Ep.05 ジェラートと走る意味

「ちぃ、帰ろー」


 授業時間から解放された放課後の教室は、緩んだ空気で満たされていた。

 窓辺でぼんやりとグラウンドを見下ろしていた辻井つじい千穂ちほは、頭上から降ってきた能天気な声に視線を上げた。

 隣で入江いりえ瑠衣るいが通学鞄を手に立っていた。ぼうっとしていて、彼女のことに気づきもしなかった。

 いつものように明るく振る舞っているのが、千穂への気遣いだとわかっている。

 昨日は部活動に出る気になれなくて、無断で休んだ。

 現実から目を背けたかったわけでも逃げたかったわけでもない。だからといって、目の前にそびえ立つ壁を「なにくそ、乗り越えてやる」という闘争心が湧いてくるでもなく、突きつけられた現実を受け入れた結果、部活をサボるという行為に及んだだけだ。

 しかし、周囲から見れば「辻井は後輩に負けて、大会出場の機会を逃したショックで部活を休んだ」と見られているんだろうと思うと、ますます部活に行く足が遠のいてしまう。

 グラウンドでは、後輩たちがストレッチを始めている。その中には、先週の計測会で千穂のタイムを上回り、今度の競技会への出場を決めた一年生の姿もあった。


「やっぱり部活でなきゃ……」

「えー? いいじゃん、どうせ次の大会に出るの、あの一年だし」

 瑠衣は視線を窓の外にむけて、あごをしゃくる。

「そうだけど、速い選手が選ばれるのは当然だし、わたしは上級生だから……」

「でも、部で一番速い後輩だって、大会じゃ有象無象の一人よ。結果は毎年変わらないって」

「だから、先輩に譲れって?」

「そうはいってないよ、結果は結果だもん。でも、大会に出られないなら、ちぃが部活する意味なんてないでしょ。いいじゃん、もう十分頑張ったし、陸上でスポーツ推薦をもらうわけじゃないんだから。今からしっかり勉強したほうが結果的にちぃにとっていい人生になるって」

「瑠衣は部活辞めるの?」

「ちぃがやらないなら、るいもやらない。それだけ。さ、帰ろ帰ろ!」


 腕を引っ張られ、なかば強引に席を立たされると、瑠衣に手を繋がれるまま千穂は教室を後にした。


 本土にある高校とは違って、遊路高校では選べる部活動も部員も少ない。去年までは選手を選抜する必要もなかったが、なぜか今年に限って、一年生が大量入部してきた。当然、今年は大会に出るために、他のチームメイトたちよりも良いタイムを出す必要があった。

 なのに、千穂はそういった競争が怖くなっていた。

 きっかけは、昨年の県大会。予選を一位で突破したとき、自分より後にゴールした選手たちが、悔しさで涙を流していたのを見て、はっとさせられた。負けた相手の悲しみや悔しさが、勝った喜びの何倍にもなって、千穂を飲み込んだ。それ以来、千穂は誰かと競って走ると、そのときの映像がフラッシュバックして全力で走り抜くことができなくなっていた。


 校門までのアプローチの右手には陸上部が活動しているグラウンドがあり、その反対側は球技専用の第二グラウンドだ。自然と、その第二グラウンド側に視線がむいてしまう。

 低木で区画されたバレーコートにはTシャツ姿の女子生徒が十名近く集まっていた。ただコートにネットは張られておらず、支柱も立られていない。Tシャツも揃いのものではない。すると、瑠衣が一団の一人を指さした。


「あれ、ヤチじゃん」

 グループの中に解散したはずの女子バレー部キャプテン出井八千代がいる。よくよく見てみると、八千代の他に、女子バスケットボール部の椎名泉美や、テニス部の山栄美海までいる。

「あの噂、本当だったんだ」瑠衣がいう。

「噂って?」

「知らない? 女バレと女バス、あとテニス部って、隣のクラスの子と勝負して負けて、部活解散した上に、その子の作った部活に入ったって」

「そうなの? なんの部活?」

「なんだったかなぁ、一応は球技らしいけど。まあ、るいたちには関係ないけどね。陸上一筋だったからボール扱うの苦手だし」

「わたしも」


 千穂は苦笑いを浮かべて答えた。苦手なのは球技ではなく、勝負をする試合のほうだけれど。


「ねえ、このあとポロメリアに寄ってかない」


 瑠衣は千穂のほうに体ごと振り返って、後ろむきに歩きながら笑いかける。あごのラインまで伸びた長い前髪と同じ長さに揃えられたボブカットがさらりと揺れる。前に近所の美容室で「perfumeののっちみたいにしてほしい」といったら、「のっち」が伝わらなくて苦労したといっていた。千穂はおしゃれには無頓着で、美容室に行くのもお小遣いがもったいなくて、半年に一度くらいだ。長く伸びた髪は二つに括ったあと、走る邪魔にならないように、お団子にして耳の上で留めている。友人からはよくリラックマみたいだといわれて、意味もなくそのお団子をモフモフされている。

 首肯すると、瑠衣は元気にこぶしを突き上げ、「よーし、今日はマンゴーパッションハイビスカスにしちゃお!」とテンション高く宣言した。


 千穂たちが住むのは島の東側、新村しんむら地区だ。西側の青花地区に比べると、周囲一面サトウキビ畑で、民家が点在するだけの農業が中心の集落だ。一方で、護岸整備がほとんどされていないため、どこまでも続く白い砂浜が眩しいほどに美しく、引き潮のときにだけ現れる、「くじら浜」と呼ばれる海の中にできる砂洲が観光客にも人気のエリアだ。

 二人は自転車で環状道路沿いを走っていた。環状という名前だが、島の西側では南北一キロ半もの平坦な直線道路になっていて、両側にヤシの木と真っ赤なハイビスカスが植えられ、あたりはどこまでも広がるサトウキビ畑という、まさに南国の風景を写真に切り取ったような光景が延々と続いている。

 やがて環状道路沿いに、真新しい白い外壁の建物が見えてきた。

 この「ポロメリア」は、二年前にできた手作りジェラート専門店だ。どの観光雑誌を見ても必ず掲載されている人気の店で、この島の高校生にとっておしゃれなアフタースクールを過ごすことができる、数少ないカフェの一つだ。

 二人は店の脇に自転車を停めて、短い階段を登り店内に入る。

 ガラスのショーケースの中には色とりどりのジェラートが常時二〇種類ほど用意されていて、定番のミルクやストロベリーのほか、マンゴーやパッションフルーツといった南国フルーツ、ハイビスカスや塩バニラなどといった変わり種もあり、いつ行っても飽きることがないのも嬉しい。

 瑠衣は宣言どおりに、マンゴーとパッションフルーツとハイビスカスのトリプルコーン。千穂は、悩んだ挙句、季節商品のすももと、黒糖ミントのダブルカップを注文した。

 二人は店外のテラス席に並んで座った。店は交差点の角に建っていて、少し高くなったデッキからは、眼前に広がるサトウキビ畑と、アクアブルーに輝く水平線のコントラストが見渡せる。まだ若いサトウキビの葉が、さららと音を立てて波立っている。


「ん-、おいしいっ!」

 満面の笑顔で瑠衣がいう。五月の半ばとはいえ、季節はもう夏の始まりで、生徒たちも夏服で登校してくるほどの気温だ。そんな中で食べるジェラートがおいしくないはずがない。

「定番もいいけど、暑くなってくるとフルーツモノが欲しくなるよね。ちぃのも一口ちょうだい!」

 瑠衣は自分のジェラートを差し出しながら、千穂のカップからそれぞれ一口ずつスプーンにすくい取った。

「おっ、黒糖ミント、意外とイケるじゃん! 次はこれも挑戦してみようかな」


 笑顔で話す瑠衣とは対照的に、千穂はいまだにすっきりとしない表情のままだ。瑠衣はほんの少しだけ呆れ気味に眉をさげる。

「まだ陸上部のこと気にしてるの?」

「この道って長距離の子たちがよく練習で走ってるから、ここにいるのがバレたら気まずいなって思って」

「そんときは、笑顔で手を振ってやりなよ。『アイスおいし~!』ってさ」


 千穂は「そうかも」とちょっとだけ笑った。

 それから二人は、昨日見たテレビや、好きなアイドル。最近のお気に入りのJ-POPの話題をとりとめもなく話して過ごした。こうして瑠衣と話していると、自分の中に溜まった澱がどんどん流れ出ていき、自分はもう走る必要なんてないかも、という気持ちさえ芽生えてくる。

 夏のトップシーズンには観光客でごった返すポロメリアも、ゴールデンウィークが終わって間もないこの時期は、客足もまばらで、店内は誰にも邪魔されない、のんびりとしたおだやかな時間が流れていた。


「いらっしゃいませ」店内で若い女性店員が愛想のいい声でいった。「あら、タエさん。こんにちは」

 大きなキャスターのついた手押し車を押しながら店に入ってきたのは、七十歳は過ぎているだろう、小柄な老婆だった。白髪にすこし黒い髪が混じるグレイの髪を綺麗に後ろで一つにまとめて留めている。

「孫が遊びにくるもんでね、おススメを見繕ってくれる?」

「いいですよ。いくつご用意しましょうか?」


 にこやかに店員は老婆の接客をしていた。その様子をみて、自分も将来は接客の仕事をしようか、と、ふと思う。お客様に喜ばれるために仕事をする。そんな仕事のほうが自分にはむいている気がする。

 しばらく店内のやり取りを見ていた千穂が、ふたたび視線を外の景色に向けたとき、環状道路のむこう側からこちらに向けて走ってくる一団が見えた。急に心臓がとんと跳ねあがり、強く鼓動した。

 もし、あの集団が陸上部だったら……瑠衣は笑って手を振ってやれ、といっていたけれど、無断で休んでいるという罪悪感は、千穂の中でぐるぐると渦巻いていて、ようやく安定していた情緒が少しずつ乱れてくる。千穂は外から自分の存在を隠すように俯いた。


「……ちぃ、店内に入る?」瑠衣はそういいながら、一団のほうへ目をむけて「あれ?」と声をあげた。

「陸上部じゃないよ、あれ」

 そういわれて、顔をあげる。環状道路を走ってくるのは色とりどりのTシャツ姿の女子生徒だ。陸上部なら、部活用の練習着があるから、部員があんなふうにバラバラのTシャツを着用することはない。

「なんだぁ、心配して損した」

 千穂も瑠衣も両足を投げ出して背もたれに体重を預け、そして笑いあった。


「ありがとうございましたー!」

 店内では、店員が老婆のためにドアを開けてお見送りをしている。老婆も何度もお礼をいいながら、店舗前の階段をゆっくりと、一歩ずつ踏みしめながら下っていく。

 そうしている間に一団が店の前を通り過ぎていく。

「あ、さっきいってたナントカ部だ。ヤチとかイズとかいたし」

 瑠衣が彼女たちを見送りながら、食べ終わったあとのスプーンをゴミ箱に捨てる。

 ウッドデッキの脇には階段があって、店内を通らずにそのまま自転車のところまで降りることができる。そろそろ帰ろうと、二人が階段のところまで来たときだった。

 キイィィーー! と甲高いスキール音に続いて、ガッシャーン! と硬いもの同士がぶつかる大きな音が響いた。

 見れば、交差点の真ん中にさっきの老婆が倒れていて、彼女の周りに買ったばかりのジェラートのカップが散乱していた。そして、少し離れた場所に、原付バイクが横倒しになっていて、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が尻もちをついた格好で道路に座り込んでいた。

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