第2章

第1話

 何も書けません。

 藍色をした分厚い遮光カーテンによって外の世界と隔たれた暗い部屋。エアコンから音を立てて吹き出す冷風が、風向きの具合によって、ときどきそのカーテンをほんの少しだけ揺らします。そうして生まれた僅かな隙間から外の明るさが忍び込み、学習机の上に置かれた原稿用紙を照らして目立たせるのでした。何も書かれていない原稿用紙を。何かが書かれていた痕跡すらもない原稿用紙を。嫌な気分でした。

 私は大きくため息をつくとサイドテーブルに手を伸ばし、その上に置かれたエアコンのリモコンを掴みます。運転を止めるためでした。夏休み終盤とはいえまだまだ暑さの残るいまの時期、快適な生活のためにはエアコンは必須でした。しかしそんなことはどうでもいいのです。私に何も書けていない現実を突き付ける不躾な輩を招いた風を止められるのであれば、どうでもいいのです。

 私は重い腕を持ち上げてリモコンを掲げ、ボタンを押します。エアコンは間延びした返事をし、そして止まりました。もう何も書けていないことを取り立てて騒ぐ輩はいません。しかしそれでもなお、嫌な気分でした。何も書けないのでした。


 小説を書きたいです。物語を紡ぎたいです。唐突に湧き出たこの欲求の源泉がどこにあるのか、見当もつきませんでした。しかしそうこうしている間に欲求の水面は首の高さにまで迫ってきていて、焦った私は原稿用紙を広げたのでした。

 しかし何も書けません。これほどまでに切実に書きたいと思っているというのに、目の前に広がるのは整然と並ぶ升目だけで、その中に私の小汚い文字が、いま最も求めている愛しい存在が、いてくれるなんてことはありませんでした。また、そこには消しゴムで消した跡すらもありませんでした。何も書けないことを、「書いては消し書いては消しを繰り返す」と言い表すことがありますが、この私はどうにもそういう状態とは違っていて、文字通り何も書けないのでした。これっぽっちもたった一文も書けず、原稿用紙には、消すまでもなく何もないのでした。何も書かれていない原稿用紙。何かが書かれていた痕跡すらもない原稿用紙。目の前に広がるこれは、書くための準備がすでに整っていること、そして、そうでありながら何も書けていないことを、これ以上ないほど端的に表しているのでした。喉のところで感情たちが、窮屈そうにとぐろを巻いています。

 私はもう一度大きくため息をつきます。喉に居座る感情たちを吐き出すかのように大きく。肺に溜まった汚泥を吐き出すかのように大きく。そして息を深く吸います。肺に清浄な空気を取り込むために。しかし空気は埃っぽく、そして微妙にぬるく、私は顔をしかめます。掃除をしなければなりません。もう一度、エアコンを付けなければなりません。しかし億劫でした。何も成し遂げられそうにありませんでした。


 息をすることすらも億劫になり始めた頃、私はどこからか視線を感じて部屋を見回します。しかし部屋にいるのは私一人で、私以外の存在なんてものは姿見に映るもう一人の私くらいなものでした。私は椅子から立ち上がり、姿見の前まで行きます。低い身長と、銀縁の眼鏡をかけた幼い顔。少しでも大人びて見えるようにと伸ばした髪は、「邪魔だから」としばらく前の私自身により適当にどけられ、バラバラと乱れていました。その姿はまるで妖怪のようでした。私が右を向くと妖怪は向きを変え、左を向くと妖怪もまた向きを変えます。言い様のないほどの嫌悪感を抱いた私は、痛み出した頭に手をやります。思わず心の中で地団駄を踏みました。その心もまた、妖怪のそれとよく似たものでしょう。


 私は外へ出ることにしました。部屋の外へ、家の外へ、街の外へ、出ることにしました。

 それはただの気分転換だったのかもしれませんし、現実逃避だったのかもしれません。部屋の掃除や片付けを面倒に感じただけだったのかもしれませんし、もっと別のものに片を付けることを面倒に感じたのかもしれません。自分を見つめ直すために距離をとっただけだったのかもしれませんし、何も為せない自分が嫌になって距離をとったのかもしれません。もしくはそれらがない交ぜになった、歪な感情だったのかもしれません。とにかく私は、どこかへ行きたくて仕方がないのでした。

 行き先としては、私が暮らす街から少し離れた山の方にある神社を選びました。遠すぎず近すぎず、騒がしすぎず静かすぎない、とてもいい場所だと考えられました。その神社は境内に、鳥居といくつかの社殿と広い森を持っています。私の心の中の妖怪だとか、私の喉元でとぐろを巻く感情だとかを、神様や自然の緑がなんとかしてくれるのではないか、というなんとも安直な考えが浮かんできました。こんなことで頼られるなんて、神様も自然も困ってしまうでしょう。

 その神社へは、初詣のために毎年、両親とともに行っていたため、ルートはわかっていました。最低限の身だしなみを整え、最低限の持ち物を手に家から出た私は、蒸した空気を肺に取り込みながら抜けるような青空の下をしばらく歩き、駅に着きました。頬をつたう汗を手の甲でぬぐいます。財布から取り出した小銭を券売機に入れ、吐き出された切符を親指と人差し指で強く挟むように持ちました。そして財布をポケットへねじ込みました。


 電車の中は寒いくらいに冷房が効いていて、夏本番を感じました。汗が一気に引いていきます。寒さで夏を感じるなんて夏に怒られてしまいそうです、と私は身震いしました。あたりを見渡すと人はまばらで席はあいていましたが、私はドアから少し離れたところに立っていることにしました。

 しばらく電車に揺られているとある程度気持ちが上向いてきて、私は、私自身をある程度客観的に認識できるようになりました。小説を書きたいというその欲求はなんの脈絡もなく湧き出てきたものでした。なぜそのような気持ちになったのかはわかりません。やらなければならないことをすべて片付けた夏休み、というイレギュラーな環境が私を狂わせたのかもしれません。しかし、そんな私が何も書けずにいる理由ははっきりとしていました。私はいままで、小説というものを書いたことがありません。文章を書く機会なんてものはせいぜい作文の課題程度で、しかもそれは、伝えたいことを率直に伝えるだけの文章でした。物語性というものを意識した、創作と呼べるようなことは一切したことがないのです。経験のなさこそが、何も書けない理由なのでしょう。……それにしても、経験もないのにいきなり書きたいと思うなんて不思議な話です。天啓とはこのようなもののことを言うのでしょうか、なんて、これこそおかしな話です。

 夏休みに入る前の、電車での学校への通学、そして学校での生活を思い出しました。その日々は忙しくはなく、暇でした。しかし暇だと嘆くほどではありませんでした。電車や他のいろいろなものに揺られる生活は退屈でした。しかしやらなければならないことはあって。それでもやっぱり退屈で。そんな環境で、言われたことをこなすことで過不足ない程度の達成感と充足感を得ていた過去の私。しかしいまの私は、なぜか言われてもいないようなことをしようとし、できなくて癇癪を起こしています。それはどうしようもなく哀れで、どうしようもなく滑稽で、しかしどうしようもなく楽しそうです。この歳にまでなって、何か新しいことに挑戦して失敗するなんてことはそうそうありませんから。笑みがこぼれました。ドアの窓ガラスに映った妖怪も笑っていました。

 切符の存在を確かめるように握りつつ、窓の外を流れていく景色を眺めます。住宅街を抜け、短いトンネルを抜け、青々とした田んぼへ出ました。それからまたしばらくすると住宅街へと入りました。運転手の怠そうな声が聞こえてきます。

「次はぁ神社前、神社前ぇ」

 しばらくしたあと、電車は駅になめらかに止まりました。私は夏へと降り立ちました。歓迎するかのような暑さが、私の体を優しく揉みました。


 電車から降りた私は、神社へ向かおうと通りを歩き始めます。駐車場、住宅、駐車場、蕎麦屋、また駐車場……。通りに面した土地の多くは駐車場になっていましたが、その多くは空いていました。しかし通りを行く人の数は少なくはなく、何も考えず真っ直ぐに歩く、なんてことができない程度には混んでいました。しばらく歩いていると鳥居の赤色が見えてきて、自然と歩幅が広くなります。さらに歩いていると、ある駐車場に停まったバスの前で、小さな、けれどとても派手な黄色い旗を掲げた女性と、その女性を囲む人だかりがあるのが目に留まりました。

「みなさん、お手荷物はお持ちになられましたかー?」

 ツアーガイドとツアー客のようでした。私にとってはただの「そこそこ近所にある神社」なここも、他人にとってはわざわざツアーに参加してまで来る観光地であるということを、私は思ってもみませんでした。途端にここがまったく知らない場所のように感じられ、喉が苦しくなります。私はたまらずその人だかりから目を背け、狭い歩幅と早足で鳥居へ向かいました。


 軽くお辞儀をしたあと鳥居をくぐり、順番待ちをしたあと手と口を清め、順番待ちをしたあと二礼二拍手一礼をし、私はやっと人心地つくことができました。すると先程まで気が付いていなかったようなものにも意識が向くもので、私は、立派な拝殿の後ろにある青々とした森と、そこからうるさいくらい響いてくる蝉の鳴き声に気が付きました。自然の緑に鬱々とした気分をなんとかしてもらう、という過去の私の考えを思い出します。ちょうど、その森へと続く整備された道をゆっくりと進むおじいさんを見つけました。私はそのおじいさんを追い越し、森の中へと入っていきました。

 森の中はひんやりと、しっとりとしていました。森に入る前から聞こえていた蝉の鳴き声は、耳に入る音量は確実に上がっているはずだというのに不思議とうるさいとは感じず、むしろ心地よいと感じられました。湿度の高い、けれど不快ではない、そしてどこかいい匂いのする空気を吸いながら、道を進んでいきます。浴びるように蝉の鳴き声を聞きながら、「これが蝉時雨というものでしょうか」と考えました。その頃にはもう、つきまとっていた妖怪も、喉元でとぐろを巻く蛇も、どこかへ消えていました。気分のよくなった私は、分かれ道では細くて先が暗い方を選んで、ずんずんと進んでいきました。

 どれだけ歩いたでしょうか。随分と森の奥深くまで入ってしまったと思われました。森の中は時間の流れが外とは違うように感じられて、五分なのか、はたまた三十分なのかわかりませんでした。ポケットからスマホを取り出して見れば、現在の時刻と、そこから逆算した大体の経過時間を知ることができるでしょう。しかし、木の葉や草が擦れる音や蝉や鳥の鳴き声を聞いていたら、すぐにどうでもよくなりました。私は立ち止まると、目を閉じ、私を取り巻く世界を感じます。これ以上ないほどリアルな立体音響でした。当たり前ですが、それが嬉しく感じられました。


 しばらくそうしていると、明らかに異質な音が耳に入ってきました。ガサガサという動物が草をかき分ける音。というより、人間が草をかき分けながら二本の足で歩く音でした。私は深く考えることなく目を開け、その音がする方を向きました。

「うわ」

 女の子がこちらを見て、そうつぶやいていました。年は高校生である私とおそらく変わらないぐらい。すらっとした体型。赤みを帯びた白い頬や額に、短めの黒い髪が汗で貼り付いていました。ティーシャツとスキニージーンズ、左手には学生鞄。怠そうな目の彼女は、困ったように眉を曲げます。

「こんな奥にも人、来ちゃうものなのか」

 そう言って彼女は、両手を後ろ手に組みました。あまり友好的ではない空気を感じつつも私は、何か挨拶でも、と思いました。

「こんにちは」

「……どうもこんにちは。こんな森の奥まで散歩ですか?」

 彼女はやはり私の存在をあまり歓迎していないような声音で、しかし笑顔で、そう尋ねてきました。

「はい。つい夢中になってしまいまして」

「散歩に夢中になる割にはずいぶんと若く見えますが」

「えぇ。でもそれを言うならお互い様じゃあないですか?」

「……そうですね?」

 彼女は不機嫌そうな声音で、しかし笑顔で答えると、手に持った鞄で草を叩くようにかき分けながら私のいる小道へ出ようと進み始めました。ところで、彼女はなぜそんなところを歩いていたのでしょうか。私が怪訝な顔をしてその様子を見ていると、

「なんです?」

 これまた不機嫌そうな、笑顔の彼女の声。

「いえ、せっかくの鞄に傷がついてしまいそうでおっかなくって」

「そうですが、構いません。この鞄は私の大のお気に入りですが、もう」

「はぁ」

 お気に入りの鞄とやらを草に叩きつけながら彼女は言います。不思議な人だなというのが第一印象でした。草むらを抜けた彼女は、私の目を真っ直ぐに見ながら言いました。

「……今日ここで私と出会ったことは、忘れておいたほうが幸せになれますよ?」

 彼女の黒い目はとてもきれいでしたが、どこかどんよりとしていて、底知れない暗さがありました。

「ごめんなさい、無理そうです」

 その双眸を真っ直ぐに見つめ返しながら、私は答えます。すると彼女はすぅっと目を細めて聞いてきます。

「なぜです?」

「……お気に入りらしい鞄を草に叩きつけている様子が目に焼き付いてしまって」

 威圧感のようなものを感じる彼女の声に、私は正直に答えました。彼女はしばし固まったあと、がっくりと肩を落とします。

「あぁ、そうですね。怪しかったですね」

 彼女は今度は悲しそうな声で言います。私は、彼女がときおり見せる感情的な部分と、なおも無気力な目の暗さを、少し不審に、そして心配に思いました。

「どうかしたんですか?」

「どうもしていませんし、どうかしていたとしてもあなたには話しません」

「それは……私が知らない人だからですか?」

「そうですね。そんなところです」

 彼女は肩をすくめてみせます。その肩はとても小さく感じられました。だからでしょうか。私は——

「私は相川藍海です」

「え?」

「私の名前は相川藍海です。ここから少し離れたところで暮らしている高校生です。唐突に小説を書いてみたくなってしまいまして、ここへはそのネタを求めて来ました。よかったら、あなたの名前を教えてはもらえませんか?」

 ——彼女と知り合いになろうと考えました。彼女はしばらくこちらを見つめたまま固まったあと、笑い出しました。

「ふふっ。いきなり何? 知り合いにでもなったら話すとでも思ったの? そもそも『どうもしてない』って言ったでしょ?」

 しかしその笑い声は冷たく、疑問形な語尾もどこか攻撃的でした。

「いまの私は小説のネタに飢えてまして。私が一方的に話すだけでいいので、聞いてもらえたりはしませんか? 何か、インスピレーションが湧いてくるかもしれません」

 小説のネタのために話そう、というのは私の本心とは違っていましたが、私は嘘をついてでも、彼女と知り合いになろうと考えました。

「あいにく、そんな暇はないね」

「そこをなんとか」

 私自身しつこいなと感じるような私のお願いに、彼女は初めて笑顔を崩し、あからさまに顔をしかめます。

「……君も私を、引き止めようというのか?」

 彼女は細めた瞼の隙間から、こちらを真っ直ぐに見ます。睨むような雰囲気ではない、凄みなどは感じない眼差しでしたが、私は目をそらしたくなってしまいました。

「どうかしたんですか?」

 けれど私は目をそらさずに、その真っ直ぐな視線に私の視線を添えました。

 森の中、道でもないところを歩いていた彼女。どこか不自然な立ち振る舞い。貼り付けられたかのような笑顔。様々な負の感情を感じる声音。無気力なような無感動なような暗い眼差し……。彼女が何を思ってここにやってきたのかは、少なくともいまはまだ他人である私にはわかりませんでした。わかるはずもありませんでした。わからない、想像もつかない、ということにしておくのです。わかったとして、私には「止める」権利なんてものはないでしょうから。しかしそれでも、彼女とここで別れたらきっと私は後悔するだろうということは確かでした。だから私は、彼女の目から目を離しませんでした。

「……私のことなんか放っておいて。関わってもいいことなんてないから」

 彼女は視線を少し離れた場所の地面に移して、ゆっくりとそう言いました。その言葉は、私と、私ではない誰かに言い聞かせるようでした。

「ごめんなさい。こうして言葉を交わしてしまうとどうしても」

「私を忘れないと確実に悪いことになるのにね。夜の寝苦しさがさらに酷くなるだろう」

 彼女の鞄は重そうでした。

「できません。なので私には、あなたを忘れなくても悪いことが起きないようにするしかないんです」

「自己中心的な考え方だね? 嫌いではない」

 彼女の、重力のなすがままにぶらんと下げた両腕は、とても重そうでした。

「本当はあなたに中心を据えたかったのですが、私はあなたを知らないので」

「面白いね、君」

 彼女の声は震えていました。

「ありがとうございます」

 風が木々の間を、私と彼女の間を吹き抜けました。


 彼女は笑顔を顔に貼り付け直すと、私に、無理してそうしたような明るい声で問いかけます。

「君は、感情と理性、どちらが上位でどちらが下位だと思う?」

「感情と理性、ですか?」

 私はその質問の意味を理解できずに尋ね返します。

「うん。感情を理性でコントロールすることを是とするか。それとも、理性より感情を優先させるほうが人間らしいと捉えるか。どちらが優れているだろう?」

 その言葉を受け、私は少し目を伏せて考えます。風で木の葉や草が擦れる音が聞こえてきました。蝉や鳥の鳴き声が響きます。

「……この答えに、私の睡眠がかかっているのですか?」

「そうだね。賢い選択を頼むよ」

 私の質問に、彼女は間髪入れずに答えます。どうやらこの質問への答えは、彼女の、そして私の、今後に関わるような重大なもののようでした。私はしばらく目を伏せたまま考え、そのまま答えます。

「もしも優れた賢者が感情を持たない理性的な人だとしたら、私はその賢者を小馬鹿にするでしょう。私の方が賢いぞ、と。しかし私は、感情の方が大事であるとも思えないようです。もし仮にそう思っていたとしたら、私はあなたと、こうも落ち着いて話したりなどできないでしょうから」


 どれだけの時間が経過したでしょうか。森の中は時間の流れが外とは違うように感じられました。彼女が息を吸う音が聞こえたような気がして、私は視線を上げます。するとそこには、こちらを真っ直ぐに見つめる彼女がいました。

「なんだか毒気が抜かれてしまったよ」

 彼女は優しくそう言うと、私に向かって微笑みました。自然な笑顔でした。

「……ふふっ。よくわかりませんが、いまのあなたの笑顔はとても素敵です」

「それはどうも」

 彼女は安心したように深く息を吐きます。そして、

「それで? 何か話したいんだっけ? インスピレーションがどうとかって言ってなかったっけ。聞いてあげるよ、暇になったし」

 と言います。それに私は、少し苦い顔をして返しました。

「えぇっと、まずは先程の私の発言を訂正させてください。先程私は、『ネタを求めてやって来た』と言いましたが、それは真実とは少し違っていて。なんだか嫌になってしまったのです。唐突に小説を書きたくなって、けれど何も書けなくて、どこかへ出かけたくなって。考えてみれば当たり前でした。私には経験も何もないのですから。そういうわけで、無理にネタとかインスピレーションとかを意識しなくていいですよ。それ以前の問題なのです」

「そう? それじゃあ、そうだね。君のいまの発言について、少し言いたいことができたから私から少し話させてはくれないかな」

 私は首を縦に振って続きを促します。

「……きっと多分、創作の経験がなくても物語は作れると私は思うんだ。誰にでも、それこそ超が付くほどの有名作家にも、初めて書いた小説っていうものはあったわけだし」

 私は彼女のその言葉を受け、少し考えます。

「それはつまり、私が書けていないのには別の原因があると?」

「うーん。そうかもしれないけど、私が言いたかったのはそうじゃなくって。君にもきっと書けるから、あまり考え過ぎないように、気負い過ぎないようにするのがいいんじゃないかなって。何様だよって感じだけど、そう思ったんだ」

 彼女は眉を八の字にして言い、肩をすくめました。

「そう、ですね。そうかもしれません。私は少し、落ち着きというものを失っていました」

「伝わってくれてよかった。考えるのは大事だが、考え過ぎるのはそれこそ『考え物』だ。……なんてね?」

「あなた、なんだか面白いですね?」

 風が木々の間を、笑い合う私と彼女の間を吹き抜けました。私はたまらず目を閉じて、風がやんだ頃、目を開けました。目の前には彼女が変わらず立っていて、けれど彼女はこちらを見てはいませんでした。彼女につられ私は上を見ました。背の高い木々の枝葉の隙間から見える空は、小さくて青くてどうしようもなく小さなものでした。

「君、よかったら私のことを書いてよ。私へ抱いた感情を、創作に活かしてよ。私はきっとそのためにここに来たんだ」

 蝉時雨に打たれ湿った私の心に、彼女の言葉はひんやりと貼り付きました。

「……私はきっと、君の小説のためだけにいるんだ」

 彼女の声がこの世界に溶け込んだ瞬間、私は落ちていきました。体はそのままに心だけが、意識だけが倒れて落ちていきました。下へ。後ろへ。……どこへ?

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