすまん。……でも、本当によかったよ」


 頼朝が小声で呟いた。


「義経が……戻ってきてくれて」


 その言葉の意味を理解できたのは範頼だけだった。


「ところで、兄さん。……弁慶どこ?」


「「あ」」





***



 夜空に知章の荒い呼吸が響く。

 民家の屋根の上から源邸を見下ろして佇む三人は、平家の屋敷に戻る前に今日の首尾を報告する必要があった。


「忠度様、聞いておられますか」


 清宗が空に向かって喋りかける。それに応える声も姿もないが、相手がこちらの声を聞いているという確信があった。


「天狗の生存、しかとこの目で確認しました」


 能宗に支えられて何とか立っている知章は、腹の底から湧き上がってくる強い怒りにぎりっと歯噛みした。





「……あったぞー、義経。……倒れた食器棚の下敷きになってた」

「べっ、弁慶!」

「うわ……えぐ……」


 頼朝によって発見された弁慶は見事に平らになってしまっていたが、小一時間ほどで元に戻り、その存在がどういう材質で出来ているのかという義経の疑問をより一層深める結果となったのだった。




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