第3+3話

 気が付くと、地面に横になった私の目の前には、木々の枝葉に縁取られた、小さくて青くてどうしようもなく小さな空がありました。そよ風に揺れる枝葉はさわさわと音を立て、そこかしこから響いてくる蝉の鳴き声と相まって、幻想的な雰囲気を作り出しています。つい先程の倒れた私が見た赤い空とは違い、澄み切った、きれいな青色をしていました。しかしなぜでしょうか。いつか見た景色と同一のものである感覚、既視感のようなものがありました。

 風が吹き抜け、木々を大きく揺らしました。私はたまらず目を閉じて、風がやんだ頃、目を開けました。目の前には穏やかな空が変わらずあって、私は落ち着くとともに少し怖くなりました。どうやら私は、また別の夢へと来てしまったようでした。

「まぁなんだ。そういう運命の出会いというものもわしは信じている。きみが探している『彼女』とやらを、わしも探そう」

 声が聞こえました。優しそうな落ち着いた声が聞こえました。私はその声がした方に目をやります。おじいさんがこちらに向かって微笑んでいました。長い眉としわの目立つ頬と細められた目。ほんの少し前に、私の前で咽び泣いていたあのおじいさんと同一人物であるとは思えないほどに落ち着いた様子でした。しかしながら、しばらく前に倒れた私を心配そうに覗き込んでいたあのおじいさんとは同一人物であると思える様子でした。そして、運命の出会いについて話していたあのおじいさんとも同一人物であると思える様子でした。

 私はおじいさんに、努めて落ち着いて質問します。

「おじいさん。ついさっきまでの私はあなたとどういう会話をしていましたか?」

 おじいさんはきょとんとした様子でしばらく答えられなさそうにしていましたが、私は待ちました。

「……どういうも何も、きみは『夢で会った』という彼女を探しているのだろう? わしはその不思議な運命の糸を信じ、きみに協力しようと、そう言ったんだ。……何かおかしなことを言ったかね?」

 おじいさんの言葉を受け、私は記憶を辿ります。

「少しだけ、頭を整理する時間をくれませんか?」

 私がそう頼むとおじいさんは眉を寄せつつも、「構わないが……」と了承してくれました。私は、いまから遡るように、この不思議な出来事を思い返します。


 私は、つい先程は赤かった空を見ます。いま目の前にある空はきれいな青色をしていて、あの秋の日の夕方に貧血で倒れたときに見た様子とは決定的に異なっていました。先程まで見ていた夢の世界——「一つ前の世界」と「この世界」は異なります。

 「一つ前の世界」において、彼女はもういない存在でした。「この世界」では彼女は探す対象です。また、一つ前の世界よりもさらに一つ前の世界、つまり「二つ前の世界」においては彼女は目の前にいて、私と話をしていました。よってそれら三つの世界は異なります。

 いま私がいる「この世界」において私は、貧血で倒れたあと、おじいさんと出会って話をしていたそうです。それは「二つ前の世界」に至る一つ前の世界、つまり「三つ前の世界」での出来事であったはずです。

 その「三つ前の世界」で私は彼女を探していました。それはさらにその一つ前の「四つ前の世界」において、首を吊ったのは彼女だという話をおじいさんから聞いたからでした。彼女がもういない存在であるという点において、その「四つ前の世界」と「一つ前の世界」は共通しています。

 「四つ前の世界」において私は神社でおじいさんから話を聞きましたが、それは、「君に恋する夏の海」を書き上げたあとの出来事でした。私がその小説を書くに至ったのは、不思議な白昼夢を見たことを思い出したからです。その不思議な白昼夢で、私は彼女と出会っています。その点において、不思議な白昼夢——「五つ前の世界」と「二つ前の世界」は共通しています。

 何も書けずにいたあの夏の日から分岐した三つの異なる世界を巡っている。それは到底信じることなどできそうにないことで、しかしそれは事実で、それが事実でした。

 私は早まった鼓動を感じます。蝉の鳴き声がひどくうるさく感じられました。落ち着きましょう。私は息を吸い、吐き、また吸いました。むせ返りそうになるほどに懐かしい匂いの濃い空気。いまは夏でした。ここは森の中でした。不自然でした。不自然でしたし、何もかもが私にとっては攻撃的で刺激的に感じられました。


「大丈夫かい?」

 目を閉じているので顔は見えませんでしたが、それでもわかるほど気を使って、おじいさんはそう尋ねてきました。

「すみません。少し状況が掴めていなくて。もう大丈夫です」

 私は目を開け、おじいさんの顔を見て、そのように返しました。もう大丈夫でした。大丈夫なのです。大丈夫なのですよ。信じることなどできそうにないことでも、それが事実である以上は信じるしかないのです。つまりあとは私自身の気の持ちようの問題なのです。そして、それに関してはなんの心配もいらないのです。なぜなら信じるしかないのですから。

「どうか、したのかい?」

 おじいさんは想像通り、気を使ったような目をしていました。

「いえ、大丈夫です。……そろそろ帰らないといけないので、では」

 私は立ち上がり、服と髪に付いた土を払いました。貧血はもうとうに収まり、体を縦にすることになんの問題もありませんでした。つまりあとは私自身の気の持ちようの問題なのです。

「あ、あぁ。気を付けて」

 おじいさんのその言葉を背に受けながら、私は来た道を戻りました。涼しさ、湿り気、蝉時雨。懐しさを感じる匂いも何もかも、いまの私にはどうでもいいものでした。しかしどうでもいいというのに、冷たくべっとりとした空気は不味く、蝉の鳴き声はひどくうるさく感じられました。風が木々の間を、私とおじいさんの間を吹き抜けました。


 気が付くと私は神社の最寄り駅のホームに立っていて。目の前を貨物列車が勢いよく通っていて。夕方の、少しやわらいだ夏の暑さが私の体を優しく揉んできていて。そして気が付くと、このような考えが浮かんできていたのでした。もし仮にこの世界で私が死んだとしたら、どうなるのでしょうか。

 落ち着きましょう。それより先に考えるべきことがたくさんあります。それらを考えてからでも遅いということはないでしょう。落ち着きましょう。

 あの夏の日から分岐した三つの世界を巡っている。信じられないようなものでしたがそうとしか考えられませんでした。そうだと考えることが、自然で、そして私にとって楽なものなのでした。少なくとも、正夢となった白昼夢の存在を信じるなんてことよりはよっぽど。少なくとも、白昼夢の明晰夢を見ていると納得するなんてことよりはよっぽど。

 では何がこの状況を作り出しているのでしょうか。これらすべては私の夢なのでしょうか。私の幻覚なのでしょうか。それとも私以外の何かによって引き起こされた出来事なのでしょうか。……あぁ、すべてを「私以外の何か」のせいにできてしまえたらどれだけ楽でしょうか。

 ではこのような状況に置かれた存在は私だけなのでしょうか。それはおそらく真でしょう。彼女もおじいさんも、親もクラスメートも先生も、私の観測範囲にいる他者は全員、何も疑うことなく日々を過ごしていましたし過ごしています。私だけが、このわけのわからない状況に囚われてしまっているのです。

 何かによって作り出された三つの世界を巡る私。考えるのを放棄したくて仕方がありませんでした。何かによって作り出された、私だけしか認識できない三つの世界。喉のところに酸っぱい感情たちが這い上がってきました。三つの世界を巡る私と、それを作り出した何か。頭から血の気が失せるのを感じました。

「三つの世界とこの私……」

 私がそのようにこぼすと、世界がぐらりと大きく揺れました。なんだと言うのですか。

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