第1+3話

 目の前には、木々の枝葉に縁取られた、小さくて青くてどうしようもなく小さな空がありました。先程まで仰向けになって見ていた景色とほとんど同じ景色が、立って上を見上げている私の目の前に広がっているのでした。しかし、なぜでしょうか。先程まで見ていた景色とは根本的なところから何かがずれている感覚、異なっている感覚がありました。言い様のないほどの違和感がありました。それゆえ私は、先程までの青空といまの青空を区別して見ているのです。それでいて、なぜでしょうか。先程以前に見た景色と同一のものである感覚、既視感のようなものもありました。未視感と既視感とを同時に感じ、私は、私の心というものがどこにあるのかわからなくなってしまいました。

「どうしたのさ、ぼーっとして」

 声が聞こえました。優しそうな落ち着いた声が聞こえました。私は目線を下げ、その声がした方を向きます。女の子がこちらを見ていました。年は高校生である私とおそらく変わらないぐらい。すらっとした体型。白い頬と短めの黒い髪。ティーシャツとスキニージーンズ、左手には学生鞄。目の前の彼女は、困ったように眉を曲げます。

「どうしたのさ? どうせ私がなんのためにここへ来たのかなんて、想像がついているだろう? でも安心して。もうその気はなくなった。私は君に小説のネタを提供するためだけにここに来た、ということになったんだ。いま」

 彼女は私に言いました。しかし私の脳みそにはその音を言葉として認識することができず、音は前から後ろへ過ぎ去っていってしまいました。私は彼女に近付きます。もともとたいした距離は空いていなかったのですが、私はその距離をもできる限り埋めるように、ギリギリまで近付きました。すると、驚いたのか彼女は目を丸くして二歩ほど後ずさりました。私は右手で彼女の左腕を掴み、これ以上離れられないようにします。

「いきなりどうしたのさ!?」

 彼女は私を強く睨みつけました。息がかかります。

「……あなたは、生きて、いますか?」

 私は彼女の腕を強く掴んだまま、至近距離で彼女の目を真っ直ぐに見ながら尋ねました。尋ねてから、声が小さすぎたのではないかと心配になりましたが、この距離もあって、彼女はきちんと聞き取ったようでした。

「見ての通り生きているさ! なんなんだ、一体」

 私は彼女の黒い目を見つめます。身長は彼女の方が高く、私は下から覗き込むようにして見つめました。しばらくそうしていると彼女は赤面し、目を逸らします。その目を逸らす瞬間、私は彼女の瞳に映り込んだ妖怪を見つけました。喉のところに酸っぱい感情たちが這い上がってきました。彼女はいます。不自然でした。不自然でしたし、楽ではありませんでした。何もわかりませんでした。何も考えられませんでした。何も。ただただわからなくて、息苦しいのでした。私は頭から血の気が失せるのを感じました。痛みだす頭。ドス黒く染まっていく世界に飛ぶ星。容赦なく打ち付ける蝉時雨の冷たさ。私は彼女の腕を離し、後ずさります。木の根か何かにつまづいた私は、尻餅をつき、そのまま仰向けに倒れました。

「君、本当に大丈夫? 顔色悪いよ?」

 心配そうな彼女の声が遠くから聞こえたような気がしましたが、音はむしろ大きく、頭の中で響いていました。反響するそれはひどい頭痛となって襲ってきます。また、彼女が出す音とは明らかに異なる音が耳に入ってきました。人間が二本の足で道をゆっくりと歩く音でした。じわじわと、頭へ血が巡っていくのを感じながら。耳元に心臓があるのではないかというほどにうるさい鼓動を感じながら。冷たい、けれどやわらかな地面を感じながら。私はその音がする方を見ました。

「きみたち、どうしたんだい?」

 おじいさんが、倒れた私の顔を覗き込んでいました。長い眉としわの目立つ頬と心配そうに私たちの間を行き来する目。私と話をしたあのおじいさんでした。私が追い越したあのおじいさんでした。私と話をしたあのおじいさんでした。私が追い越したあのおじいさんでした。

 どうやら私は、また別の夢へと来てしまったようでした。

「この夢の世界は、何かがおかしいです」

 薄れゆく意識の中、私は肺に溜まった汚泥を吐き出して言いました。その汚泥は世界に溶け込み、霧散しました。

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