遊女と私3

「もうええよ。あんたの気持ちは十分に伝わった。そやさかい次はうちの気持ちを伝えさせてくれへん?」

「分かりました」


 頬に触れた両手はそのまま、私は一歩彼に歩み寄った。

 そして彼と過ごした日々を思い出しながら言葉を喉から押し出した。


「わっちのお客は皆決まって自信に満ち溢れ、吉原屋の最高位花魁であり自分と偽りでも愛を語り合う相手であることわっちに求めてる。そやさかいわっちもそれに応えてきた。そやけどああんたは最初から違とった。あの夜も緊張と不安を正直に表に出して他のお客とはさらさら違とった。そやけど一番はわっちとは違うて綺麗なまんまなとこ。それが羨ましおして少しでも近づきとうて――惹かれとった。そやけどそれから手紙のやり取りが始まり会うようになって、わっちは段々とあんた自身に惹かれていった。あんたの愛らしいとこも優しいとこも真っすぐわっちちゅう人間を見てくれるとこも一途なとこも。あんたとの時間はわっちにとっても楽しおして特別やった」


 私は次の言葉を口にする前に少しだけ一人、昔の事を思い出した。


「――実はわっちがまだ禿やった頃のこと。朝顔姐はんと花魁道中で歩いとった時のこと。ほんまは覚えとったんやで」

「え? 本当ですか?」

「皆揃うて朝顔姐はんへ恍惚とした顔で見つめる中たった一人、その男の子だけはわっちを見とった。それが八助はんっちゅうのんは言われるまで気ぃ付かへんかったけどわっちはその男の子を覚えとった。よう思い出してみたらあの時と今の八助はんのわっちを見る視線は変わってへんのやな」


 そう言うと私は頬から両手を滑らせ彼の首に回した。それにより更に私たちの間にあった距離が縮まる。同時に着物越しに感じた腰に回る彼の手。


「きっとその瞳に映ってるわっちは、わっちが思てる以上に綺麗なんやろうな」

「すごく綺麗です」

「わっちは遊女としての自分を脱ぎほかされのうてその所為で辛い気持ちになっとったんやけど、八助はんの言う通りそらわっちの想いがほんまもんやさかいなんやろうな。そやけどどないしても脱げへんさかい想いが偽りだって思い込んで八助はんから離れようとしとったのかもしれへん。そやけどもうその必要もあらへん」


 辛いのもこの一回切りなら耐えながらでも想いをちゃんと伝えよう。それが八助さんへの少しでもお返しになるはずだから。

 でも今自分が座敷に居て八助さんというお客に付いているような気がそれを邪魔する。夕顔としてお客の気を引き満足させようとしてるだけのような気がしてならない。そしてそんな自分が嫌いだ。

 だけど私は深く息を吸うと無理矢理にでもそれを今まで八助さんと会っていた日々の想い出で塗り潰そうとした。彼の笑顔や照れた顔、そんな彼を見て高鳴った胸の感覚。それに集中した。

 これが最初で最後。これ以上の返しは無いと知ってるから辛さごと全てを受け入れよう。


「他の男たちにあらへんモノを八助はんは持ってる。あんたはわっちにほんまの愛を教えてくれた。そやさかい他の男たちがどれだけお金を積もうとも手に入れれへん――わっちの心をあんたに」


 あの時、私は八助さんとのを避けたにも関わらずあのお客の唇にはあっさりと触れてしまった。まるで自分で遊女である事を知らしめるように。

 その時の事が直前で頭に過ったが私は目を逸らした。後からこの行為を彼の気持ちに対する裏切りだと自分を責めることになったとしても、彼との最後の記憶が後悔の色に染まっていたとしてもいい。八助さんの中で私との最後の記憶が良い物であるなら。

 私は軽く息を吸って吐いた。


「八助はん。あんたの事を心から――愛してる」

「僕もあの瞬間からずっとあなたの事を愛してます」


 言葉の後、近づき始める私と彼の唇。

 もし彼と遊女になっていない人生で出会っていたらどうなってただろうか。そんな事を考えながら目を閉じると一滴の泪が流星のように頬を流れ落ちた。

 そして唇に触れる柔らかな感触。言葉で語る以上の愛がそこにはあり私はいつの間にか何もかも忘れこの時間を味わっていた。どのお客とも違う、初めて知った本物の味。全身に広がり包み込む愛は心地好く、何より私の彼に対する想いをより強くハッキリとした存在にさせた。意識を集中させたとでも言うのだろうか。私の胸は彼への愛で膨れ上がり鼓動と共にそれが全身へと流れていく。遊女としての自分など考える余裕すらない程までに私は身も心も彼に夢中になっていた。

 そんな快夢のような時間は指を鳴らすように一瞬で終わりを告げ、彼から私はそっと離れてゆく。首に回していた手は再び撫でるように彼の頬へ戻り、私は恍惚としながら彼を見つめていた。ただ未だ残る余韻の愛情に包まれながら。

 でもそんな自分に気が付き我に返ると、私は自分の中へ一気に広がる不思議な感覚を感じた。遊女としての自分すら忘れただただ心地好さに浸り、彼の頬に触れている自分の手に穢れを感じない。そして苦しさも辛さもなく愛情と幸せだけで埋め尽くされた心。

 それは私がずっと求めていた私だった。こうやって彼の傍に居たいと願う自分。あまりにも不意に自分の元へやってきた私は青天の霹靂で、彼を見つめたまま凍ったように固まってしまった。

 するとそんな私の片手に八助さんの手が重なり合う。頬と手に――彼の温もりに包み込まれそれを感じると、止まっていた思考ごと凍解氷釈した。

 遊女としての私がお客に見せていたのは夕顔としての顔だけ。そこには空っぽの本心と偽りしかない。そんな自分と八助さんの前にいる自分がまるで同じように感じてしまいそれが心から嫌だった。だからそんな穢れ切った自分を脱ぎ捨て本心だけで彼の傍に居ようとした。一人で内に抱え、その間、触れる事も言葉を口にする事も拒んで。でも私が穢れる事を嫌っていたのは八助さんというよりも彼に対する私の想い――本心の方だったのかもしれない。その本心を守る為に内に隠したまま遊女としての自分を脱ぎ捨てようとした。でも結局はそうすることで私はより遊女に近づいていた。お客にしてたように本心を隠して彼に接してた。ただ違うところは、それは偽りじゃないってこと。彼に対する想いも手や頬に触れる事も全てに想いの詰まった本心があった。だからこそ辛かった。相手が目の前にいるのに溢れ出す想いを伝えられなず。苦しくて、辛かった。

 だけど私に必要だったのは遊女を脱ぎ捨てる事でも本心を守る事でもない。むしろ全てを曝け出すこと。もう夕顔は皮膚を剥がすようにどうしようもなく私の一部になってしまってたから。だから私はそんな穢れた夕顔が嫌いな事もそれによって穢してしまう事も。そして私の彼に対する想いも全部。何もかも曝け出す事で私は自分の望むように本当の私に成れる。

 空っぽ本心を隠し偽りだけしか見せぬ夕顔と嫌いな自分を隠そうと想いの詰まった本心の一部しか見せぬ私。結局二人を繋げているのは自分を認められない私だった。どれだけ嫌いだろうと私が夕顔であることに変わりはない。だからその全てを見せ受け止めてもらわないといけなかった。なのに肝心の私がそれを拒み一人悶えていた。そんな事気にしてない彼にただ全てを曝け出すだけで良かったのに。

 やっとそれが出来て私は八助さんと向き合い想いを何の躊躇いも恐れもなく伝えることが出来た。でもそれもこの後がどうなろうと構わなかったから。

 こんなことならもっと早く。そんな後悔とより深く濃い想いを胸にしたまま離れなければならないという事を思うと感情の海に身が放り出された。


「夕顔さん?」


 心配そうな八助さんの声を聞きながら両頬を流れ落ちる泪は酷く愛に満ちていた。こんな顔を見せるくらいなら、こんな思いをするのなら。何もせずこの場を立ち去った方が良かったのかもしれない。そんな事さえ思うけどもはや何の意味もなかった。


「そやけどもう全部終わりやな。わっちはここを離れあの人の妻になってまう」


 隠す事すら出来ず涙に濡れた声。


「別の人生であんたと出会えとったら良かったのに。つくづく運があらへん女やな」

「そんな……」

「気持ちは分かるけどこればかりはどうにもならへん。最後がこんなんで良かったのかは分からへんけど正直に想いを伝えられたことは良かった。出来る事ならわっちとこの想いを心の隅ででも覚えてくれると嬉しい。わっちもあんたの事は忘れへん。だから……」


 私の隙を突くように一気に込み上げてきたそれに危うく啼泣しそうになったが何とか堪え、少し気持ちを落ち着かせてから最後の言葉を口にした。


「そやさかいわっち抜きでちゃんと幸せになってな。――おさればえ、八助はん」


 私は何も言えずにいた八助さんの返事を待つことなく――むしろ聞く前に彼の頬から手を引くとその場から立ち去った。振り向くことなく部屋まで何とか耐えながら。

 そして部屋に入り襖を閉めると、私は張りつめていた糸が切れるように嗚咽しその場に蹲った。内側から込み上げる感情の濁流がそのまま双眸から流れ落ちるのにも関わらず一向に晴れない心。でも今の私は底なし沼に呑み込まれるような感覚の中でただ泪を流し続けるしかなかった。もう二度とその優しさや温もりや愛に触れる事の出来ない最愛の人を想いながら。

 ――心から愛してるからこそ苦しく、辛い。


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