第28話 実相と仮相

 現世は夢。魔女の森の奥底で眠る始原の魔女の夢。乾坤たる宇宙には切り取られた夢の世界など混じり物に過ぎない。迷宮、古龍、そして魔物氾濫。魔女を揺り起こそうと躍起になる。



神聖暦三三四年秋季一ノ月五日


 キースは深緑の大司教ヒルデガルド黒百合の聖女アファーリンの浄化作業を眺めている。手持ち無沙汰に見えるが、決して油断しているわけではない。彼は、周囲三〇〇〇歩長の敵性反応を漏れなく把握する索敵技能を駆使し、万が一の襲撃に備えている。それは無慈悲なる魔女アデレイドからの指名依頼。淡々と深緑の大司教ヒルデガルドの護衛を続けること既に十日を数える。


 南方辺境伯領と東方公爵領との領境の商業都市から東へと伸びる街道沿の穀倉地帯の村々を巡る浄化の神事は順調であった。行く先々で、深緑の大司教ヒルデガルド黒百合の聖女アファーリンは、熱烈な歓迎を受け、その名声は留まることを知らずとばかりに高まり続けている。同行したキースが西方動乱を収めた英雄の一人と知られると、序でとばかりに人々から褒めそやされた。

 本日、漸く穀倉地帯を抜けて、大草原として知られる地域に入り、人里から離れ、人目を惹くことなく平坦な気持ちで過ごせている。この十日間、男女問わず熱い眼差しを向けられることに彼は閉口していた。しかし、黒百合の女性聖騎士団の華麗さに見劣りしたくないという若干のが疼いた故に見栄えを整えた所為もあるのだから自業自得であった。前にも増して洗練された灰白色の煽情的な革鎧に濡羽色の頭巾付きの外套。魔女の傭兵団の紋章が黒字に銀糸と金糸で豪勢に刺繍されていて、キース自身の艶やかさと壮麗さは弥増すというもの。依然として自分自身に足りていない事が何であるか理解できていない。


  ——王都で一番人気の踊り子さんの精神の逞しさが羨ましい。


 そんな戯言を思い浮かべながら、目前に広がる荒涼たる風景を眺めれば、気分が陰鬱なものへと変じ逝く。確かに逞しさが不足しているのであろう。


 嘗ては、大草原として知られた地域。旅人にとっての難所であるも獣たちが安逸に住まう野生の世界。残酷でありながらも生命の息吹に満ちる雄大な平原であった。今や、その事を思い浮かべることは難しい。過剰な魔素に生み出された呪因よって、粘りつくような黒色に見渡す限り塗り潰されている。


  ——ここまで酷いと流石によね。


 キースは、念の為、聖騎士団や三十一人衆みそひとしゅうの襲撃に備えているが、地上に溢れ出た名状し難き魔物は未だに四半分が残存している終末の状況下、人族同士で殺し合う暇などない筈だと断じている。襲撃など杞憂であろうと。


 此の黒い風景は、地上に溢れ出た名状し難き魔物によって生み出された。聖人や聖女の結界が無ければ、僅か数秒で命を落とすような穢土だ。態々、此処で襲撃を企てる道理は無い。


 ——死地を選ぶとは思えない。


 心中でそう呟くが、残念なことに狂信者に合理ありと憶うのは彼の甘さだ。信仰への渇仰により、不浄の地に臆せず、闘いを挑み、教義に殉じることなど容易い。穢土の存在は襲撃を躊躇する理由にならない。深緑の大司教ヒルデガルドは再び襲撃される可能性は高い。道理至極とは言え、読みの甘さが事の顛末に影を落とすことはないだろう。

黒百合の聖女アファーリンを守護する四騎士に目を向ければ、彼女たちは、まるで石像のように不動なれど全く隙がない。英傑と呼ばれる万夫不当の存在。手合わせするまでもなく分かる。魔物氾濫の影響で凶暴化した獣の群れなどに遅れをとることはない。ふと自分自身の役割に疑問が浮かぶ。


 ——そもそも索敵ですら不要では?


 何故、護衛に選ばれたのか、思わず溜め息が出る。キース自身、深緑の大司教ヒルデガルドに気に入られていると理解しているが、大切な浄化神事にを連れ出す理由にはならないと思えた。残念ながら認識不足であった。公務よりも聖ロングヒルの遺物や遺稿を優先させていることを散々目の当たりにしているにも拘らずである。彼の同行は、深緑の大司教ヒルデガルドの達っての願いにより決まった。

 

 ——男なんだけどね。


 帝国の至宝たる黒百合の聖女による浄化の神事は、皇帝からの施しではなく、また中央国王や有力貴族の嘆願でもなく、正教会の聖女の慈悲であるという建て付けにしたのは、他でもない冒険者組合長の中で最も影響力のある無慈悲なる魔女アデレイドであった。

 冒険者組合の長として形式を整えるため、足手纏いにはならない程度には、実力を備えた冒険者を同行させた訳だが、帝国の至宝にその護衛、加えて深緑の大司教という組合せ、その随伴となれば、むさ苦しい男性冒険者を推挙することなど出来よう筈もない。

 実際、黒百合の聖女の護衛である四人の女性聖騎士たちは、の同行を求めた。生憎、最強の冒険者一党である白金の翼は、巨大迷宮核跡の近郊に残存している名状し難き魔物の群れを討伐するために不在。元剣聖レイラは、南方の辺境伯領都から王都への救援物資の輸送隊を守る任務に就いていた。無慈悲なる魔女アデレイドの麾下で実力のある女性冒険者は皆出払っていたため、結果としてキースが駆り出された。


 ——クロエかレイラを呼び戻せばいいのに。


 キースの外見は女性そのものである。最近、アデレイドはヒルデガルドに彼の性別を説明したのだが、ヒルデガルドは「竿付きなら猶お得感あり」などと巫山戯た反応を返して、キースを女性として扱うと宣言した。故に大のお気に入りであるキースの同行は至極当然であり、はなからクロエやレイラという選択肢は存在しない。

 一方、彼の戦闘能力は問われないのかと言えば、応えは否であるが、西方動乱の従軍も含めて、相応の経験を積んでいると黒百合の聖女や四人の女性聖騎士から認められていた。実際、彼の個としての戦闘力はフランクやドナルドに匹敵する。今回の随伴任務に指名されることもまた必然であった。難点があるとすれば、自己評価が絶望的に低いことだろう。


 冒険者組合長たる者であれば、若い冒険者に分かり易く状況を説明すべきなのだが、無慈悲なる魔女アデレイドはいつものように言葉足らずであった。


『神業は神業。人を問わず。只々、満目荒涼が転じて水天一碧となる様子を堪能して参れ。鴯鶓ヒクイドリを見て大鷲のように飛べぬと言い、大鷲を見て鴯鶓ヒクイドリのように走れぬと言う。知ることは良きことよ。さりとて、違いを競わせるは、愚の骨頂』


 ——比喩絢爛が過ぎて分かり難い。大体、鴯鶓ヒクイドリってなに?見たこと無いんだけど……


 キースが彼女の言葉を思い出すも、前提やら背景やら経緯等々の説明が抜け落ちているため、真意は全く伝わっていない。それでも彼の気分は、無慈悲なる魔女アデレイドの言葉を思い出す事で僅かながら上向きになった。


 キースが所在なく視線を漂わせると、何時の間にか、周囲は冷ややかで無機質な空間に変わっていた。長く整った美しい睫毛が微細な空気の流れを捉えると、彼は現世から隔絶された空間に封印されたかのように感じた。清浄化され過ぎた空間では、人は自身を異物と感じる。先史時代の遺跡最深部に稀に存在する神域。そこに至れる数少ない腕の立つ冒険者だけが経験できる感覚だ。


 ——神域みたいだ。呪因が押し除けられている。


 地上に神域を顕現させられるのだから、深緑の大司教ヒルデガルド黒百合の聖女アファーリンが為す浄化の技が、世の理から逸脱しており、彼女たちが特別な存在なのだと改めて思い知る。


 ——すごく場違い。


 聖女のような逸脱者をが護衛する意義が見出せない、というのが彼の正直な感想であった。この先、荒事が生じたところで、彼が双剣を抜くような事態には陥らないと思える。強いて役割を挙げるならば、敵性反応の接近を告げることだろう。その後は、瞬く間もなく、四人の女聖騎士が全ての敵を片付けるに違いない。


 ——楽と言えば楽だけど、無駄な流血は見たくない。三十一人衆人アイツらが正気であることを祈ろう。


 有難いことに周囲に人間種の反応はない。獣と魔物だけ。彼の脳裏には、深緑の大司教ヒルデガルド黒百合の聖女アファーリンによって、何の苦も無く処辨される魔物が浮かんでいた。広大な東方公爵領を壊滅させた名状し難き魔物が抗う術無く、一つまた一つと消滅する。


 ——これは嗤うしかない。冒険者の剣など蟷螂の一振りだ。


 そうして暫くの後、不意に天上から光柱が差し込まれた。黒百合の聖女アファーリンを中心に万色の光輪が広がる。周囲は芳しい香りに包まれ、数拍の内に魔物だけでは無く穢れが消え去った。ため息が漏れるほどに美しい。


「あゝ……」とキースが感嘆する。

 

「まあ、素晴らしい。私のはまだまだですね」


 ——娘……ああ、聖女見習いの子供達のことか。


 気が付けば、深緑の大司教ヒルデガルドがキースの傍を占めていた。彼は驚かない。気配なく近くに佇まれることには慣れていた。彼女が目を細めて、黒百合の聖女アファーリンの仕事ぶりに満足した様に頷く。


「黒百合様の奇跡はまさに聖女の奇跡」


 深緑の大司教ヒルデガルドは大いに讃える。


「浄化の奇跡とは思えないのですが……」とヒルデガルドに視線を向けて訊ねた。


 自国ミットヘンメルの聖女——三条の滝の迷宮で斃れた白曼珠沙華の聖女リコリス・フローラ——が行った浄化と黒百合の聖女アファーリンのそれとではあまりにもかけ離れている。聖職者の技は秘術とされていて、衆目に晒される事は滅多にない。また王国と帝国とでは、浄化であれ祝福であれ、所作が可成り異なる。当然と言えば、当然であるが、根源が異なるわけではない。しかし、キースには黒百合の聖女アファーリンの奇跡が所作の違いでは到底説明できないと感じた。


「黒百合様はこの地を祝福されているのです。信仰の深さが伺えます」と深緑の大司教ヒルデガルドはご満悦。


 ——祝福?


 ——帝国聖女が王国の地を祝福?


 ——それって大丈夫なの?


 キースは戸惑う。敵国の地を祝福するというのは政治的にも軍事的にも厄介ごとに違いない。辺境の子供たちでも見当がつくだろ。


「浄化はまだしも祝福は不味いような——」


辺境の魔女アデレイド様からの依頼と伺いました。アビゲイル王女殿下もハシーム皇帝陛下も異を唱えないでしょう。それに聖女の信仰心の前に国境などという取り決めは意味を為し得ません」と深緑の大司教は被せるように早口で断言した。


 ——厄災の魔女の前に王笏など枯れ枝に等しいと云うコトね。


 キースの顔に呆れ半ばの苦笑いが浮かぶ。真に力ある者は権威も権力もお構いなし。傍に人無きが若く思うままに振る舞う。まるで自然災害だ。為政者にとって厄災の魔女アデレイドはやはり厄介な存在だ。


 ——聖女にも亦頸木たりえず。


 彼が深緑の大司教ヒルデガルドの神々しい美しい顔を諦めたように眺めると、彼女はお気に入りにじっと見つめられたことで、少しだけ上気した頬に満面の笑みを湛えた。常人では正気が失われるであろう光景。キースの護符が熱を持つ。

 の彼が政治的な厄介ごとをあれこれ悩んだところで得るモノなど何もない。彼は、余計な物事を意識下へと追いやると、目前の美しい光景を堪能することにした。黒百合の聖女アファーリンの所作を検分するように見つめる。


 深緑の大司教ヒルデガルドは、彼の注意が他に向いたことに少々不満げであったが、彼の興味を惹いた何事かに示唆を与えようと彼の視線を追った。それは黒百合の聖女アファーリンの足元に広がる魔方陣の動きであったことを確認した。数拍の後、優しく問い掛けた。


「気になる?」


 キースは彼女の悪戯っぽい笑顔に戸惑う。


「ええ……」


「奇跡と呼ばれる魔術でもちゃんと魔法陣は出現しています」


 深緑の大司教ヒルデガルドによれば、隔離世の絵図が現世に投影されると、光の粒子が不規則に漂っているように見えてしまうだけで、魔法陣は術者の周囲に現れている。

 

 ——ああ、これは禁秘事項だね。


「黒百合様の技は、印形と祝詞の其々から無駄を省いています。も少ないでしょう。一目で祝福と解するのは聖女見習たちでも難しいと思います」


 彼女は付け加える。次元を落とすことで効率も効力も上げることができるような絵図を黒百合の聖女アファーリンは単独で完成させたのだと。神々の御業を人の身で真似る必要はない。もし可能であるなら、次元縮退させて使い易くしてしまえ、ということだ。魔術とは、一面において、簡略化された奇跡であり、奇跡とは複雑な魔術である。


 ——だからヒルデ様は魔術と呼ぶのか……


 迷宮から溢れ出た魔物によって穢れた土地は、浄化だけで土地本来の力を取り戻すことはない。浄化の後、必ず祝福を必要とする。一連の奇跡を単純に発動すると、高次元に形成される巨大で複雑な魔法陣に二回連続で魔力を注ぎ込むことになる。穢土を元に戻すためには、膨大な魔力が要求される。聖女と呼ばれる限られた人間にしか為せぬ業と謂れる所以である。


 しかし、現世に簡易な魔法陣で、穢れを祝福に反転させられるのであれば、魔力の消費は極めて少なく抑えることができる。キースの目前で黒百合の聖女アファーリンが遣って退けたことだ。差したる工夫無しで、祝福を穢れに反転する事も容易い。正教会の教義に照らして一言するならば外法其の物。


「天稟の輝き燦然にして、才気煥発と言うべきでしょう」


 深緑の大司教ヒルデガルドか聖ロングヒルを讃える際に口にする成句が、彼女の口から溢れた。次の瞬間、澄んだ音が天空に響き渡る。彼女は、黒百合の聖女アファーリンの技法を真似て反転によるの奇跡を発動させたのだ。驚いたことにキースの感知範囲に存在していた全ての名状し難い魔物が完全に消滅した。


「これは使いでがありますね。いやはや、後生畏る可し」と深緑の大司教ヒルデガルドが感心したように言葉を紡ぐ。

 

 ——最早、何も言うまい。


 キースは、心を無にして、視線を遠くに遊ばせる。麗しく艶やかな黒みの強い栗色の髪が揺れる。軽く波打つように光を纏えば青みがかったように映る。先ほどまで灰色に沈んでいた遠景が、今や青く透明感が増して、煙みが晴れ渡っていた。清浄なる景観。おそらく深緑の大司教ヒルデガルドによる浄化範囲はキースの感知範囲の数倍に及ぶだろう。


 ——黒百合の聖女様が繰り返し主張する通りだね。


 彼が敬愛して止まない深緑の大司教ヒルデガルドこそ、至高の大聖女なのだと。尤も当の本人は、枢機卿であって、聖女ではないと言い張っている。


「ヒルデガルド様ッ!」


 大叫にも似た声を上げて駆け寄る黒百合の聖女アファーリン。無駄に煌びやかな光の粒子が彼女をとり巻いている。その声音と表情には歓喜が満ち溢れる。


「そうです!こうなるのですッ!!」

 

 彼女は手ずから編み出した祝福の術式を十全に使い熟なせていないと日々感じていた。彼女は、もどかしさから開放され、晴れ渡る気分に浸っていた。術式の理想的な発動を目にして、学識に依る自らの推論が正しかったと確信した。欣喜雀躍。黒百合の聖女アファーリンは、幼女の如く、感情を爆発させる。彼女の近習たる黒百合の聖騎士たちも歓喜に打ち震えながら傅き、黒百合の聖女アファーリン深緑の大司教ヒルデガルドを大いに讃える。


「あらあら。聖女は何があっても取り乱してはなりません」


「私めには到達し得ないの高みを拝見し恐悦至極にございます。私の拙い術理に証を授けて頂けたことは、至高の喜びにございます」


 歴史的な快挙と言える発見を為しながら、余りに卑屈な言い様に深緑の大司教ヒルデガルドは違和感を覚える。怪訝な表情を浮かべ、暫し、黒百合の聖女アファーリンを見つめていたが、何かを悟って頷くと優しく語りかけた。


西の象徴たる黒百合様が卑屈なのは褒められたものではありません」


 黒百合の聖女は帝国の歴史上に比類なしと謳われている。中央王国の歴史を遡り、古王国時代まで含めても黒百合の聖女アファーリンに匹敵する聖職者は、数えるほどだ。理想が高すぎて自信が持てないのか、あるいは、何らかの障りがあるのかもしれない。

 何かをぐっと堪えるように目前に控える年若い黒百合の聖女アファーリン。深緑の大司教は、神気——聖職者特有の魔力——を微細な流れまで詳らかにすべく、奇跡を発動する。


 一瞬だけ深緑の大司教ヒルデガルドの表情が歪む。キースは、彼女から放たれた僅かな嘲弄に怖気を感じた。


 ——何ッ!?


 複雑で重く粘りつく気配が漏れ出たことに驚きを禁じ得ない。深緑の大司教ヒルデガルドには似つかわしくない。その目には、昏く強い感情が込められていた。キースは、彼女の視線を受け止める。彼女の嗔恚が逆巻く様は何度が見ている。厭悪蜿蜒と全身の皮下を這いずる感触。


「……」


「……」


 序列第五位の枢機卿と迷宮遭難救助人が無言で見つめ合う。ヒルデガルドは、自身の悪感情を察知されて、些か気恥ずかしさがあった。数拍の間を空けた後、彼女の美しく艶やかな唇がゆっくりと動くが、音声は発せられることはなかった。キースは彼女の唇を的確に読んだ。


 ——解呪?


 戸惑うキースに慈愛を浮かべた深緑の大司教ヒルデガルドが頷くと、黒百合の聖女アファーリンに向き直る。


「キースは、黒百合の聖女様の手をとって、支えてください」


「はい?」


 深緑の大司教ヒルデガルドは、キースに唇を寄せて、彼の耳元で囁く。お気に入りの女冒険者は、何時だって、彼女の信頼に応えてくれる。この厄介事でも大いに助けとなると判断して、要点だけを伝えた。


「私の神気が強過ぎて、を掴もうとすると霧散するのです。合わせ鏡のように写り身が無限に遠のく感じと言えばいいのでしょうか……」


「世話役でもない者が聖女様に触れるのは躊躇われますけど……」

 

「同行が許されているのですから差し障りなどあろうはずもありません」と察しの悪さを咎めて、彼女は珍しくキースに苦笑を見せた。


「黒百合様。このの手を握ってください」


「はい」


 黒百合の聖女は迷いなくキースの手を握る。彼女の手は、しっとりとして、吸い付く。細く柔らかな指が遠慮がちにキースの手を掴む。


 ——ふわっとしてる。ああ、これは拙いですね。


 この緊張感の無さである。未だ微妙に男子であることは割り引くとして、彼の周囲の女性に問題があるのかもしれない。

 日常的に女性と触れ合っているが、例を挙げるなら、剣を振り回しているレイラやクロエ、杖術を修めているヒルデガルドやミーア、鍛治にも習熟しているアデレイド、周囲にいる女性の手はそれなりに硬かった。中堅クラスの男性冒険者に比べれば女性らしさは残るが、この世界の高貴なる女性の平均に比べれば硬くて力強い。

 キースは、アファーリンの手の柔らかさに感動を覚えると、無貌の修道女の手の柔らかさも思い出した。女性の手はこうでなくては、と感心している最中、脳裏に不快な映像が差し込まれた。


 ——死霊!?


 それは朽ち落ちる寸前の骸。美しく儚げな黒百合の聖女アファーリンに重なって見える。僅かに腐敗臭が漂って来るかのように臭覚が想起される。干からびた骸は落ち窪んだ眼窩に陰鬱な深紫の光を揺らしていた。骸の顔を能く能く見れば、深く刻まれた皺に見えるモノは、印文であり、蠢いている。黒くのたうつ蚯蚓 のような髪が蜿蜒として、闇に溶けては滲み出る。


 ——否。こいつは生きている。呪術士だ。


 古王国以前の古臭い衣裳を身につけた干からびた其れは、不快な音を発している。死霊としか言い難いが、キースは生霊と見抜く。同じ様なモノを知っているからだ。


 ——三条の滝の迷宮から引き上げた賢者様の様子に似ているけど……


 全くの別人だ。人の悪意を集め固めた様な禍々しさだ。そうかと納得。一体、誰に対する侮蔑なのか、何に対する嗤笑なのか、先ほどの疑問が解消した。ヒルデガルドの憤怒も解呪の意味も理解した。キースが思わず強く握り返すと黒百合の聖女アファーリンの表情が歪む。


「捕まえましたね。流石です」


 深緑の大司教ヒルデガルドは背後から抱き抱えるように黒百合の聖女アファーリンの両腕に手を重ねる。祝詞を唱えることなく、即座に解呪を発動すると、生者の根源を揺さぶるような絶叫が黒百合の聖女アファーリンの全身から吹き上がる。


「逃しません」


 少女から深紫の靄が湧き上がり、が実態化して天空へと逃れようとするが、深緑の大司教ヒルデガルドの神聖結界によって阻まれる。続けて——


 ——灰は灰に、塵は塵に。


 キースは、捕捉していた呪術士の仮相がバンと弾けて、消滅したことを覚知する。交わす瞳で互いの意図を伝え合うと、深緑の大司教ヒルデガルドは頷く。呪詛によって萎縮し、膠着した黒百合の聖女アファーリンの神気経絡を修復する作業に取り掛かる。


 ——凄い。多重詠唱ッ!


 彼女は再生の祝詞を多重並列に唱える。滞留していた神気が、正常な形で流れ始める。黒百合の聖女アファーリンの両腕の神気経絡の再構成が始まった。嬌声が漏れる。護衛の女性聖騎士たちは、戸惑いながら駆け寄るも、神聖結界の外殻を覆うように張り巡らされた隔離結界に阻まれる。


「聖女様!」


「大司教様っ!何事ですかッ!」


「聖騎士の方々!落ち着かれよ!」


 キースは自分でも驚くような大声を発して、護衛の女性聖騎士の動きを制した。其は解呪也、故に妄りに動く事勿れ、と。


「馬鹿なッ!」


 護衛の女性聖騎士たちは状況が理解できない。聖女が呪われるなどあり得ないことだ。だが彼女たちは激情を噛み殺して、次の言葉を待つ。キースは察して言葉を繋ぐ。


「捻れた神気経絡の再生です。黒百合様のそれらは、あまりにも長い間放置されていた所為で——」


 ——神気経絡の再生が遅い。何故?


 瞬時にヒルデガルドの心象がキースに流れ込む。黒百合の聖女アファーリンの身体を流れる魔力と紐解かれる呪術痕を備に捉える。神々の祝福が、正常な再生を阻んでいる。巧妙に仕込まれた呪いが常態化した所為だ。神々の恩寵が歪んだ状態こそ正しいとして、修復した神気経絡を捻れて歪んだ状態に戻そうとしていた。


『黒百合様と神々との因縁を断ち切って』


 ヒルデガルドの声音が心中で直接響く。キースは、彼女の意図を直ぐに汲むと、小さく呟いた。


「随縁放曠」


 ——今だけは黒百合様から恩寵を切り離すこと。


 キースの双剣から黒い影が伸び、黒百合の聖女アファーリンの体表に舐めるように這い回る。


「死霊術ッ!?」


 護衛筆頭の聖騎士が叫び剣を抜き放ち結界を切り付けた。


 ——そりゃそうなるよね……


 近習筆頭の女性聖騎士の振る舞いを是として飲み込む。全く見えない太刀筋に流石だとキースは関心する。しかし、筆頭の一撃は虚しく、何事も生じさせることは無かった。剣が弾かれる音すら無い。隔離結界は魔術も剣戟も阻む。


「枢機卿様ッ!!」


「絡まりを解いて、経を整え、神気の滞りを除きます」と深緑の大司教ヒルデガルドは筆頭の悲痛な叫びに静かに応える。


 説明不足だろうとキースは感じた。神聖魔法の権威たる深緑の大司教に失礼とは思ったが、彼女の説明では「黙って見てろ」と無愛想に言い放ったようなものだと。


「一気に放流すると黒百合様の御身体が消失するやも知れません。深緑の大司教様が時間をかけて徐々に流れ出ずるよう誘掖されています」と付け加えるキースであったが、残念ながら同程度の不親切さだ。全く似た者同士である。


「ひ、控えなさい……わ、私は大丈夫……です」


 息絶え絶えの様子の黒百合の聖女アファーリンが殺気だっている近習衆を諭す。彼女は深緑の大司教ヒルデガルドの発する祝詞の一字一句を理解していた。神々の愛し子が神業を以て彼女の身躯を革めているのだと。


「御心のままに」と筆頭は跪き悲壮な相貌を伏せてじっと控える。


 深緑の大司教と黒百合の聖女は、互いに神気を和合させている所為で、当事者以外の目には情好を交わしてにも等しく映る。黒百合の聖女アファーリンにとっては、敬愛して止まない深緑の大司教ヒルデガルドに細胞レベルで隈なく愛撫されているようなものである。理性が飛び散って痴態を晒すのも宜なるかな。四人の女性聖騎士たちは戸惑い迷う。この時、キースは彼女たちの忠誠心が歪みあらぬ方向へと捻じ曲がったことに気が付いた。


 ——気の毒に……


 キースも上気した美しい少女の艶めかしさに些か閉口する。神界の芳しさが漂う中で、彼は黒百合の聖女アファーリンに嬌声を上げられて縋りつかれている。堪ったものではない。何も野外でやることもなかろうと、この状況を作り出したヒルデガルドの突拍子の無さに呆れる。当の本人は、額にうっすらと汗を滲ませ、回復系の複雑極まりない祝詞を唱え続けている。何ごとも意に介さず奇跡の発動に集中。全く悪気も何も無い。声に出さずとも黒百合の聖女アファーリンには伝わっている。

 キースは、忸怩たる思いの聖騎士たちに、この状況をどう説明したものかと思案する。彼の心の動きを察知したのか、黒百合の聖女アファーリンは上目遣いで見つめてから何とか声を絞り出す。


「これ……も、神々、……の試練に相違……あぁ——」


 彼女の近習衆に届いたのか怪しいのだが、この身はヒルデガルド様に託していると言葉を繋いた。


「黒百合様。神々は人の尺度にて計り難い理由で我々に干渉します。それは試練ではありません——」と深緑の大司教ヒルデガルドが囁けば、「承知……たして……り…ます」と黒百合の聖女アファーリンが絞り出すように応えた。彼女は幼少期から神々が理不尽な存在であると思い知らされていた。奇跡を為す毎に強烈な不快感が身体を這いずり回る日々を思い出す。それらが深緑の大司教ヒルデガルドの奇跡によって心地よい見立てに塗り替えられる。二人の神気の流れをつぶさに捉えているキースは、黒百合の聖女アファーリンの神気経絡の状態を把握する。


 ——黒百合様の経絡の再生がどんどん速くなる。


 可聴域を越えて祝詞が重なる。更に時を遡り祝詞が再生される。時間逆行型の詠唱技法。神の愛子は易々と人智を超える。それは人の身で為せる技とは思えない。

 そうして無限に分岐する世界の束の中から何事も起こらなかった世界を一つだけ摘み上げて、この世界に移植したかのように黒百合の聖女アファーリンの再生を終えた。


「終わりました」


 深緑の大司教ヒルデガルドは、ほっと長大息を発する。黒百合の聖女アファーリンは立っていることも儘ならず崩れるが、キースに確と抱き止められる。


「ヒルデ様。結界を——」


「——忘れるところでした」


「筆頭殿。黒百合様を天幕にッ!」


 女性聖騎士の筆頭は素早く立ち上がり近づき、キースから奪い取るように黒百合の聖女を抱える。深緑の大司教にお座なりの礼を述べてから踵を返した。深緑の大司教ヒルデガルドは気にする様子もなく、四人の女性聖騎士の背中に「丸一日は必要です。ゆっくりと休まれるように」と言葉を掛けた。彼女たちは軽く会釈すると聖女の天幕へと姿を消した。


「詳しくは、黒百合様が目醒めた後ですね。私たちも休みましょう」


 深緑の大司教ヒルデガルドは、キースに凭れ掛かるように抱きつき、頬を寄せて耳元でそう囁いた。枢機卿の豪奢の衣装が普段よりもやや重く感じられる。


「お着替え手伝います」



神聖暦三三四年秋季一ノ月七日


 深緑の大司教ヒルデガルドによれば、黒百合の聖女アファーリンという存在が不浄な物事を引き寄せた、ということだ。何時の事だったか判然としないが、深緑の大司教ヒルデガルドが「祝福と呪詛に然程の隔たり有りとは言い難きこと」と独り言したことをキースは思い出した。

 神々の祝福による膨大な神力と絶世の美貌。それらが災いとなり、黒百合の聖女をして塵芥に塗れることを強いた。何処かで聞いたような話だが、幼い頃に辺境の魔術師アデレイドの庇護を享受したヒルデガルドとは対照的であった。


 ——なるほどね。念の為に近習衆も遮断したんだ。


 彼女たちが知らず知らずのうちに呪詛に加担していた可能性もあったのかと納得する。冒険者組合が用意した天幕すら避けて、完璧に浄化・祝福された状態の空間——野外——で奇跡を行使した。


 ——誰が何を仕掛けたところでヒルデ様を出し抜けるとは思わないけど……


 彼が黒百合の聖女アファーリンを見れば、難しい顔で深緑の大司教ヒルデガルドの説明に耳を傾けている。彼女の背後に筆頭が油断なく控えているが、時折、不快な表情を彼に向ける。


「黒百合様に植え付けられた呪種の目的は明白なのですが、その元凶は曖昧模糊として追うことは困難でした」


 魔力の供給源として利用するために植え付けられた呪術であったとヒルデガルドは結論付けた。彼女の右後背に控えていたキースには疑問が浮かぶ。


 ——多分、何か知ってそうだけどね。


 確証がないことに加えて、帝国や中央王国の貴族派閥が関与している可能性も捨てきれない。深緑の大司教ヒルデガルドは言及を避けたのだろう。


「覚えがありません。不快感や痛みは教会おやまで修行する前から感じておりました」


 これで彼女が聖女に選定される以前に呪種が埋め込まれていたことが確定した。


企図したとは思いたくはありませんが、偶然と切り捨てるには、些か考えが足りていないと言われ兼ねません」


 深緑の大司教ヒルデガルドは思案顔だ。


「四肢に痛みを感じる疫病。幼児期に罹患し、且つ浄化の奇跡が無効……幾つも考えられます」


 何れも慢性的な魔力枯渇を伴うならば成人する前に大半が死亡する。幸運にも生き長らえたとしても極端に魔力の保有量が減少する。而も魔術発動には痛みが伴う。


「実に厄介ですね。この様な呪種と区別し難い」


 この呪種が芽吹くと生命力が吸い尽くされる。子供が罹患することが珍しくも無い疫病と同じように死亡する。そもそも多産多死で、子供の命は軽い。成程とキースは頷く。


 ——呪術と見破ったとして、千金を要する解呪を施せるか?


 事理明白などと嘯けば悪寒が走る。好き勝手にばら撒いたところで誰も気が付かない。奪いたいだけ奪えるのだ。

 彼が傍で慄くと、ヒルデガルドは「同時に御するには相応の力量が必要ですね。高位の呪術師で多くて二〇というところ」と付け加えた。彼女自身は、恐らく数千の単位で操ることができると確信しているが、それを言葉にすることはなかった。


「外法の類ですが、の呪法ほど洗練されていません。敢えて、稚拙な出来に仕上げて、術者を隠蔽したのかも知れませんが——」


 この類の呪は、特定の氏族の秘術とされて門外不出であり、不明な事柄が多く、類型化や体系化などされていない。正教会の禁書庫の僅かな文献の中、数行の記録として散見される程度。黒百合の聖女に埋め込まれていた呪術の詳細は見えない部分が多い。


「それにしても腹立たしいです」と黒百合の聖女が憤慨する。


 しかし、呪種を植え付けた者に向けられた怒りではなかった。


 帝国の正教会では、選ばれし者の試練と幼い黒百合の聖女を謀り、それは魂の向上へと繋がると誑かした。司祭や大司教のしたり顔が思い浮かぶと錫杖を握る手が震える。怒りに任せて殴打したいという衝動に駆られる。


「もはや虐待ですッ!」


 ヒルデガルドは、右手をさしのべて、アファーリンの左頬を優しく撫でながら諭す。


「過去のことです。今は快適ですよね」


「は、はい……」


 黒百合の聖女は耳まで赤くして下を向く。そんな可愛げのある様子を一通り愛でて満足したのか、深緑の大司教は次の難事に意識を向けた。今現在、名状し難き魔物によって汚染された地域のうちの十分の一程度を浄化したに過ぎない。反転の祝福を使うにしても東方公爵領は広すぎるのだ。


「手が足りませんね……」


 深緑の大司教ヒルデガルドぼやく。


 実のところ、手が足りないのでなく、億劫なだけであった。彼女は、ここ暫くの間、聖遺物に触れていない所為で、とても不機嫌であった。勿論、相貌に現すことなどない。


 そもそも深緑の大司教ヒルデガルドは正教会から認定された聖女ではない。大聖堂の奥で踏ん反り返っていられる大司教なる存在なのだ。自他共に認めている。残念なことに彼女は神々の愛し子であり、歴史を遡れば、大聖女たるべき存在だが、本人にその気は全く無い。不心者であると言わざるを得ない。

 彼女は、難しい表情でしばらく考え込んでいた。ややあって、不意に表情が晴れやかになると、とんでもないことを言い出した。

 

「良い事を思いつきました。私どもの白曼珠沙華にも働いてもらいましょう」


「猊下の仰せのままに」


 帝国の聖女が肯首する。人の世の理に従うのならば諫言すべきである。しかし、黒百合の聖女アファーリンは、敬愛して止まない深緑の大司教ヒルデガルドの言動を全面肯定する。否、助長する。


「キース。道中の護衛をお願いできるかしら?」


「え、っと……はい。多分、大丈夫です。一度、の冒険者組合に戻って補給する必要はありますが……」


「よしなに」


 そう応えて、深緑の大司教ヒルデガルドは澄まし顔で、天幕から外に出た。彼女の後に続いて外に出ると、キースは彼女の肩越しに冒険者組合の賓客用の馬車が到着したのが見えた。

 小柄な中年男が御者台から飛び降りてくる。カネヒラだと直ぐにわかる。続けて三台の荷馬車が停車。小綺麗な服装だが立派な体躯の男たち——野営地設営の人足たち——が降車する。組合職員らしき細身の人物が、人足たちに指示を飛ばすと、彼らは天幕の撤去に向かった。その様子を一瞥して、カネヒラが落ち着いた足取りでヒルデガルドの元に歩み寄る。


「大司教様。お迎えにあがりました」


 カネヒラが恭しく一礼する。ヒルデガルドも丁寧に返礼。


「今日は妖精種のお嬢さんはいらっしゃらないのですか」と彼女が柔和な笑みで応える。


「D.E.なら最果ての迷宮に座す白き魔女様の元です。何でもご機嫌伺いだとか。気まぐれでして、大司教様にご挨拶もできず申し訳ございません」


「それは残念です。白き魔女様へのご機嫌伺いは大切なお役目です」


「恐れ入ります」


 深緑の大司教の傍で黒百合の聖女が全身で「大切なお役目」を肯定する。カネヒラは、何やら不穏な気配を感じるも状況が飲み込めず、キースに視線を向ける。冒険者同士の意思疎通のための手印で厄介ごとに巻き込まれることを告げられた。カネヒラは作り笑いを崩さない。


 旅装束の冒険者組合の職員が黒百合の聖騎士たちの馬を引き連れてくる。カネヒラからの合図で、その職員——旅装束の上からでも女性特有の曲線を隠しきれない——が、四頭の馬の手綱を其々の主人たる女聖騎士に返す。互いに挨拶を交わし礼を受け応えする。和やかさと華やかさがある。


「設営隊は半刻ほど後に続きます」と冒険者組合の職員が説明すると黒百合の聖騎士筆頭が頷き、主人のアファーリンの守りを固めるため、他の女聖騎士たちに乗馬せよと指示を出した。


「さあ、キース。急ぎましょう。お寝坊さんのフローラを起こしに行かなくてはなりません」とヒルデガルド。


「畏まりました」とキースとアファーリンが揃って優美に一礼。


 直ぐにキースが先導して、大司教と黒百合の聖女を賓客用の馬車に案内する。婉麗な所作で二人が乗り込むのを見届けてから、キースは四頭立ての馬車のボス馬に歩み寄り、その首を撫でる。挨拶は重要だと。


 芦毛の馬を引き連れた冒険者組合の職員がカネヒラに近づいてきた。穏やかな笑みを湛えた美人が親しげに右手を上げて軽く挨拶する。


「なあ、御者台かわってくれないか?」とカネヒラ。


「大司教様と帝国の聖女様ですよ。恐れ多い」と職員が返す。


 旅装束の職員が頭を振れば、長い青髪が揺れる。優しげな笑顔を浮かべて、カネヒラの提案を熄んわりと断わる。


「おっさんの俺が御者を務める方が畏れ多いぜ」とカネヒラが続けて、女にしか見えないあんたの方が無難だろう、と言おうとするのを予測していた様に「貴方は、聖杯発見の功績が認められている。差し障り無しでは?」と返された。胡散臭い墓荒らしは言い返すことができない。


と一緒に御者台とか悪くないね」と横からキースが満面の笑顔で割り込む。


 マー姐と呼ばれたその職員は、キースのお気に入りの一人であった。彼もまたキースと同じ様な症状を抱えている。訳ありの人物。西方動乱では、輜重部隊を一手に担った。カネヒラからの信頼も厚い。軍歴を有する実力者だ。


「キースは賓客用の馬車の中。大司教様と黒百合様のお相手でしょ?」

 

 青髪の職員は年下の妹分を諭すように言った。


「えっ?」


「えっ、じゃねーよ」とカネヒラ。


「むぅ。カネヒラのくせにッ」とキース。


「ささッ、殿。猊下がお待ちかねですぞ」とカネヒラ。慇懃無礼な仕草でキースを促す。


「戻ったら反省会ッ!」


 キースは踵を返して馬車に乗り込んだ。


 二人は、暫く、キースが乗り込んだ馬車の扉を見つめていたが、やおらカネヒラが口を開いた。


「なあ、マーカス」


「何だい。カネヒラ」


「フローラって名前聞き覚えないか?」


「あるさ。珍しくもない名前だが、有名どころだと白曼珠沙華の聖女様」


彼岸花の聖女リコリス・フローラ様だな」


 マーカスは肩を竦め、カネヒラは渋い顔を浮かべた。二人は、先ほどのヒルデガルドの言葉を思い出す。


『お寝坊さんを起こしに行く』


死者蘇生は禁忌だろと二人は心中呆れた。



神聖暦三三四年秋季一ノ月二十日


 墓石の前で跪いて祈りを捧げていた豪奢な司祭服姿の少女が立ち上がり振り向く。光の粒子が散りばめられているかの様に輝いて見える。


「その節は大変お世話になりました」と白曼珠沙華の聖女リコリス・フローラ。


 ——何だろう……妙な迫力がある。


「仕事ですからお気になさらず」とキースが返す。


 彼は、聖女な間合いが近すぎると感じた。未だあどけなさが残る美少女にグッと顔を近づけられて、瞳を覗き込まれる。強い瞳だが生気を感じられない。


 白曼珠沙華の聖女リコリス・フローラも含めて、聖女や聖女見習いには、何とも言えない違和感があり、苦手意識が拭えない。色々な経験を経て胆力も十分に備わった。死んだはずの聖女が蘇ったところで驚くこともない。白曼珠沙華の聖女リコリス・フローラの蘇りの件は、聖女ならば仕方がない、と線引きして、それ以上考えないようにしている。


  ——普通の生者とは言い難いんだよね。あの鉄塊の様に横たわっていた時と同じ感じがする。


 今、彼を無言でじっと見つめる聖女は、深緑の大司教ヒルデガルドの蘇生の奇跡によって、復活させられた。正法に則って儀式が執り行われたように見えるが、黒百合の聖女アファーリンが極めて感激していたことから、儀式は偽装であって、実際は禁秘呪文の多重詠唱か何かであろう。普通の蘇生ではないと断言できる。そもそも聖女が死んでいたのか怪しかったのだから。やがて——


「わたし、そんなに重かったですか?」と聖女が問いかけて、幼子の様に笑った。


 実際、成人したばかりで子供と言えなくもないが、笑えば瞳の印象が変わる。虚空を舐め付けるような視線は消え失せた。


「その節は、胡散臭い墓荒らしトレハンが失礼いたしました」とキースが安堵した様に返す。


 無言で控えていたカネヒラが慌てる。キースはしたり顔でカネヒラを煽る。胡散臭い墓荒らしも舐めるなと、冒険者の手印ハンドサインで煽り返す。二人はいつものように、仕事そっちのけで戯れ合う。


「お二人はとても仲がよろしいのですね……」


 そう囁きながら、暫くの間、生暖かい視線を二人に向けていたが、深緑の大司教ヒルデガルドが墓地に姿を現すと、軽やかに駆け寄る。


「お師匠様。参りましょう!」


 快活な言葉が弾ける。


「あら、もう済んだの?」


「勇者様の魂は輪廻に還られました。最早、惜しむべき別れではございません」


 ヒルデガルドは意外そうな表情を浮かべて感心したように応えた。


「そう。貴女は強いわね」


「強くあるように心がけています」


 聖女とは人ならず。およそ逸脱者と呼ばれる存在なのだろう。あるいは、黄泉から引き戻された故に、人間性が抜け落ちたのかも知れない。


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