第28話 レース 1

次の日、授業が終わったあと、ミユはカートのセッティングを始めた。前日に香西に言われたとおり、一〇〇ccのカートに一枚一〇キロのウエイトを五枚、合計五〇キロのウエイトを載せるためだ。


どこに載せるかは指定されていなかったので、とりあえずカートの前後に二枚ずつ、それとシートの下に一枚を落ちないように結束バンドで固定した。


その状態で、サーキットに出て試走する。人間一人分の重さが増えた状態のカートは、その慣性のせいで全然加速しなかった。コーナーを攻めようにもステアリングもブレーキも効かず、外に大きく膨らむオーバーステアになった。これでは、レースどころか、サーキットを走ることさえ難しい。


ウエイトバランスを調整しなければ、勝負のスタートラインにも並べないのは明かだ。ひとまずガレージに戻ると、徳弘涼が様子を見に来てくれた。なんでもウエイトに翻弄される様子を見て心配していたらしい。


「先輩なら、ウエイトをどこに置きますか?」

ミユは涼にアドバイスを求める。

「そうだなあ、フロントに重点的に置くかな。フロントの重量を重くしておけば、減速時の荷重移動も加わってステアリングとブレーキがよく効くからね。テンテンもこの前の力学で、摩擦の計算方法を勉強したでしょ?」

「あ、そうか、そうですよね」


摩擦力は、物体の質量に比例して大きくなる。同じ物体と設置面積なら、重い方が摩擦力が大きくなる。

車両の運動力学では、基本的には、車両が減速すると慣性の働きで荷重が前輪に移動し、それにより前輪が沈み込んで前輪の摩擦力は増加し、逆に後輪は浮き上がるため、後輪の摩擦力は減少する。


例えば、自転車でブレーキレバーを握った場合、後輪ブレーキよりも前輪ブレーキの方が、よく効く。もちろん前輪と後輪でブレーキの構造が異なる場合は、その制動力を単純に比較できないけれど、慣性による荷重の移動が前後輪のブレーキの制動力の差になる。


学校での勉強は、自分の住んでいる世界の出来事ではなくて、学校やテストという世界の中だけの出来事と思っていたけれど、日常生活の中でなんとなく感じていたことに、説明を与えてくれるものなのかもしれない。


二人でウエイトの位置を変え、フロントが重くなった分だけ、シートを限界まで後ろにずらしてウエイトバランスを調整することにした。荷重が前に偏ると、後輪のトラクションが減少するので、後側も多少重くした方が良いと徳弘が提案したからだ。


サーキットで試走を行うと、やはり重量が重い分だけ加速はしなかったが、かなり改善されていたので、そのまま五周走り、あとは微調整だけをして、舞とのレースに備えることにした。

香西の言いつけ通り、舞は一度も練習には来なかった。

部屋に帰っても、二言三言挨拶しただけで、レースの話はしなかった。


翌日の放課後、サーキットには、ミユの他にも、池田繭や、徳弘涼、それに一緒に座学を受けた部員が集まった。最近あまり見かけていなかった学生自治会役員でカート担当の小原緋も来てくれた。


ほどなくして香西と数人のメカトロ研メンバーがやってきた。意外なことに、どこから聞きつけたのか学生自治会の内田会長と、真鍋桜も見学に来ていた。


会長に挨拶すると「散歩していたらたまたま香西さんに会ったんです。お話を聞くと今日、カート部のサーキットで面白い物が見られるということなので見学させてもらいますよ」とのことだった。

指定された時間になると、トライクに乗った舞が現れた。いつもの青いつなぎを着ている。


「一六時半出走なのに、一六時半ちょうどに来るやつがあるか」と、香西が舞に小言を言う。

「すみません。なかなかコーディネートが決まらなくて」

「それで、どっちから走る?」と、徳弘。

「じゃんけんで決めようか。勝った方が選ぶということで」と、香西。


じゃんけんの結果、勝った舞は後攻を選択し、ミユが先攻となった。

「先攻は負けフラグだよ」と誰かが呟く。

「それではルールを確認します。それぞれサーキットを五周回して、それぞれの一番早いラップタイムで勝ち負けを決める。いいね」と、徳弘が確認する。

ミユと舞の二人は、うなずいた。


そのままミユはスタートラインにつく。ややあってスタートランプが点灯し、ミユはアクセルを踏み込んだ。


分かっていたことだが、やはり、加速はしない。しかし、一周目は捨てラップなので、別にかまわない。最高速からスタートする二周目以降と違って、止まっている状態からスタートする一周目は、どうしてもタイムが遅くなる。なので、二周目から五周目までの四周のラップタイムが実質的な勝負になる。


先攻が負けフラグとは、まさにその通りだと思う。舞がどれくらいのラップタイムを出すのか、先攻のミユには全く分からない。思えば、香西が舞に練習を禁止したのは、こちらに手の内を全く明かさないための作戦だったのだろう。五周回して、そのうち四周回は勝負に使わない捨てラップとなる。それは言い換えれば、ぶっつけ本番であっても、練習する機会が充分に用意されているということだ。このレースは、何から何までミユに不利になるように仕組まれていたことに、今、気づいた。レースの前から戦いはすでに始まっている。ミユは香西の勝ちに対する姿勢に、怖れを抱いた。


三周目が終わり、ラップタイムがボードに表示される。自分のベストタイムよりも六秒以上遅かった。思った以上に遅かったのだが、これが良いのか悪いのかも分からない。もしこれが後攻だったなら、先攻のタイムを基準として判断のしようもあるが、今はどうしようもない。


ミユは、雑念を振り払い、極力何も考えないようにした。おそらく今のこの自分の、不安だらけのあやふやな状態こそが、香西が狙ったものだろう。


池田繭と走った時のラインをトレースすることだけに集中する。四周目が終わって、すぐに五周目も終わった。一番良かったタイムは五周目だったけれど、ベストタイムよりも五秒台の遅れに抑えるので精一杯だった。


ピットインして、降車し、ギャラリー席に戻ると、代わりにトライクの舞がスタートラインにつく。

間もなくしてスタートランプが点灯する。

意外にも、舞はゆっくり発進し、コースやフィーリング確かめるように丁寧に走って行く。


前二輪のトライクが走っているのを見るのは初めてだったので、どういう走りをするんだろうと思っていたが、何てことはない。普通のバイクと同じ挙動をしていた。

一周目のラップタイムは、初心者のような平凡なものだった。しかし、それが練習のための捨てラップであるのは誰の目にも明かだ。

二周回が過ぎ、三周回と周回を重ねるにつれて、タイムは早くなっていく。スポーツタイプではないはずなのに、スポーツタイプのように速く見える。


四周目のラップタイムで、すでにミユのラップタイムを抜いていた。カート部からは落胆の声が漏れる。舞の協力が得られなくなるというよりは、単純にミユが負けたのが悔しい。


五周目ではさらにスピードが上がり、最終的には、ミユに四秒ほどの差を付ける圧勝だった。

ミユが思っていたよりも舞は早かった。四秒差なら、おそらく後攻でも勝てなかっただろう。


「天雲、これで分かったでしょ? あんたはこんなエキシビジョンでも勝てない」

そう言われて、ミユは怖じ気づいたが、真鍋桜はむっとして、

「こんなに理不尽にハンデを付けられたら、テンテンが負けるのは当然ですよね」と反論した。


「ハンデ? マシンの重量は同じだし、もともと四輪カートは、バイクより速いんだから、エンジン性能に差を付けるのは当然でしょ。条件はイーブンだと思うけど。それにたとえあんたの言うとおり理不尽だとしても、勝負にこの程度の理不尽なんていくらでもある。真鍋はそのたびに理不尽だって騒ぎ立てるつもり?」

「……」


沈黙した真鍋をよそに、礼はミユに向き直る。

「私なら、それくらいの理不尽なら全部飲み込んで勝つ。それができないなら、大会で優勝するなんて、夢のまた、イタっ!」


何かを言いかけた香西の頭上に、背後から誰かがチョップした。頭を押さえながら香西が振り返ると、それは池田繭だった。

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