第5話 猫と謎の彼女と一目惚れ ー 小野里拓真

 高校生最後の学年になってしまった。精神的に子供でいられる時間はあと僅か。

 うーんと腕を目一杯上に腕を伸ばす。

「有意義な高校生活を送りたかったなあ」

 新学年の教室で願望が思わず声になって出てしまった。

 慌てて口を閉じるが周囲のクラスメイトはそれを見逃してくれない。


「お前、幾らでも女が寄ってくるじゃん。お試しで何人かと付き合ってみれば楽しい高校生活になるぜ」

「そうそう。グループ交際とか言ってさ、拓真たくまが三、四人美女を集めて俺たちも誘ってくれよ」

「それ良い案だな。一ヶ月ひとつきで落としてゴールデンウィークにはセックスやれるかもな」


 こういう話は不得意だ。

 品行方正ぶっている訳ではなく単純に恋愛と性欲処理を一緒にする奴らが嫌いなだけだ。

 こういう奴らからは距離を置くに限る。俺は何も言わずにその場を離れた。


 俺は小さい頃から父親に厳しく育てられた。母親は俺が産まれて二ヶ月後に亡くなったらしい。

 ウチはこの界隈では有名な資産家の一つだ。そのため俺は小さい頃から父親から帝王学というものを教え込まれてきた。

 

 今日の学校は始業式だけで終わり生徒たちはそそくさと下校していった。

 学校では午後からは入学式が行われる。


 学校からの帰り道に大きな木が立っている公園を抜けていく。ここが家への近道だ。

 その時だった。どこかでニャーという鳴き声が聞こえた気がした。

 いや確かに聞こえた。

 ネコ? どこだ? 見渡しても周りには見当たらないと思ったところで再びニャーと鳴き声が聞こえた。上の方だ!

 上を見上げると大きな木の高いところに白いネコがいる。

 ニャー。また鳴いた。

 下りられないんだ! 楽しいものがあったからか、それとも何かを追いかけた結果なのか高いところに登ってしまって下りられなくなったに違いない。

 どうしようか? どうすれば助けられるかな? やはりここは木に登るしかないか。


 俺はカバンを木の下に置いて制服の上着を脱ぎワイシャツを腕まくりして大きな木に足をかけて登り始めた。

 足場の良さそうな、丈夫そうな場所を探りながら少しずつ登って行く。木登りなんて殆どしたことがない。上手く登るコツなんて知らない。少しづつ登るのみ。

 もう少しでネコのいるところだ。近くで見ると白い首輪をしている。どこかの飼い猫みたいだな。

 ネコがいる枝まで辿りついた。枝に跨って少しずつ前へ進んで行く。もう少しだ。さぁ、もう大丈夫だぞ。大人しくしてろよ。ほら捕まえた。

 もう大丈夫だ。あとは戻るだけだ。

 今度は少しずつ跨いだまま後ろに下がる。ネコを脇に抱いたままなのでさっきよりも難易度は高い。

 少しづつ少しづつ。

 ようやく太い幹のところまで戻ってこられた。後はここから幹に沿って降りるだけ。


 その時だった。

 一瞬、バランスを崩した。

 あっと思った時には落ちていた。ヤバイと思って太い幹に抱きつく。

 擦れる。痛ってぇ。痛いが、ぎゅっとブレーキをかけるように幹に抱きつく。このまま落ちたらマズ過ぎる。

 ドスン。

「痛ってぇ」

 大声で叫んだ。

 無事に地面に降りた。いや落ちた。腕と手のひらは傷だらけ。

 ネコを助けるために木に登って落ちたなんて高校生にもなって何やってんだって感じだが、誰にも見られていなかったのが不幸中の……。

「大丈夫ですか?」

 ビクッとした。見ると目の前に自転車に乗った女の子がいた。目をクリクリさせたポニーテールの黒髪の子。うちの学校の制服を着ているところが地味にマズい。

 いつからそこにいたの? もしかして全部見てた? 高校生が木から落ちたなんてちょっと恥ずかしい。

 口止めできるかな?


「あっ! 血が出てますよ」

 自分の身体を確認してみると左腕の擦りむけたところから血が出ていた。

 女の子が自転車から降りてスタンドを立て前籠からカバン取って駆け寄って来た。

「ちょっと待ってて下さいね」

 そういうと女の子はカバンから水筒を取り出し蓋を開けると俺の腕を掴んで腕にか水筒の中身をかけて洗い流し始めた。

「ただの水道水ですから害はないです」

 擦りむけてケガしたところがちょっとみる。

 次にカバンからポケットティッシュを出すとケガしたところの上からポンポンとしてくれた。

 そしてスカートのポケットからハンカチを取り出して腕に巻き始めた。


 ドキッとした。

 生まれて初めての心の感覚。呼吸が少し早くなる感じ。手足の先端が痺れる感じ。心臓がドキドキしているのを触ってもいないのに自分自身でわかる感じ。

 ハンカチを巻いてもらった僅か十秒足らずの出来事がとても長く感じる。

 もっとこの時間が続けばいいのに。


「よし、これで応急処置は完了。出血はしていないので止血は要らないと思います。念のために病院に行くか消毒液で消毒しておいて下さいね」

 そういうと女の子はカバンを持って自転車に戻りスタンドロックを解除してそのまま自転車を漕ぎ出す。

「お大事に」

 女の子は笑顔でそう言って颯爽さっそうと走り去って行った。


 まだ呼吸はちょっと早め。胸の辺りもまだちょっと締め付けられるようで苦しい。初めて体験する新鮮な感覚。

 これが世に言う一目惚れなんだと知った。

 そう言えばネコはどこに行ったんだ?


 

 髪を切りに行ったら遅くなった。駅下の十分床屋。

 あれからずっとボンヤリとしている。自分の部屋の勉強机の前に座って今日を振り返ってみる。

 今日の昼間、木から落ちた。それ自体は大したことはない。

 いや、高校生にもなって木から落ちるとか大したことなんだけど大事なところはそこじゃない。

 あの自転車の女の子。ウチの制服を着ていた。

 自慢じゃないが、女子生徒の顔は何となく把握している。名前とクラスまでは分からなくても学年くらいまではなんとなく分かる。

 名前とクラスも半分くらいの女子生徒は分かる。さらに二桁の少なくない人数の女子生徒から好かれていることも知っている。この二年間でそれくらいから告白された。

 でも、あの子のことは知らない。


 そして目の前の机の上にはあの子が巻いてくれたハンカチがある。今人気だと言うYESブランドのハンカチだ。ハンカチの隅には『sei』と手書きされた文字。

 何かの略なのだろうか? セブン・イレブン・インターナショナル? 違う。

 何だろう?

 そうだよ! ググれカス。

 どれどれ。住友電気工業? 絶対違う。スクウェア・エニックスの米国法人? もっと違う。

 イタリア語で『六』? セイって言うんだ。知らなかった。でもってラテン語で『六』はセクス。SEXと書く。

 絶対に忘れない知識だな。男同士の雑談以外に使い道なさそうだけど。


 ここではたと気付く。

「そうか新入生か? 午後からの入学式に向かう途中だったのか?」

 それなら俺が見覚えないのも合点がてんがいく。

 でも新入生ならば探し出す方法はある。絶対に『sei』を見つけ出してみせる。

 他の男どもがあの子の存在に気付く前に。

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