第24話 聖遺物

■興味索然


「カネヒラ。此れ何ぞ」


 キースは棚の上にある鈍色の金属製の杯を指差す。カネヒラはキースの興味を惹いた物に一瞥を呉れ、そして応える。


「酒杯だ。迷宮で拾った」


 カネヒラがキースと出会う10年ほど昔、中央王国でも冒険者として名を知られるようになった頃。東方公爵の領軍が支配する軍港から海岸線を南へと辿り、徒歩で二日程進んだ先にある名も無き迷宮、その最奥でこの鈍色の酒杯を見つけた。その事をダラダラと昔語りしながら小型の弩クロスボウ——連射の絡繰りを備えた——を整備している。

 武骨な円卓のうえに雑に広げられた道具。交換用の弦。補強用の鞣革。機械部分の整備用の鉱物油と持ち手の皮革を手入れする蝋油の匂いが漂う。いつもの事だ。

 キースは、その匂いが余り好きではないと言いながら、冒険者組合の建屋の一画にあるカネヒラの部屋を頻繁に訪れている。しかし、棚に飾られた酒杯は、今日初めて目にする物であった。



「聖杯に似ているけど……」


「聖杯?……知らんな。欲しければ一揃え持っていっても良いぞ」


「一揃え?」


 キースは、くるりと振り返り、円卓の空いている椅子に座った。


 ——何言ってんだ、このおっさん。伝説の聖杯がゴロゴロ転がっている訳ないだろ。


 キースは訝しむ。胡散臭いのは毎度の事ながら、今回は特に怪しいと感じたのか、冷めた半眼をカネヒラに向けた。


「九個で一揃え。箱詰めになっている。三箱あるぞ」


 カネヒラは、驚きの表情を浮かべたキースの様子を気にかけることもなく、弩の装填装置の動作を確認しながら、酒杯よりも箱の銀細工の方が価値があると語った。キースの方は伝説の聖杯を只で渡そうとするカネヒラに呆れていた。


「本当に?」


「さあな、港町のスラム街、潜りの鑑定屋の話だから当てにならない」


 キースは一揃えを貰えるのか尋ねたのだが、カネヒラの答えは当てにならない鑑定屋の思い出のことであった。キースとカネヒラ。今日の二人の会話は流れが悪く噛み合わない。キースが生温かな視線を向けて、会話のズレを無言で指摘すると、カネヒラも漸く気がついた。


「ああ、構わん。持ってけ。こいつは、まあ、其れなりに役に立つだろう」


 カネヒラは、弩の手入れを止め、徐ら立ち上がった。彼は、棚に飾っていた鈍色の酒杯を手に取ると、水差しから水を注ぎ、飲み口を指で弾いてから、がっしりとした円卓の上に置いた。澄んだ音が微かに響く。やがて涼やかな音がゆっくりとうねるように消えると、カネヒラは再び酒杯を手に取り、キースに差し出した。


「飲んでみろよ」


「えっと……」


 突き出された鈍色の酒杯は薄紫色の液体で満たされていた。微かに漂ってくる香りは樺の皮の燻煙。それは冒険者にとって馴染み深い。酒杯と胡散臭いトレジャーハンターを交互に見遣り、美麗なキースに似合わない剣呑とした表情を浮かべるも、致し方なしと酒杯を受け取った。見た目よりも随分と軽い。冷んやりとして妙に手に吸い付く。キースはゆっくりと飲み口を唇に近付けると、酒杯をぐっと煽った。


「これ、回復薬だ」


 キースの舌に残ったのは清涼感と甘み。そしてゆっくりと立ち現れて、すっとっ消えた酸味。程なくキースの表情から険しさが消えて喜色が浮かんだ。


「面白いだろ?」


 カネヒラはニンマリと猫の様に笑う。ドロシア=エレノアの影響だ。草臥れてやさぐれた男の皮肉めいた笑い顔とは違う。その笑顔は、彼にも屈託の無い幼少期が有ったのだとキースに思い起こさせるに十分であった。


冒険者組合長アデレイドは知っているの?」とキースは気分良さげに言葉を繋ぐ。


 ——伝承にある通りだ。


「勿論。魔導具としては出来が悪いとか言ってた。でもな、只の水からそこそこ良い水薬が出来る。風呂上がりに一杯なんてのがお薦めだ」


 ——奇跡ではなく、魔術ってこと?


 これは聖遺物ではない。聖人が神々の御神力を顕現させたものではない。出来の悪い魔導具だ。そう言われたように感じて、キースは少しだけ表情を曇らせた。じっと酒杯を見つめた。その後、視線を戻すと、カネヒラはいつもの嫌味な笑みを浮かべていた。


「直飲みする分には問題ないのだが、この杯から別の容器に移すと只の水に戻る。因みに迷宮の中じゃ使えない」


 そう言って、カネヒラは「ガラクタよりはマシだ」と余計な感想を付け加えた。


 奇跡で生み出した回復薬であるならば、たとえ器を替えようとも回復薬のままに何処であれ持ち運ぶ事ができる。奇跡とは全くそういう事なのだから。


「いや、ガラクタじゃないと思うけど……」


 目の前の酒杯は、キースが嘗て王都の冒険者組合に所属していた頃、ヒルデガルドから聞かされていた聖杯と同じ特徴を備えている。正に聖杯であって、決してガラクタではないと反発心が頭をもたげた。


 ——でも、数が多すぎる。


「どうした、キース。歯切れわるいぜ」


「これって聖ロングヒルの聖杯だよ」


「そうかい。まあ、小洒落た聖人様なら暇つぶしに造るかも知れんな」


 ——伝説の聖人の遺物だよ。何でそんなに冷静なんだ?


 キースは、カネヒラの雑な受け答えに対して、遺憾の意を表明すべく無言で見つめ返した。


「何だよ」


 カネヒラはキースの眼差しに違和感を感じた。普段通りの遣り取り。間合いも仕草も変わり無い。男の冒険者同士の粗雑な掛け合い。それの何が気に入らなかったのか、と思いを巡らせる。キースとカネヒラの間に暫し沈黙が訪れた。


 何とも言い難く、その違いが何であったのか、暫しの間、言葉に成らなかった。


 やがてカネヒラは、成程、そうかも知れないと納得した。深緑の大司教ヒルデガルドの影響なのだと。彼女との交流によって、キースは聖ジョージ・ロングヒルに対する知識も興味も高まっている所為だ。また身体の女性化の影響も大きく、兎角、自身の関心事に共感を求めてしまう。それが得られないと心がザラ付くというのも分からなくはない。

 しかし世人にとっては、大聖人と言えども、歴史上の数多の人物の一人に過ぎない。カネヒラも例外ではなく、昔々の偉い人らしいと言った程度でしかない。キースが彼の認識を改めさせるなど徒労に終わるだろう。


 キースは溜め息を吐くと気持ちを切り替える。そして中身を飲み干した酒杯を目線より僅かに上に掲げながらカネヒラに尋ねた。


「これをヒルデ様に贈っても良い?」


「構わんが……深緑の大司教様ならこんなモノを使わんでも好きなだけ作り出せるだろ?」


 そう言いながら、カネヒラは部屋の奥の納戸に入り込んだ。


 ——聞いてないし。


「うん。まあ、そうなんだけど。そうじゃないんだ……」と気のない返事をしながら、開け放たれた納戸にカネヒラの姿を追うように所在ない視線を向ける。

 

 以前なら全く気にならなかった遣り取りが、今ではお座なりに扱われたと、キースは不満を感じずにはいられない。魔女の森の奥底に招かれた前後で、自身の感性が大きくかわったことをキースは自覚していない。何故、気持ちが苛立つのか、彼が省みる事もないだろう。


 納戸から声がした。


「未開封品はこれだな」


 カネヒラは、一抱え程の黒檀の箱を運び出し、キースの目の前に置いた。華美ではないが、銀細工の見事な装飾が施されていた。


「ありがとう」


 ——未開封品とか、どうなっているんだろう。


 精巧な装飾が施された黒檀の箱は一見して無傷。封印の魔法陣が付与されている。キースが箱の上蓋に手を近づけると魔法陣が空中に浮かぶ。その魔法陣の意匠は、古く、華美で複雑だ。この類の魔法陣を描ける者は、アデレイドを除けば、最早この大陸に存在しない。失われて久しい技術であった。

 キースも冒険者の端くれ、この黒光りする箱が千歳を超える御宝であると直感的に理解した。この様な御宝を迷宮から持ち出せば、大抵の場合、封印の魔法陣が崩壊し、魔法陣が堰き止めていた時の流れが押し寄せる。そして瞬く間もなく中身が劣化してしまう。

 美麗な黒檀の箱と無傷の封印を目前にして、キースは改めてカネヒラが凄腕の財宝探索者トレジャーハンターである事を理解した。


「猊下に渡すのは良いけど聖人様の名前は伏せておけよ。贋作かもしれないからな。ちゃんと発見場所やら何やら伝えてから渡してくれ」


「胡散臭い墓荒らしトレハンから貰ったモノだけど、何となく見覚えがあるから持ち込んだと説明するよ」


 少し癪に障ったのか、キースは軽く憎まれ口を叩く。


「胡散臭いのは事実だけどよ。猊下に胡散臭い墓荒らしと伝えるのは止めろ」


 困り顔のカネヒラを他所に、キースはご機嫌な笑顔を浮かべた。



■意在言外


 南方公爵領の領都の大聖堂の一室。柔らかな陽光が差し込む。清浄さと穏暖さに満たされた中、大きくて豪奢な執務卓の上、開封された黒檀の飾り箱の中を覗き込めば、白銀に輝く曇りのない酒杯が九個。キースとヒルデガルドは顔を見合わせた。


 ヒルデガルドは気持ちを落ち着かせるように一呼吸入れると時読みの祝詞を唱えた。この奇跡が発動すると、対象物の製作に関わった過去の人々の挿話的な記憶を読み取ることができる。何からの偽装がほどこされている場合は、その記憶の真贋を同時に見定する必要がある。彼女は、鑑定の祝詞を重ねて、目前の酒杯の正体を慎重に見極めた。やがて一通り作業を終えたところで、彼女は神々に感謝を捧げ、視線を酒杯からキースに向けると喜色を浮かべた。


「キース!素晴らしいわッ!」


 ヒルデガルドは、喜びの余り、ガバつと抱きつき、キースの頬に口付けした。


「わっ、ヒルデ様ッ!」


 彼は杜松果ジュニパーベリー蒲桃の葉ティートリィーの香りに包まれる。聖堂や聖職者の香りだ。それだけではない。ヒルデガルドの胸元から仄かに漂ってくる香りはとても甘い。彼女が無患子の近縁種から作られた石鹸を普段使いしているからだ。南方の聖職者・修道女であれば珍しくもない。しかし、それだけではなかった。彼女から神界の甘美な香りが漂っている。特殊な精油を纏っているわけではないが、神々の愛し子であるが故に、彼女の香りは特別なのだ。

 アデレイドがヒルデガルドに施した隠蔽の魔術は、ヒルデガルドに対峙する人々の精神を保護する効力も有している筈である。しかしヒルデガルドとキースとの間では無効化されていた。彼女の無意識の欲求が原因だ。キースとの関係性を深めたいという無意識の欲求が術式の発動を妨げていた。ヒルデガルド本人が求めなければ隠蔽されないのだ。キースにとっては実に迷惑極まりないことではある。神々しいままのヒルデガルドの美貌は、鮮烈な表情性を伴って、五感を奔流の如く弄ぶ。 

 キースは自身の蕩然とした顔を彼女の深緑の瞳の中に認めると、首に下げているアデレイド謹製の抗魔・抗呪の護符にぐっと意識を集中して、恍惚感に塗り潰されそうになる意識を留めて、神々の域に達するヒルデガルドの魅了になんとか抗う。


「ヒルデ様、落ち着いて下さい」


「あらあら、私とした事が、はしたないですね」


 ヒルデガルドは名残惜しそうにキースから身体を離した。


「本物ですか?」


「ええ、驚いたわ」


 ——聖杯の数が多すぎて普通に驚くよね。


「聖人様の本物の遺物は冒険者の手に余ります。此れ等はヒルデ様に献上いたします」


「まあ……」


「胡散臭い墓荒らしトレハンも本物であれば、ヒルデ様に献上するようにと申しております」


「嬉しいッ!」


 ——飛び跳ねるヒルデ様はちょっと可愛いかも。


 ヒルデガルドの喜ぶ姿を眼福とばかりに鑑賞していると、トントンと扉を叩く音が聞こえた。キースは、視界を広く保ち、扉と窓を油断なく見やる。常に敵性反応の有無は確認しているが、改めて扉と窓越しの空間にも意識を向けた。


 ——敵対者は見当たらず。


 キースはそう断じた後、ヒルデガルドに視線を戻した。彼女は、先程と打って変わり、静謐を携えた凛とした佇まいで入室を許可した。静かに扉が開かれる。格調の高い飾彫りが施された配膳用の台車を押しながら側仕えが入室してきた。


「お茶をお持ちいたしました」


 初めて見る聖女見習いであった。


 ——南方統括大司教の側仕えにしては若過ぎる。


 そう言えばとキースは思い出す。ヒルデガルドの身辺警護を強化する為に南方公爵領都の大聖堂の人員が刷新されていた。依然として正教会の内紛——各派閥による暗闘——が続いている所為だ。例の魔女の森の遭難事件以降、三人の枢機卿を含む正教会の力ある者たちが神々の御許に召されている。その数は三十余。正教会の暗部は、最早、教皇ですら御すことが困難な化け物に成り果てたのかもしれない。

 南方公爵フリッツ・シュバーベンと南部辺境伯ヨハンナ・リートベルグは、ヒルデガルドの暗殺という事態を杞憂と切って捨てられない。故に自らの一族と近縁でヒルデガルドの身辺を固めた。その辺りの事情は機密であるのだが、ヨハンナ伯の師であるアデレイドは、前もってキースに言い含めてあった。無用な揉め事を避けさせるためだ。兎角、冒険者という者は、何につけても力押しに成りがちである。


 ——冒険者組合長アデレイドは心配性なんだよ。レイラだったら怪しい奴を取り敢えず殴り倒すけどね。


 南方公爵の一族血縁だからと油断は禁物だ。キースは若過ぎる側仕えを弛まなく見つめる。数多くの聖女見習いとあまり変わりないようにも見えるが、聖職者とは言い難い足運びから、この若過ぎる側仕えの身体能力は世人を遥かに超えると判断できた。南方公爵がヒルデガルドの警護目的で潜ませた間者の類で間違いない。公爵に連なる者であっても表舞台に立つわけではない。


 ——なるほど。珍しくもないか……。


 若い側仕えは一瞬困惑したような表情を浮かべた。普段は陶器の人形のような無機質で、人を寄せ付けない雰囲気を纏っているヒルデガルドが、妙に艶めかしく見えたからだ。


「私がやります。貴女は下がりなさい。神々に祈りを捧げて静かに過ごすこと。いいですね?」


 ヒルデガルドが察したかの様に柔らかな声音で指示すると、聖女見習いの側仕えは、数拍ののち、黙礼して執務室を辞した。


 ヒルデガルドは、側仕えが静かに廊下を歩き去る様子を気配察知で確認し終えると、「キースの好物は苦味の強い千代古令糖チョコレート」と言いながら軽やかな所作で、少し離れた戸棚から千代古令糖——加加阿を発酵させて粉乳で練った砂糖菓子——が入った陶器を取り出した。

 満面の笑顔で飾り細工の様な千代古令糖を取り皿に並べ、自らお茶を淹れる。そうして、円卓の席に着くようにと、キースを招く。華美ではないが、上品な円卓。黒檀の天板は鏡の様に磨かれ、その縁は銀細工で形取られている。これも聖ロングヒルに由来する古民具だ。キースは遠慮がちに席についた。彼の前に差し出されたお茶から芳醇な香りが漂う。


「さあ、何から話しましょう」


 ヒルデガルドは円卓の椅子を寄せて、彼の直ぐ側に座って茶器を手にとる。優美な仕草でお茶の香りを暫し楽しんだ後、彼女は語り始めた。


様を調べれば調べるほど、謎が増えるの……」


 普段のヒルデガルドとは異なり、何事か迷う様子が伺われ、彼女の表情や気配は僅かな緊張を孕んでいる。


「貴女の知り合いの財宝探索者トレジャーハンターは、黒の妖精種を連れている彼の方よね。他にも聖杯が数多く存在していると仰っているのね?」


「その様に申しております」


 彼女は、傍に浮かべていた聖丈——この世に二つとない神器の類と目される——をやおら手に取ると、歌うように聖文を唱えた。強力な神聖結界がヒルデガルドとキースを囲い込む。二人が座っていた円卓の周囲は隔離された空間になった。第三者の視線からは掻き消えた様に見えた筈だ。もはや二人の会話が漏れる事はない。

 ヒルデガルドがこれから語る事柄は、禁秘事項であるとキースは即座に理解するも、事前の同意なしに巻き込もうとすることに納得できなかった。兎角、権力者というのは身勝手であり、下々の者はそれに振り回されるものだ。


「ここを見て。もし聖杯が多数存在しているのなら意味が通るのよ」


 ——いや見たくないんですけど。それに近過ぎますよ。


 ヒルデガルドはキースの右隣りから身を寄せて空中から取り出した禁書の数行を指し示すも、キースは彼女の魅了によって心身ともに騒ついている所為で禁書の内容どころではない。


「は、はい」


「この書物は、ゲオルグ様の直筆。いつ見ても惚れ惚れとします」


 彼女は恍惚とした表情を浮かべる。世人が間近に見てしまえば、恐らく正気を失うに違いない。魔女の眷族化が著しいとはいえ、キースは未だ只人に過ぎず、その身一つで神々の愛し子の魅了に抗う事は難しい。


 ——あ、これ本当に拙いヤツだ。


 キースは咄嗟に始原の魔女——アデレイドたち魔女の娘の母であり、魔女の森の奥底でとなっている存在——を思い浮かべて加護を求め、何とか正気を保つ。


 しかし、ヒルデガルドは恐慌状態のキースの心中などお構い無し。彼女はこの禁書について詳しく語り始めた。


「これは禁書扱いされているけど、中身はゲオルグ様の日々が綴られているだけなの——」


 要約するならば、この日記は暗号のような構成であり、正確な読み方を知らないものが、字面通りに読んでしまうと、力ある言葉となり、魔術が発動する罠が仕掛けられている。しかも織り込まれているのは死霊術の呪文。読み進める程に膨大な死霊を読み手の傍に呼び寄せる。実に厄介な書物なのだ。


「この美しい文字は死霊術の呪語と呼ぶ人もいるけど、世界の果てにある東方の島々で今でも使われている古い言葉。ゲオルク様の遊び心は素敵よね」


 ヒルデガルドは隙あらば聖ロングヒルを讃える。


 読み方を間違えると、膨大な死霊を呼び寄せる書物を残すようなが素敵なのかどうかは図りかねる。キースは、聖ロングヒルの遊び心は分からないが、この日記の装丁の素晴らしさは理解できた。彼は、取り敢えず何か気の利いた返しをしようかと思って、日記からヒルデガルドに視線を戻した時に、ふと昔の記憶が蘇った。


「どうかしたの?」


 ——この皮装丁なら見たことある。


 キースは日記の装丁や刻まれた紋様に見覚えがあった。死霊術の経典と呼ばれた本そのものである。急に頭の芯が冷える感覚。


「この装丁は見たことがあります」


「えっ?」


 5年程前、ヒルデガルドが禁書庫で見つけたのはこの一冊だけであった。日付から聖ロングヒルの三十代後半の二年間の記録と判断できる。日付から推測するまでもない。他にも日記が存在していた筈だ。しかし、千歳も昔の事であり、現存しているとは予想外であった。


「迷宮から引き上げた冒険者の遺品の中に同じ様な物がありました。多分、今でも冒険者組合の保管庫にあると思います」


辺境の魔女アデレイド様の冒険者組合に?」


「はい。僕の仕事サルベージ。迷宮から引上げた骸さんの遺品です。引き取り手が無い物は冒険者組合で保管しています。迷宮に挑戦した冒険者の記録ですから」


「ねぇ、キース。それを検めさせて貰えるかしら?」


「大丈夫だと思います」


「善は急げですね。今からキースの冒険者組合に行きましょう!」


「明日は大聖堂で説教会があると仰ってましたよね」


「構いません」


「でも——」


「構いませんッ!」


「アッ、ハイ」


 ヒルデガルドは、こと聖ロングヒル絡みの事案となれば、何事よりも優先してしまう。仮令、教皇や国王との謁見の予定があったとしても、神々の御名を騙って、躊躇なく後回しにするだろう。キースの目前では、少女のように目を輝かせて期待に胸を膨らませて、ヒルデガルドが出立を促している。彼は半ば呆れながらも案内役を引き受けた。


■一成不変


 此処は、南部辺境開拓地の冒険者組合長の執務室。冒険者組合長のアデレイドは、普段の装いとは異なる意匠の服——一言で表すなら和装——を身に纏い、執務机に就いている。黒を基調に朱色と銀糸の彩られた着物を着崩して胸元をはだけさせ、微かな虹色を放つ胸飾りで美麗な曲線を華やかせている。また着崩した装いに併せるように、彼女の白金色の艶やかで豊かな髪は、赤珊瑚色の簪で雑に結われていた。中央王国人にとっては可成り奇異に映る。


 アデレイドは、自らの風体に相応しい物憂げな表情で、目前の深緑の大司教ヒルデガルドに視線を向けた。暫しの沈黙の後、溜息と共にヒルデガルドの求めに応じた。


「……其方の申し出なれば止むを得まい」


「アデレイド様に感謝を申し上げます」


 ヒルデガルドは深々と頭を下げて心からの感謝の意を表した。他の高位の枢機卿シングルが目の当たりにすれば憤死するに違いない。正教会の教義の敵、深淵の体現者、無慈悲なる魔女に聖職者が頭を下げるなどあってはならないことだからだ。しかし、彼女は、恩義には恩義を礼儀には礼儀を返すのは当然であり、考えるまでもなく自然とした振る舞いの中で、相手に敬意を表す。

 歪んだ教義に囚われるなど愚の骨頂。彼女は常日頃から正教会の大聖堂こそ信仰から最も遠い場所だと感じている。神々の愛し子たる彼女だからこそ実感しているのだ。

 実際、正教会の教義は、神々への信仰心を歪め、世人から寛容さや慈悲深さなどを奪い取っている。幼い頃から様々な害悪から自分を庇護してくれたに邪悪な存在であると謂れの無い悪評を神々の御名を騙って広めるような正教会の老人どもに吐き気すら覚える。

 ヒルデガルドは幼い頃の事々をしみじみと思い返し、この目の前のを見つめた。今や自分も成長し、大司教やら枢機卿やらと一廉の人物になったのだが、アデレイドの永遠に変わらない姿を前にすると、どうしても幼い頃に感じた気恥ずかしさが湧き上がってくる。頬に朱が差し、稍はにかむような姿のヒルデガルド。アデレイドはその様子を愛おしげに眺め、そして傍のモモに命じた。


「モモ。深緑の大司教殿を閲覧室に案内致せ」


「畏まりました」


 アデレイドの傍に控えていたモモが一礼を返す。顔を上げたモモは悪戯っぽい視線をキースに向けた。モモも和装を纏って満更でもないような表情を浮かべていた。


 ——いや。絶対に突っ込まないからね。


 キースは、冒険者組合長の執務室に入室したとき、アデレイドとモモの主従二人の姿を目にして、可成り当惑したが、表情に出すことはなかった。長い付き合いの所為で、辺境の魔女アデレイドが突拍子もないことをすることに慣れている。モモは、キースの内心を見抜いたのか、不満げな表情を彼に向けたのだが、瞬く間もなく冒険者組合受付嬢の営業微笑アルカイックスマイルを浮かべた。


「大司教様。僭越ながらご案内させて頂きます。こちらへどうぞ」とモモはヒルデガルドを地下の保管庫へと先導する。


「よしなに」とヒルデガルドがその後に続く。

 

「後程、キースを向かわせる。閲覧室にて暫し待たれよ」とアデレイドが付け加えた。


 ヒルデガルドとモモの後ろ姿を見送ると、アデレイドは何処からともなく取り出した長煙管を右手でくるりとひと回しさせて長椅子を指し示し、キースに座るように促した。キースは何だろうと戸惑いの表情を浮かべながらゆっくりと席につく。

 彼女は、執務椅子から優美に立ち上がり、しゃなりしゃなりと近づく。木靴のような珍しい朱色の履き物が目を惹く。足が歩を進める度に、真珠のように輝くしなやかな太腿が顕になる。歩き難いようではあるが、独特の歩法と巧妙な歩調でゆっくりと進む様は、絵になっていた。


 ——やはり冒険者組合長アデレイドは始原の魔女様に瓜二つだ。


 キースは暫し目を奪われていたが、アデレイドが近づいてくると、いつものように傍を占められ撫で回されるかと身構えた。しかし、意外にも彼女はキースの対面に座った。


「キース。あれが見えておるな?」


 キースは数拍ほど考えてから無言で頷く。ヒルデガルドの本当の相貌かんばせの事と理解した。


「其方は、よほど気に入られたか喃」とアデレイドは嘆息する。


 気重なアデレイドとは異なり、キースは敬愛してやまないヒルデガルドに自身が気に入られたことが嬉しかったのか、ぱっと花が咲きほころんだように明朗な表情を浮かべた。ヒルデガルドの本性が何者であるのか、キースは知る由もなく、無邪気に喜ぶのも無理はない。

 しかし、キースたち祀ろわぬ者たちにとって、神々の愛し子など快い存在とは言い難い。神々に抛棄されたことで穿たれた心の中の虚から神々への渇望が止めど無く溢れ心を蝕む。愛し子たちに害心を向けないという保証も無い。ヒルデガルドとキースの組合せは憂患にして難事としか言えない。


「はてさて、如何にせん」


 アデレイドは、このままキースをヒルデガルドに侍らせることの是非について考えを巡らせる。二人は、周囲に厄災を招きかねない危うい取合せであり、実に悩ましい。

 キースに距離を置くように指示すれば、素直に従うだろう。しかし、ヒルデガルドはどうかと言えば、退かないであろうことは、言を俟たない。キースを傍に置いておきたいと強く願い、迷わずに行動するだろう。何かにつけてアデレイドの冒険者組合に足繁く通うようになるのは明白。それどころか冒険者組合内に神々の祭壇を据え付け兼ねない。


「聖職者を堕落せしめる魔女か……楽しげな行末とは言い難い」とアデレイドは独言する。


 神々の愛し子たちは神々に選ばれた特別な存在という意識も驕りも無い。ただ我を通すことに恐れを抱かずに思いのままに生きている。それが傲慢さと指弾する輩もいるだろう。如何に思われようとも構うことなく己の想いを通すのだ。故に世人から見れば大層に我儘である。

 

「どうかしたの?」


「キースよ。ヒルデとの出会いはいつの頃か覚えておるな」


「勿論」


 キースは、無貌の修道女の勧めもあって、十三歳で孤児院を巣立った。王都の冒険者となり、主に失せ物探しの依頼を受けて日々を過ごすことを選んだ。彼にとって幸運だったのは、駆け出しとして仕事を始めて五日目でヒルデガルドの失せ物の探しを引き受けることができたことだろう。依頼を受けたその日のうちに首尾良く失せ物を見つけ出したことで、彼女の目に留まった。見栄えも良く、教会の礼法を弁えていたこともあり、直ぐにヒルデガルドのお気に入りの冒険者となった。

 世間的にも恐るべき新人冒険者として認知されるようになるまで、半年もかからなかった。そして齢十五の成人を前にキースの名前は王都に知れ渡ることになった。ヒルデガルドとキースの二人は、次から次へと聖遺物を世に知らしめ、王都に限らず大陸中で評判となった。


「其方のも宜なるかな。悪目立ちという類じゃ」


 ——あの事件は、曖昧でよく覚えていない。でも、多分、そうなんだろうね。


 キースは無言で頷く。


 置き去り事件の発端となった依頼は、難易度の高い迷宮で聖遺物を探索することであった。その迷宮は、ヒルデガルドが苦労を重ねて漸く特定した聖杯が安置された場所。キースが首尾よく聖杯を入手できれば、その当時の歴史的快挙となる筈であった。

 ヒルデガルドは、年若いキースの身を案じて、王都の冒険者組合本部を通して、高額の依頼料を払い、名の通った古参の冒険者を彼の護衛として雇った。結果として、それが失敗であった。その古参の冒険者たちがヒルデガルドとキースを裏切った。

 

 ——カネヒラが教えてくれた事だけど、男の方は死体で発見され、女の方は行方知れず。王都の冒険者組合なのか、あるいは雇い主なのか、多分、消されたんだろうね。


 冒険者は金で転ぶことが多い。有力な貴族や商人が聖遺物を横から攫う為、冒険者に一生遊んで暮らせるだけの金を握らせる。しかし有力者たちにとっては端金。彼等不心者どもは、自分たちの狭い世界で虚栄心を満たすべく多くの悪事をはたらく。金銭で他人を平気で踏み躙る。罪悪感など無い。

 ヒルデガルドが保有している聖人たちの情報は、今も昔も変わらずに不心者たちにとって垂涎の的である。彼女の依頼を受ける冒険者は常に狙われることになる。


「説教会を取り止め、此処に来るなど、新たな聖遺物が見つかったのだと喧伝しているのと同じよ」


「大した問題じゃないと思うけど……」


「ジェフリーにレイラか?」


 キースは喜色を浮かべて頷く。


「撃退できると雖も無駄な流血は避けた方がよかろう?」


「そうかな?」


 キースは小首を傾げる。

 

「まあ、良い……」


 アデレイドは、諦めたように苦笑いを浮かべる。レイラの影響が強すぎる。そう嘆息しつつ、キースの瞳を覗き込む。そして彼女は身に着けていた首飾りを外すとキースに手渡した。


「何?」


「其方はこれを身につけて居れ。魅了に惑わされることは無かろう」


「ありがとう……」


 ——凄く精巧な造り。しかも強力な護符。


 空中の魔素が魔力に変換され煌めいている。僅かに虹色を放っていたのは表面加工のせいではなかった。形状と相まって、首飾りは一層、流麗に見える。キースが今手渡された首飾りをうっとりみつめていると、アデレイドが付け加えた。


「ただし普段使いは控えよ。ヒルデの傍に居る時に限る」


 ——まあ、冒険者装備の下だとが可哀想だけど、着けておきたいかな……


「不死者になりたいのであれば止めはせぬぞ」


 ——其方かッ。


「むぅ……」


 不服そうなキースにアデレイドが付け加えた。


「同じ意匠で索敵の護符を作ってやるから我慢いたせ」


「分かった」


だ。ではヒルデのところに行ってやれ」


 そう促されたキースは、ゆっくりと立ち上がって、執務室の扉に近づく。彼の手が扉の取っ手に掛かった時にアデレイドが思い出したように再び口を開いた。


「あゝ、あのの日記の中に書かれている呪の事だが、暫くは使うなと伝えよ」


「呪文?あれは白紙だったような……」とキースは昔の記憶を呼び起こす。


高位の枢機卿ヒルデガルドゆえに読める」


 そして、数拍の後、アデレイドが事も無げに言い放った。


「今の其方もな」


「一刻のことだよね?」


「諦めよ」 


 アデレイドは人の悪い笑顔を浮かべ、キースはこの世の全てが終末を迎えたかの様な表情を浮かべた。


 実際、キースがヒルデガルドの執務室で無理やり閲覧させられた聖ロングヒルの日記も、世人には白紙にしか見えない代物である。古語であろうが、暗号文であろうが、力のある言葉であろうが、目に映らなければ、無用の長物に過ぎ無い。神々の愛し子にキースの心の虚が反応した所為で、彼は死霊術への親和性が高まり、また一歩、人に非ざる者へと近づたということなのだろう。全く酷い話である。



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