Presto26

雪野千夏

第1話

この街に愛はない。心はない。人間は、いない。いるのはヒトの皮をかぶり、服を着て歩く欲望だけだ。

月のない夜だった。昼は放置自転車とガキの喧嘩。夜はネオンと客引き。喧騒とその場限りの関係が交錯する街に声がすべてを貫いた。


「っふざけるな!」


なんのフィルターもなく周りへと発散される怒りに、ほろ酔いの男が立ち止まり、着飾った女が振り返った。タバコをくわえたホストは、顔を上げた。

往来のど真ん中。ネオンの光を浴び、アスファルトを踏みつけ、その男はいた。強い明かりに照らされ一つの影に見えた。薄着なのか、シャツからわずかに蒸気が上がっていた。


若い声はまだ二十代だろう。その男は金でも力でも色でもなく、ただむき出しの感情だけでこの街を自分へ縫いとめていた。男は、その身に視線を集めていることなど気づく様子もない。携帯の向こうに怒鳴りつけた。


「だから!」


前を見据えたままの男の薄手のシャツから蒸気が上った。秋とはいえ夜風は冷たい。


『……分かって、いるでしょう?あなたもプロなんだから』


呆れたような、諭すような女性の声に、スマホを持つ男の手に力が入った。男は唇を噛み、下を向いた。その視線の先で細い煙を上げる吸殻が一つ、転がっていた。煙が揺れる。


『水谷クン!』


自分の名を呼ぶ声に男は爪先で吸殻を潰した。


『水谷クン?』


いくらか心配の色をにじませた声に水谷は切れ長の目を細めた。つぶした吸殻を爪先で蹴り上げ、声を出そうと彼の唇が緩んだときだった。潰された短い軌道を描く。ビチャン、水溜りに沈んだ。


『・・・・ない・・だしね?』


瞬間、水谷は肩を震わせた。瞳から一気に怒りが消えた。不自然なほどに一気に彼の周りの空気が緩んだ。近くにいた女はようやく秋の寒空の下にいることを思い出したように、腕をさすった。足を止めさせるほどの彼の鮮烈な怒りの色はきえたのに、夜の街は動かない。ただ水谷に魅入られたかのように止まっている。


ピンクのネオンが水谷の右側を照らした。ふ、と水谷は上を見た。何もない空に目をつむった。中性的なその顔にネオンが当たり、影が生まれた。鼻筋を通って首へと続く影。そらされた首は白い曲線を描き、点滅する光が喉仏の上で、なまめかしく揺らめいた。


酔っ払った男が唾をのむ。女が切なげに眉を寄せた。


「ずるいよ、それは」


ひゅうっと空気が途切れ、喉が動いた。影が波うった。長い睫毛から一粒、涙が落ちた。それは頬から顎を伝い、ネオンの影が落ちた水谷の喉をなぞる。すうっと一本、冷たい跡を残して消えた。陶然とした雰囲気に誰もが呑まれていたときだった。

ガコン。静まり返った街に硬い音が入り込んだ。

誰もが振り返った。


青とピンクのネオンの谷間。一見すると暗闇にしか見えないその場所で影が動いた。立看板らしきもの陰から立ち上がったのは一人の青年だった。それはこの街に住むものなら誰もが一度は目にしたことがある人物だった。男も、女も自分たちを訝しげに見つめる青年に、われにかえると歩き出した。動き出した夜の街に青年もわずかに眉を寄せただけで、すぐに自分の仕事へと戻るためきびすを返した。

いつものように動き出した街でただ一人、水谷が立ち尽くしていた。


「梶井?」


水谷は呆然とつぶやく。こんなところにいるはずのない人間だ。だが水谷の心はそれが確かに梶井もときなのだと言っていた。

水谷はの消えた場所を見つめたまま、歩き出す。一歩、また一歩。右手に握った携帯から水谷を呼ぶ声がした。水谷には聞こえていない。

ネオンの明りも終わりへと近づく場所。水谷は立看板の前で足を止めた。


《沈奏舎》


青いネオンに右半分を照らされ、暗闇で左半分を隠されたそれは、光の街に打ち捨てられた粗大ゴミのようだった。いびつに彫られた文字は醜悪で、一本欠けた足は風が吹くたびに揺れる。暗い青に照らされる文字を水谷はそっとなでた。地下へと続く階段を見た。

軽く目を見張る。ほんのわずか洩れ聞こえる音は、彼のよく知ったものだった。笑みをうかべた。


「そうだったんだ」


冷たく張り付いた頬をなでる。その手にある通話中の携帯に気づく。地下へと続く階段と、けたたましく彼を呼ぶ携帯を見比べる。血の滲んだ唇に舌を乗せた。固まり始めた血をなめとると前を見た。


「沙織さん」


ほっと携帯の向こうで女性が安堵の息をつく。水谷は口を開いた。


「さよならです。もうやめます」


ピ。機械的な音で会話は終わった。水谷は静かに沈奏舎へ続く階段を下りていった。

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