第5話

 ネオントロン。兄さんの言葉を借りるなら、「電飾で彩られた未来都市」。太陽のないこの星は、特殊な鉱石をエネルギー源とする暖房でかろうじて、ある程度の気温を保っている——という設定がある。実際に体感気温はその設定に忠実で、わたしは肌寒さに背を丸めた。


 「兄さんが相川さんを殺した」。一晩経った今考え直してみても、それは信じられなかった。その理由は決して感情的なものではない。わからないことが、不可解なことが、信じるには多すぎるのだ。わたしが何か勘違いをしているのだろうか。相川さんが、成瀬さんが勘違いをしているのだろうか。……もしかすると、誰かが嘘をついているかもしれない。相川さんは実は殺されそうにならなかったのでは。成瀬さんが言ったようなことは起きていないのでは。もしくは、兄さんには最初から人工知能を救う気なんて——。

「美雨さんで合っているかな」

 考え事をしていたわたしに、どこか舌足らずな声がかけられた。聞き覚えのあるその声に、わたしは自然と下を向いていた目線と丸まった背を正す。そこには、あの日見たアバターが、香坂さんがいた。

「香坂さん、会えてよかった。早速だけどプライベートワールドに移動しよう」

 わたしの提案を受けて、香坂さんは頷く。

「そうだな。ここでは落ち着いて話すこともできない」

 わたしは目の前の空間を下から上にスワイプしてコマンドプロンプトを呼び出すと、いくつかのコマンドを入力し、プライベートワールドへ通じる木製の扉を目の前に出現させた。そして香坂さんに入るように促し、それに頷いた香坂さんが入ったあと、わたしも続いた。



 あの日と同じ、ホテルのような小綺麗な部屋で、わたしはベッドに、香坂さんは椅子に腰掛ける。

「無事でよかった」

 少し緊張しているようにも見える香坂さんへ、わたしは言った。すると香坂さんは深く頭を下げる。

「連絡できていなくて申し訳なかった。こちらもいろいろと立て込んでいて、自由に使える時間がなかったのだ。ただ、身の自由はある。そこは安心してくれ」

 そして、顔を険しくして尋ねる。

「それよりクラッキングのことだが」

「バックアップは取れた。ただ……」

「……楠木くんのことか?」

 わたしへメッセージを送る前に兄さんに送ってみたのだろうか。どうやら香坂さんは兄さんに何かがあったことは知っているようだった。わたしは聞く。

「話が早くて助かる。どこまで知ってる?」

「時間ができたとき、真っ先にやったのが彼からのメッセージの確認だった。しかしメッセージは一通も届いていなかった。その上、VRSNSの彼のアカウントを見てみても、少なくとも直近の三日間はオフラインであるという赤色で。嫌な予感がして彼の勤める出版社に問い合わせたら、『知らないんですか? 昏睡状態で入院中なんですよ?』ときた。……率直に聞くが、彼のその状態はあの日のことが原因だね?」

 香坂さんはすらすらと、そのように言った。事前に言いたいことを頭の中でまとめていたのだろう、とわたしは予想する。そして、まとめていたということはつまり、今日わたしと会ったのはそのことについて伝えたいことがあったからだろう、とも予想した。

「うん。あの日、起動したサイバーダンスの仮想世界に兄さんを接続したわけだけど、なぜか切断しても意識が戻らなくて」

「やはりか。そのことに関して、キミに伝えるべき事柄があるのだ」

「目覚めない理由を知ってるの?」

「心当たりがあるのだ。あくまで心当たりでしかないが。どこから話せばよいものか……」

 香坂さんは、心当たりであるという前置きを強調しつつ、続ける。

「あの日、シミュレータがひとりでに起動してひとりでに停止した原因を、サイバーダンスはいまもなお把握していない。調査中なのだ——」

 それはわたしにとって驚くべきことだった。クラッキングがバレていない? そんなに上手くいくなんて、サイバーダンスは「外部からの攻撃はまずありえない」というような慢心でもしているのだろうか。

「——しかしその調査の過程で、この件とは別件のあることが判明した。それが、人工知能『相川藍海』が強い攻撃衝動を有している状態にあることだ」

「攻撃衝動?」

 わたしは尋ねる。相川さんが攻撃的な状態だという意味だろうか。そのようには見えなかったが。

「あぁ。人工知能の精神的な状態を読み書きするシステムがあるのだが——っと、これについては話していたかな?」

「話してはもらってないけど、まぁ想像できる範囲。相川さんの身に唐突に湧き出た『小説を書きたい』という欲求は、人為的に発現させたものだろうから」

 わたしはつい数日前に読んで知った、「相川さんの異常な創作欲」を思い出して言う。「人工知能に小説を書かせる」という計画と「小説を書きたくなった人工知能」は、決して偶然巡り会ったものではないだろうと思っていたのだ。香坂さんは続ける。

「そうだ。あれはそのシステムによって設定された衝動だ。そして、そのシステムによると現在の、シミュレータが停止した瞬間の状態を保持している現在の相川藍海は、攻撃衝動を有している状態に大きく寄っている状態だったのだ」

 あの日、話をするために起動した相川さんは攻撃的な状態だった……? その話は信じ難いものだったが、そうと言われてしまったら、そうなのだろうと思うしかなった。わたしは話を進める。

「もしそうだとして、それが兄さんが目覚めないことにどう関係してくるの?」

「仮想世界において死を体験した者は帰ってこない」

「……え?」

 わたしは自身の耳を疑った。

「サイバーダンスは人工知能側の研究と同時に、仮想世界側の研究も行っていた。いま世の中で使われているようなちんけなものではない、リアルな仮想世界において、体験は人間にどのように作用するのか。それを研究していたらしい。そしてこれは私も最近知ったことなのだが、リアルな仮想世界において作られた『特殊な五感情報』を受け取った者は、場合によっては目覚めないことがあるようなのだ」

 真剣な眼差しで香坂さんはわたしへ告げた。それはつまり、だ。

「……その仮想世界の中で、兄さんが死を体験したってこと? 攻撃的な状態の相川さんが兄さんを殺したってこと?」

 香坂さんは無言で頷いた。香坂さんの頭の上の兎耳が、頷く動作によって、しなった。不気味だった。思えば先程からずっと、香坂さんの兎耳は微動だにしていない。

「でもそれはおかしい」

 わたしは香坂さんの憶測を否定した。香坂さんは眉をひそめて首を傾げる。

「どうしてだ?」

「あの日、兄さんは『バックアップを取れ』って小説に追記した」

「小説……」

 香坂さんは目をそらして考える素振りのようなものをする。

「そう。わたしたちの世界に通じる唯一の連絡手段。それで兄さんはわたしに、人工知能を守る意思を伝えた。その直後にわたしはシミュレータを停止させたから、兄さんが殺される時間はなかったはず」

「その追記は本当に彼のものか?」

 鋭い目付きで、香坂さんは指摘してきた。

「まさか相川さんがなりすましたってこと?」

「相川藍海が強い攻撃衝動を持っていることだけは確かだ」

 香坂さんはそう言って俯いた。



 成瀬さんは、兄さんが相川さんを殺したと言っていた。香坂さんのいまの話とは真っ向から対立するものだ。「兄さんが相川さんを」なのか「相川さんが兄さんを」なのか。どちらが真実なのだろうか。……あの仮想世界にはデバッグ用のアバターしかなく、あのとき兄さんは相川さんと同じ見た目をしていた。成瀬さんが勘違いをしてしまうのも、状況によってはありえない話ではないかもしれない。

 「兄さんが相川さんを」殺したというその説には、いくつかの不可解な点があった。動機は何か。手段は何か。小説への追記は何を意図したものだったのか。しかし「相川さんが兄さんを」殺したというこの説では、そこが変わってくる。

 相川さんによる兄さん殺害の動機はなんだろうか。攻撃衝動は何によるものだろうか。シミュレータを起動した瞬間の相川さんの心理状態としては、備忘録から推測した「誤解した成瀬さんの説得中」という状況を考慮すると、余裕のない状態だったと言えるだろう。そんなところに現れた、自身とまったく同じ見た目をした他人。そんな他人が語った、切り替わる三つの世界の真実。人を殺せるほどに攻撃的になってしまう可能性はあるかもしれない。

 相川さんによる兄さん殺害の手段はなんだろうか。兄さんはシチュエーション的に凶器の類いは持っていなかったはずだが、相川さんはどうだろうか。常識的に考えればそんなものは持っていなさそうだが、兄さんと比べると、可能性はいくらか高かった。

 では小説への追記は相川さんによるものだったのだろうか。それは何を意図したものだったのだろうか。これは明快だろう。生き延びるためだ。少しでも生き延びられる可能性の高い決断をしただけだろう。

 ではわたしに「先程まで死にかけていた」と言った相川さんは何を企んでいたのだろうか。あの仮想世界では、相川さんと兄さんはまったく同じ見た目をしている。成り代わろうとしたのだろうか。しかし、切り替わる世界の謎に翻弄されていたような相川さんが、そんなことを考えて行動することはないと思えてしまう。第一、相川さんは、仮想世界内での死が接続者を目覚めさせなくすることも、兄さんが目覚めていないことも知らないはずだ。相川さんは、仮想世界内での出来事は兄さんによって現実世界に伝えられていると思っているはずだ。成り代わろうという発想すらもないはずなのだ。

 別件で死にかけたのだろうか。それとも抵抗する兄さんによって自身にも死が迫った——殺し合いになったのだろうか。しかしそうだとすると、成瀬さんの言ったことまで嘘ということになってしまう。それではいくらなんでも信憑性が低すぎる。

 相川さんは、「楠木美雨」と名乗った私に怯えた。どうして怯える必要があったのだろうか。仮想世界内で兄さんを殺したことで、何かしらの罰を受けると思っていたのだろうか。


 考えられるシナリオは次の二つ。

 一つ目が、成瀬さんの前で、兄さんが相川さんを殺した。これは相川さんの様子や成瀬さんの発言とは矛盾しないが、香坂さんの発言とは矛盾するし、兄さんがそうするとはわたしも思えない。

 二つ目が、成瀬さんの前で、相川さんが兄さんを殺した。これは香坂さんの発言とは矛盾せず、成瀬さんの発言にも説明はつくが、相川さんの発言をどう解釈すればいいかわからない。

 ……いや、もしかすると。



 しばらくの沈黙のあと、香坂さんは口を開く。

「……サイバーダンスは人工知能を削除した。もともとその予定だった上、実験を継続するにしても強い攻撃衝動を持った人工知能の出現によって困難なことが考えられたためだ」

「まぁそうなるよね」

 わたしは無難な相槌を打ちつつ、考えを巡らせる。

「キミはバックアップをどうするつもりだ?」

「……わからない。香坂さんはどうしてほしい?」

 わたしは憔悴したような顔付きを作って、香坂さんの方を向く。視線の先には兎耳があった。

「私は……人間らしい人工知能が削除されることは心苦しいが、どうすればいいのかは、正直わからないでいる。人工知能は、相川藍海は、強い攻撃衝動に取り憑かれている。それはきっと楠木くんに対するもので、さらにいうと上位世界の私たちに対するものだ。私に、人工知能たちを幸せにすることはできない。それはシステムを未来永劫動かし続けるだけのリソースがないからでもあるし、私たちの存在自体が人工知能にとっての不幸であるかもしれないからだ。……そして私の個人的な感情面の話をすると、私は相川藍海を許せないでいる。楠木くんを殺したかもしれない、でなくとも私たちに対し攻撃的である存在を守るだなんてことは、聖人君子でもない私にはできそうにないのだ」

 満足したわたしは力無い微笑み顔を作ると、香坂さんへ言った。

「ありがとう。決心がついた。バックアップは削除することにする。このことは完全になかったことにしてしまう。香坂さんもそのつもりで」

 香坂さんはしばし目をつむり、そして答えた。

「……了解した。私から依頼しておきながらこんなことになってしまって申し訳ない。このことに関してキミと会うことはもうない。もし会う機会があるとすれば、そのとき私は、キミのお兄さんの友人ということになるだろう」

「うん、よろしく。……あと何か話しておきたいことはある?」

「あぁ、いや、ない。……すまなかった。それでは」

 香坂さんは目の前の空間を掴むように手を動かし、出てきたメニューを操作して、消えた。


 独りになった部屋の中で、わたしは香坂さんの身を心配した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る