第3章

第1話

 時刻を確認するため、左腕を持ち上げて袖をまくり、スマートバンドのディスプレイを軽くタップする。決して大きくないそのディスプレイに、めいっぱいの大きさで表示されている「11」と「40」は、待ち合わせの時刻まで二十分もあることを示していた。あの不思議な小説を読んでから数日が経過した土曜日。僕、楠木ナユタは駅前の広場で彼、香坂さんの登場を待っていた。

 天気予報によるとこの週末、特に土曜日である今日はひどく冷え込むとのことだったが、駅前広場という暖房の効いた建物に囲まれた場所にいるからだろうか。着込んできたことを軽く後悔する程度には暑く、僕は顔をしかめた。インナーもズボンの裏起毛もいらなかったかもしれない。しかし着てきてしまったものはもうどうしようもない。僕は目を細めて、さんさんと照り付ける太陽を睨んだ。当然だが眩しかった。確か先週も、こうして太陽を見上げた気がした。


 先週の香坂さんはいつにも増して変わっていた。といってしまうとまるで平時から変わっているかのような印象を与えてしまいかねないが、実際、香坂さんの言動は常人のそれとは異なることも多い。天才肌というものだと僕は思っている。事実、彼は天才だ。

 「ヒトの脳の働きを調べる」という、組織や官民や国といったありとあらゆる枠組みを越えた一大プロジェクト。それがある程度の成果を収めたのが、いまから五年ほど前のこと。それからわずか三年という期間で、完全没入型仮想現実に関連した技術を物にし、一世を風靡したサイバーダンス社。その成功には、サイバーダンス立ち上げ当初からの研究者としての彼の活躍が少なからずあっただろう。それだけの功績を収めながらも現場で働き続けることを重視して昇格を断っている、という話を以前聞いたことがある。常人である僕にはあまり理解できないことだ。


 香坂さんとは長い付き合いになる。もともと僕はSF作品に出てくるような仮想現実などの技術が好きで、学生時代はウェブ上のとあるメディアプラットフォームにてそういった記事——と呼べるかもわからないポエム——をよく投稿していた。そしてその流れで、ガジェット雑誌の編集部にお邪魔することがあった。卒業後は当然のようにその編集部の正式なメンバーとなり、ライターという肩書きを活かした、いままでできなかったような活動をしている。その活動のひとつが香坂さんとの定期的な対談だ。基調講演でときどき見かける香坂さんは、雲の上の存在だった。しかしその気さくな人となりと、彼の母校が僕と同じだったという意外な共通点によって、すぐに打ち解けることができ、いまでは毎週末という高い頻度で会い、仕事に関する話のみならずプライベートな話もし合うまでになっていた。



 先週、いつものイタリアンレストランに着いた僕たち二人は、案内された個室へと向かった。そして席に着いた直後、案内してきたウェイトレスがまだ扉を閉めていないくらいの直後に、香坂さんは活き活きとした様子で僕に問いかけてきた。

「テセウスの船という話を聞いたことはあるかい?」

「哲学の……あれですよね?」

 少し面食らいつつ僕は返す。すると香坂さんは満足そうに口の周りのひげをなでつけながら言った。

「あぁ。船を構成する木材を置き換えていき、最終的に元の船を構成していたすべての木材が置き換えられたとき、その船は元の船と同一であると言えるのか……という話だ」

「非常に興味深い話ですよね。どの木材がその船を『その船』として存在させているのかとか、そもそも木材単体ではなく木材と木材の関係性を見るべきだとか、いろいろと言われているらしいというのを聞いたことがあります」

 香坂さんの説明で詳細に思い出した僕は、そのように答えた。随分と昔に百科事典で見かけ、その後、インターネット上で公開されている専門家のコラムのようなものを読んだ記憶があった。

 香坂さんは腕を組んで頷くと言う。

「あぁ、なかなかに難しい話だ。が、人間に対しては、医療の発展したこの現代において、非常に限定的にだが同一であると言ってしまっても構わないような世論になっている。わかるかい?」

 香坂さんからの、期待が込められたその視線に、僕はしばし頭をひねる。

「それは……もしかして再生医療とか補完医療の話ですか?」

 僕がそう尋ねると、香坂さんは嬉しそうに「その通りだよ!」と目を輝かせて言って、こう続けた。

「『再生』、より広義に『補完』。医療の発展によって、人という船を構成する臓器という木材はほとんどが置き換え可能なものとなっている。もっとも、日本ではまだまだだがね」

「そうですね。少し興味はありますが、まだ現実のものとしては受け入れられていない節があります。……まさか、そっちの分野の研究でもしてるんです?」

 僕は冗談めかして尋ねた。すると香坂さんは笑い飛ばす。

「はっはっは、いやいやまさか。話したいのはそうではなくてだね? その人をその人たらしめるものとは何か、そして人とは何か、についてだ」

「なんだか、これまた哲学的ですねぇ」

「仕方がない、ここまで科学が発展すると」

 飽き飽きだとでも言いたげな様子で頭を振った香坂さんは、場を切り替えるためか咳払いを一つする。

「さて。テセウスの船よろしく、人もまた何を以て同一と言うかが問題になってきたわけだが。『その人』とは、その人を構成するすべての臓器が繋がって形作られたものと捉えるべきか、それとも、その人を構成する臓器の、いまだに替えがきかないどれかに宿ると捉えるべきか、どちらだろうか。キミは、どう思うかね」

 僕は考え込む。香坂さんは水を飲みつつ、面白いものを見るように僕を眺めている。

「……前者の場合、『繋がり』が切れたときに矛盾が生じるように思います。四肢を欠損したとしてもその人はその人です。四肢のみならず体の大部分を失ったとしても、現代の医療を以てすれば、その人はその人として生きることができると思います。医療費とか、なかなか大変そうですが」

「つまりキミは、後者、人の体を構成する臓器のどれかが人の最小単位であると考えるということかい?」

「……そうなります」

「ではどこだい?」

 香坂さんはテーブルから少し身を乗り出して、僕の返答を待つ。僕はそんな香坂さんに、苦笑いをしながら答えた。

「もうあなたも大体想像が付いていることでしょうけど、『脳』となるのでしょうか。ほら、脳に電極を繋いでサイボーグ……みたいなSF、あるでしょう?」

「ははは、そうだな。脳はいまだに替えのきかない臓器で、そして多くを司る部分だ。私も、我が研究チームも、我が社の倫理委員会も、同様の見解だよ。その人をその人たらしめるものとは脳、つまり神経細胞の集まりに他ならないのだ。人の最小単位とは脳なのだ」

 香坂さんは満足そうに、顎をなでながら何度も頷く。人の最小単位とは脳という神経細胞の集まりである——。その言い方は少し狂気じみていたがしかし、言っていることにはある程度頷けた。

 しかしその香坂さんの発言の中に少し気になることがあり、僕は尋ねた。

「いまの話は会社規模で議論されるようなものなんですか?」

「普段から脳を扱っているからね」

「あぁ。仮想現実はブレイン・マシン・インターフェースのひとつですもんね」

 彼が研究者として勤めるサイバーダンスは、完全没入型の仮想現実に関連した技術の研究と開発で有名だ。完全没入型仮想現実。それは脳に電気的に刺激を与え、脳からの電気的なフィードバックを仮想世界へと反映させるという、一種のブレイン・マシン・インターフェースだった。

「その通り。科学の進歩によって、人類は脳というブラックボックスの働きをある程度理解できるようになった」

 香坂さんはしみじみと語る。

「もしかして、脳科学の分野に参入するとか?」

 僕はまた、半分ほど冗談めかして尋ねてみた。しかしもう半分は本気の問いだった。

「いやいや、そういうわけでもない。脳の仕組みを紐解く脳科学は我々の範疇ではない。我々はあくまで、脳の働きを紐解くのだよ」

「仕組みと働き、ですか」

「そう。その二つは似ているようで異なる」

 そして香坂さんは姿勢を正して咳払いをする。

「我が社は、我が社が中心となって紐解いた脳の働きによって、新たな技術を開発した。それが——」

 そしてしばし口を閉じる。

「……もったいぶらないでくださいよ、ここまで来て」

 笑いながら僕が突っ込むと、香坂さんも笑い、そして告げた。

「すまない。我々は、まったく新しい仕組みの人工知能を作り上げたのだ。汎用的で、より人間らしい、生きている人工知能を」

 ウィンクしながら、「まだまだ研究中だがね」と付け足す香坂さん。僕はいままさに聞いたことを理解しようとする。いま聞いたこれは、非常に重要なことだと思われた。

「それは……。汎用的というのは、従来の人工知能のような何かひとつのことに特化したのではない、ということですか? 囲碁もできれば将棋もできる、画像認識もできれば文章要約も作成もできる……というような?」

 必死に食らい付くように理解しようとした僕は、そのように尋ねた。すると香坂さんは満足そうに何度か頷いてから言う。

「覚えれば少なくとも人並みには囲碁や将棋ができ、正常に成長すれば画像認識もでき、教育によって文章要約も作成もできる、というような人工知能だ」

「なる、ほど?」

「まぁわからなくても仕方がない。あえて言っていない、まだ言えないような情報もあるのでね」

 そして香坂さんはコップの水を一口で飲み干した。

「……さて。いま、彼女には小説を書いてもらっている。できあがり次第、送ろう。ぜひキミにも読んでもらいたい。ハードウェアの最適化がまだまだで時間がかかりそうではあるがね」

「わかりました。楽しみにしています」

 汎用的な人工知能。人間らしい人工知能。生きている人工知能。はたしてそれはどんなものなのだろうか。僕の胸は、いまもどこかで執筆をしている彼女とやらに高鳴った。

「それにしても、『彼女』ですか。その人工知能には女性的なコードネームでも付けられてるんですか?」

 僕は香坂さんにちょっとした疑問を投げかける。すると香坂さんは遠くを見るような目をしながら、このように返した。

「コードネーム、いや『名前』がある。彼女は生きているからね」



「生きている人工知能……」

 僕は太陽を見上げたままそのようにつぶやいた。そして、ちょうど先週も同じことを考えながら太陽を見上げていたことを思い出した。結局のところ、その生きている人工知能とやらが書いた小説を読んだいまも、生きているという意味が理解できずにいた。今日の対談で教えてもらえるだろうか。いいや、なんとしてでも教えてもらわなければ。そのように意気込んだ今回の僕は、いつもより早く待ち合わせ場所へとやって来たのだった。


 約束の時刻になったため、僕はきょろきょろと辺りを見回して見知った顔を探した。するとすぐに、駅舎からこちらへ胸を押さえながら少し俯きがちに歩いてくる香坂さんを見つけた。なぜ胸を押さえているのだろうか。僕は不思議に思いつつ香坂さんの元へ小走りで向かった。

「楠木くん。待たせてしまったようですまないね。はぁ……」

 僕の足音に気付いたのか、香坂さんは顔を上げてそう言った。

「どうも。そう待っていませんので大丈夫ですよ。それにしても……なんだかお疲れな様子ですね?」

 近くで見る香坂さんは随分と元気がなかった。先週はあれほど活き活きとしていたというのに、今日は目の下に隈を作り、背筋も伸びていない。

「わかるかい? 電車に乗り遅れそうになって急いで走ったら、心臓がバクバクとなってしまってね。未だに治まってくれないんだ。歳を取るとは嫌なことだな」

 香坂さんはため息をつくと、やれやれと頭を振った。たしか香坂さんは三十代前半だったと記憶している。歳を取ったと嘆くにはまだ少し早い気もしたが、全盛期よりは衰えてしまっているのだろう。しかしそれでは隈の理由がわからない。

「あぁそうだったんですね。しかしそれだけじゃなく、お疲れな気もします。目の下に酷い隈が」

 僕が指摘すると彼は力なく「ははは」と笑う。

「実験が終わったからね。いろいろと考えなければならないことがあるのだよ」

「実験、とは先週の話の?」

「その通り。今日はそれについてキミと話がしたくてね。構わないかい?」

「もちろん、僕もそれについて聞きたくて仕方がありませんから」

 香坂さんとは対照的に元気な僕の声。香坂さんはそれに少し悲しそうに笑うと、小さな声でつぶやいた。

「あまり……楽しい話ではないがね」

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