第2話:もう一つの九鬼

 志摩国は、戦国時代から代々九鬼家が治めてきた領地であった。

 伊勢国の東端に位置し、土地は豆ほどしかないが、代わりに紀伊半島一帯の海の支配権が与えられていた。海賊大名の異名を取る九鬼家にとっては、他に代え難い大切な領地だ。

 九鬼家がこの地を追われたのは、宝永二十年――朝廷が挙兵して間もなくのこと。朝廷軍に呼応した伊勢国の大名が、時の九鬼家当主――景隆かげたかを殺し、志摩を乗っ取ってしまったのだ。

 この時、跡継ぎだった影虎ら九鬼家の豪傑三人は、殲鬼隊員として活動を続けていた。

 すでに妖の勢力は衰え、殲鬼隊員は遠方の者から帰還を許されていたが、影虎らは残って、妖の掃討に尽力することを選んだ。結果として難を逃れることになったわけだが、影虎の無念たるやいかほどだったか――


 風が強く吹いている。

 真夏の盛りではあったが、海から吹く風は涼しく、それほど不快な暑さではない。船出にはちょうどよい時期のように思われた。

 宝永二十八年八月七日。九鬼家は旧領志摩を奪還するべく、駿河を発った。

 兵力は駿河の兵千五百に加えて、相模からの援軍が三千。領内の荒廃が進み、戦どころではなかった九鬼家だが、東国同盟の支援を得てまずまずの戦力を整えることができた。軍船も大型の安宅船あたけぶねやメラン製のガレオン船が揃い、なかなか心強い。

 安宅船の一つに、影虎と影狼が乗船した。

 八年越しの悲願達成に向けた船出とあって、影虎は大いに張り切っていた。

 船が動き出すや否や、船べりから身を乗り出し、駿河が誇る紺碧の海に向けて――

「オェェエ~~~」

 汚物を吐き出した。

「九鬼家当主たるこのオレが船酔いとは……海賊大名の名が廃るわ!」

 ―――いや、二日酔いだろ……

 そんな父を、影狼は数歩引いた所から、複雑そうな顔で見つめる。

 あれから、少しは親子らしい会話もするようになったのだが、未だにどう接していいのか分からない。同乗することになったのは恐らく影虎の希望なのだろうが、正直気まずい。

「おい息子!」

「な、なに……?」

 不意に呼ばれて、素で反応する影狼。名前で呼べよ――と内心思う。

 影虎はなにもない海の彼方を見つめ――

「絶対、成功させるぞ」

「はい……父上」

 影虎の背中が、初めて頼もしく見えた。

「あと、そのかしこまった言い方はやめろ。むず痒くて仕方がない。オレのことは影虎と呼べ」

 つい今しがた息子呼びしたくせに――という突っ込みは、心の中にしまう。

 ともかく、影虎が自分との距離を縮めようと頑張っているのは、純粋に嬉しかった。

鵺丸ぬえまるさんは元気にしてるか?」

「うん、元気…………」影狼は肯定しかけて、「なわけないじゃん!」

 三度目の突っ込みは、流石に心の中にしまっておけなかった。

 影狼がここへ来ることになった経緯は、当然影虎は知っているはずで……

「ああ、悪ぃ。そういや鴉天狗は今大変なことになってんだったな。でもまあ、意外と元気かもしれねぇだろ? クカカ……カハッ、ゲホッゲホッ」

「………」

 どうも調子が狂う。まだ酒が入っているんじゃないかと、影狼は思う。

 落ち着きを取り戻した影虎は、さらに話を続けた。

「オレが殲鬼隊に入った時の、最初の隊長が鵺丸さんだった。いろいろと世話になったし、私的な付き合いも多かった。オレが今まで会ってきた中で、一番信頼のおける人だった。だからこそ、お前を預けたんだがな……まさか、こんなことになるとは」

 影狼は自分が鴉天狗に預けられた経緯を、万次郎から聞いたことがあった。

 影狼が生まれてすぐに、母は影虎を見限り家を出た。九鬼家の跡取りになり得る影狼を、母が連れて行くわけにもいかず、かと言って殲鬼隊で活動中の影虎には、子育てをする余裕がなかった。そこで、ちょうど引退したばかりの鵺丸が、鴉天狗で預かることになったのだという。

 その五年後、志摩の九鬼家が滅ぼされた時も、影狼はそのまま鴉天狗に置き去りにされた。

「……お前には辛い思いをさせたな」

「いいよ。鴉天狗に行かなければよかっただなんて、思わないから」

 これは本音である。鴉天狗で、影狼は人並みの幸せを享受していたのだ。一年前までは……

「オレはこの遠征で死ぬ気でいた」影虎は言った。「だがお前が来るとなった以上、そうもいかなくなった。絶対にこの遠征を成功させてやる。そしてお前を無事羽貫衆のもとに送り返す。約束だ」

 影虎が拳を出すと、影狼も拳を出し、突き合わせた。

「オレも、志摩を取り戻すまでは付き合うよ」


 その夜、影狼は坐禅を組み、黙想に浸るでもなく、ただ波の音だけに意識を集中していた。

 駿河に来てからの半年間、影狼は柳斎から教わった気功きこうの修行法を、毎日欠かさず継続していた。坐禅だけは未だに苦手だが、船の中では不思議と集中できた。

 坐禅を終えて、床に就く。

 枕元には、いつものように海猫うみねこが置かれていた。

 それは亡き義兄の幸成ゆきなりから譲り受けた刀。

 影狼はずっと妖刀ようとうだと聞かされていたのだが、海猫には邪気がまったくない。柳斎曰く、邪気ではなく気によって術を生む刀――仙刀せんとうだそうだ。

 感情のままに振るうことで力を発揮する妖刀とは対照的に、仙刀は無我の境地でなければ本来の力を発揮できない。ゆえに影狼は気功の修行を必死に続けてきたのだ。

「見ててね幸兄。オレも、やっと海猫が使いこなせるようになったんだ」

 影狼が語りかけると、暗闇の中で淡く光る海猫が、わずかに瞬いたように見えた。


     *  *  *


 出航から十日目の朝、九鬼の遠征軍の船は三河国の沖合にあった。

 三河の国の名は、禿川とくがわ皮剥川かわはぎがわ乙女川おとめがわの三つの河川に由来すると言われているが、定かではない。徳川幕府初代将軍――泰平やすひらの出身地であり、皇国が興った時は幕府側に付いていたが、今では皇国の支配下に収まってしまっている。つまりここは、敵地の真っ只中。

 もういつ敵と出くわしてもおかしくない。志摩が近いということもあって、遠征軍の船内には張り詰めた空気が漂っていた。

 影虎は主だった部下を集めて、作戦を再度確認した。

「今日中には志々答島ししとうじまに着くはずだ。まずはそこを拠点にして、志摩攻略の足掛かりにする」

 志々答島は、戦国時代に九鬼水軍が拠点にしていた地である。

 地理的な重要性はもちろんだが、ここを押さえれば敵味方に与える心理的影響も大きい。

 九鬼が帰って来たぞ――と、味方を鼓舞し、敵を慄かせるのだ。

「気合い入れろよ。奇襲ってのは最初が肝心だ。敵の準備が整わないうちに、一気に叩くんだ」

 そう言ってから、影虎は表情の硬い息子を気にかけた。

「どうした? 船酔いか?」

「違うよ。ちょっと緊張してるだけ」

 戦は初めてではないが、今までは強力な味方に守られてばかりで、およそ自ら矢面に立つこともなかった。戦が近いと分かって、影狼は急に不安になって来たのだった。逃げ場のない船の上というのが、なにより怖い。こんな気持ちで、本当に海猫が使いこなせるのだろうかと思うと、さらに不安が募る。

「大丈夫だ。オレが付いてる」

 そんな影狼に寄り添うように、影虎は肩に手を回す。

 全然大丈夫な気はしないが、戦への不安が少し和らいだように、影狼には感じられた。父に対する不安が取って代わっただけなのかもしれないが……

「しかし、懐かしいですな。志々答島……あの島には確か、まだあれが置いてあったはずです」

 不意に、集まった者の中で最年長の武将がつぶやいた。

「ああ、あれか」うなずく影虎。「あれこそまさしく九鬼水軍の象徴。ついでに取り返してぇな」

「あれってなに?」

 首を傾げる影狼に、影虎は得意顔になって教える。

鉄甲船てっこうせんだよ。お前も見たらビックリだろうぜ。特大の安宅船に鉄板を貼っ付けた船でな、どんな攻撃も寄せ付けねぇ。鉄甲船で、九鬼家は戦国の海を制したのさ」

 だが、影狼は聞いていなかった。遥か遠くを見つめて、今度は指を差し――

「いやそうじゃなくて、あれ」

 指に導かれて影虎が見たのは、海面に浮く巨大な黒い塊。

「あっ、そうそう。あれが鉄甲船だよ。いやぁ、久し振りに見たけど、やっぱでっけぇなぁ…………」感傷に浸りかけて、「っておい! なんで鉄甲船がここにあるんだよ!? ありゃ敵だ! やべぇ、敵襲だ!」

 影虎が叫ぶと、船内はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

「みんな持ち場に戻れ! やべぇ、どうしよう。とりあえず雁行陣組め!」

 あたふたしながらも次々に指示を出す影虎。

 沖での遭遇戦は想定していなかったわけではないが、鉄甲船まで持ち出しての完全武装した敵は考えていなかった。志摩への奇襲作戦が露見していた場合でなければ、それはあり得ないはずで、それはすなわち――作戦の詰みを意味していた。

「影虎様。一度駿河に戻られては?」部下の一人が影虎に進言する。「あれだけの船団で迎え撃ってきたということは、敵は我々の動きを知っているのやもしれませぬ。すでに志摩の守りも固められているでしょう。到底上陸など……」

「いつになる?」

「は?」

「今回を逃したら、オレが志摩を取り戻すのは一体何年先になるんだ!? ただでさえ、この先東国同盟の支援があるかも分からねぇってのに」

 はち切れそうな目で睨まれて、その部下は委縮するしかなかった。

「それに、考えてもみろ。オレたちが出払った今、駿河はもぬけの殻。東国同盟の兵が留守を守ることにはなってるが、そんなの信用できるか! オレたちが役に立たないと思ったら、追い返してそのまま乗っ取るに決まってる。オレたちに帰る場所なんてねぇんだよ……! 志摩以外にはな」

 影虎が船首の方に移動すると、老将が敵側の様子を告げた。

「敵船は六隻。すべて鉄甲船でございます」

「こっちの動きを知ってたにしちゃ、少ないな」

「念のため、探りを入れてみましょうか」

 敵の船団は横一列に並び、戦闘隊形を取っていたが、まだ仕掛けてくる様子はない。

 老将は年齢を感じさせない大きな声を張り上げて、敵側に呼び掛けた。

「其の方らは何者か!? 皇国の者か? 幕府方の者か?」

 返答は意外にも、少年のように甲高い、威勢のいい声でなされた。

「我らは九鬼海賊! 志摩の海を荒らし回る天下一悪名高い海賊よ!」

「なにっ!?」

「ここは我らの海ぞ! ここを通ったからには通行料として積荷をすべて差し出せ! できぬというのなら命を差し出せ!」

 敵が自分らと同じ九鬼を名乗ったことに、困惑する九鬼の遠征軍。

「ざけんじゃねぇ! 喧嘩売ってんのかコラ!? オレたちが本物の九鬼水軍なんだぞ!?」

「殿、あまりそのことは言わない方が……」

 影虎に至っては、探りを入れるはずが、先に自らの素性を明かしてしまう始末であった。

 船内の混乱を不安に思った影狼が、影虎のもとに駆け寄った。

「なに? 一体なにがどうなってるの?」

「敵が勝手に九鬼を名乗ってやがるんだ。馬鹿にしてるのか、真似っこしてるのか分からねぇが、腹立つ奴らだぜ。第一、オレたち九鬼家は海賊大名と呼ばれちゃいたが、こんな盗賊紛いのこととか、海を荒らし回るとかチンケなことはやらねぇ。節度のある海賊だ」

 影虎らがわちゃわちゃしているうちに、再び少年のような声が敵船から響いてきた。

「返答がないということは、命を差し出すと受け取っていいんだな!?」

 遠くからでも、声の主が苛立っているのが伝わってくる。短気な性格のようだ。

 だがこちらの九鬼にも、負けず劣らず短気な奴がいる。

「上等だ! どっちが本物か、嫌というほど思い知らせてやる!」

 勢い込んだ影虎は、全軍前進の合図を送った。

 伝説の鉄甲船と言っても、活躍していたのは百年前のこと。最新鋭を揃えた本物の九鬼水軍の敵ではないように思えた。数の上でもこちらが優位に立っている。

 九鬼の船団が動き出したのを見て、敵船も前進を始めた。

 そして両軍の距離が二町約二百二十メートルほどになった時、最初の攻撃が始まった。

 鉄甲船の砲門が、火を吹いた。

 ドドォオオオン!

 砲弾は大きく横に逸れ、海面に豪快な水柱を立てた。

「チッ、いい大砲持ってやがるな」影虎は羨ましそうに、指をくわえて言った。「オレが志摩にいた時は、あんな威力出る大砲なんかなかったぞ」

「こちらも撃ち返しますか?」と、老将。

「まだいい。このまま前進だ」

 横並びになって砲撃を始めた敵船団に向かって、影虎の軍は一直線に突撃していった。

 一見無謀にも思える突撃だが、影虎には算段があった。

 砲の性能では敵の方が上。一方、船の速さと兵力、砲の数では影虎の軍が上回っている。それならば早々に接近戦に持ち込み、物量でゴリ押ししようと考えたのだ。縦一列の隊形にしたのは、砲弾を避けやすくするためである。影虎自ら突撃の先頭を行くのは、無謀と言えたが……

 鉄甲船から次々に砲弾が撃ち込まれる。近付くにつれて精度が上がっていく。

 いくつかの砲弾は、先頭を行く影虎の船をかすめた。

「父さん、無茶だって!」

 それでも前進を止めない影虎に、そばにいた影狼が不安そうに訴えかける。

「心配すんなって。当たりやしないさ。オレが付いてるからな」

 影虎は自信たっぷりに笑いかけた。

 だが、次の瞬間――

「殿ぉおおお! そちらに砲弾が――」

 ズドォオオオン!

 爆音とともに弾け飛ぶ木片。船体が大きく揺らぐ。

 鉄甲船から放たれた砲弾が、ちょうど船首の縁の辺りに命中したのだった。

「……っ!」

 気付いた時には、影狼の体は宙に浮いていた。

 足元には、海面が見えていた。底の見えない、青黒い海が……

「影狼ぉおおお!」

 父が自分の名を呼ぶ声を聞きながら、影狼はなすすべなく落ちていった。


 着水の衝撃で、影狼は気を失いかけた。

 目を開けると、そこはどこまでも広がる暗闇の世界。太陽の光が差し込む水面が、遠くに見えた。下を覗き込むと、さらに深い闇が大口を開けて待ち構えていた。黄泉の国への入口のようにすら感じられ、影狼はゾッとした。もう下は見ない方がいい。

 全身が痛むのを我慢して、影狼は必死に水をかく。

 だが思うように進まない。

 ダメだ……苦しい……息ができない……!

 海の上から聞こえてくる雷に似た轟音が、恐怖を掻き立てる。

 くそ……こんな……こんな……!

 再び気が遠くなる。

 羽貫さん……栄作さん……來……みんな……

 悔しさを滲ませた瞳から、光が失われていく。

 まぶたが、ゆっくりと落ちてゆく。

 ごめん……!

 声が――優しく心地よい声が聞こえてきたのは、その時だった。

『どうした? 海猫を使いこなせるようになったんじゃないのか?』

「!」

 影狼は反射的に目を開けた。いつの間にか、息苦しさがなくなっている。

 ぼんやりとした光が、そこに浮かび上がっていた。

『仕方ないな……手本を見せてやるよ』

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