第五章:遊女と私

遊女と私1

「夕顔さん?」


 朝顔姐さんと八助さんとの想い出のあの場所は秋生の宣言通り打ち付けた板で入れなくなっていた。だから私は代わりにその前で時折、煙管を咥えてる。ひさがそうしてたように。

 するとそれは突然の事だった。私が自分よりも自由な煙を空に吐き出していると、後ろに建てられた木塀の向こう側から耳馴染みのある声が聞こえた。一瞬会いたい気持ちが聞かせた幻聴か単なる聞き間違えかとも思ったが確かに聞こえた。でもどうして? そんな疑問が頭に浮かぶが答えなど見つかるはずもない。

 私は咄嗟に後ろを振り返り少しの間、唖然としながらただ木塀を見つめていた。だがこのままだといるかもしれない彼がこの場を去ってしまうかもしれない。

 ――でもその方がいいのかも。声を出さずいない振りをする方がいいのかもしれない。だってあんな手紙を勝手に送り関係を絶った今、今更何を話せばいいのか分からないから。それにもし話しをしてるところを見つかりでもしたらまだ短い間だけど必死に耐えてきた意味がなくなる。

 だけどそんな私へ問いかけるように脳裏で再生される想い出。

 気が付けば私は自分の感情を抑えきれず声を出していた。


「――は、八助はん?」


 言葉と共に一歩塀へ近づく。

 するとすぐに彼の声が返ってきた。


「夕顔さん!」

「なんでこないなとこに?」


 未だ戸惑いを隠せないその声は小さい。でもちゃんと届いたようでまた彼の声が聞こえる。


「僕。その……。手紙受け取りました」

「……そうなんや」


 すぐにでも訂正したかったが秋生の言葉がそれを止めた。そうと知れば八助さんはまた会おうって言ってくれそうで、それを断る自信がなくて。

 それにあんな手紙を読んで彼がどう思ってるのかを知るのが少し怖かったっていう気持ちもそこにはあった。


「正直、信じられなくて。だから直接、夕顔さんから聞きたいんです。本当にもう会えないですか? 手紙も終わりですか?」


 そうだと、言わなければいけなかったんだろうが私は何も言えなかった。心に引き留められたようにその言葉は私の中に留まり続けた。


「僕、夕顔さんが手紙を返してくれた時すごく嬉しかったんです。まさか返ってくるとは思ってなくて。それからの日々はずっと夢の中にいるような気分でした。一日の内のほんの少しだけしか変わらないのに全部が一変したみたいで最高の日々でした。あなたと別れた後なんかもう次が楽しみで手紙の返事を書く時も待ってる時でさえ楽しくて仕方なくて。でももう終わりですか? あなたがもし終わりって言うならそれでもいいです。本当はどうにかして続けたいけど、この気持ちより僕はあなたの気持ちを優先したい。だからもしそうなら言ってください。あなたの声で別れを聞きたいんです」


 私だって。その気持ちはまるで自分の事のように分かる。だからこそ終わらせたくはなかった。年季が明けるまで続いて欲しかった。

 でも終わらせずを得ない。そうしないと彼だけじゃなく三好も犠牲になってしまうから。

 私は彼が諦めざるを得ないあの事を口にした。出来れば終わりだなんて言いたくないから。


「わっち、身請けされんねん。まだ正式に公にされた事じゃありんせんけど、もう決められてる事。でありんすからどちらにせよもう会う事はあらへんな」

「話が来たのは知ってましたけど、決まったんですね」

「そうやな」

「でも僕は知りたいんです。夕顔さんはあの日々をどう思ってるのか。この場所で見せてくれた笑顔は心からのものだったのか。僕はあなたの言葉を本心としてこの心に留めてていんですか? それともあれは全て――」

「そらちゃう」


 それは気付いたら声に出ていて反射的にした否定だった。もしそれを肯定したり無言で聞き逃せば自分で自分の気持ちを否定するような気がした。彼に言った言葉や彼に伸ばした手。確かにそれは遊女としてお客にしてきた夕顔と重なって感じたけど、でもちゃんと心の奥底で求める気持ちも感じてた。ただ拭えない遊女がその気持ちに覆い被さりそれを私はどうにも出来ないでいただけ。

 だけど今ここで彼の言葉を否定しないとその内側にある気持ちが消えてしまうような気がした。――いや、というよりその気持ちがあるのは彼が信じてくれたからなのかもしれない。もし彼が私と同じようにその気持ちを取り払えない部分で覆い隠してしまったら、彼が私と同じように私を見てしまったらこの僅かに残った純情は輝きを失ってしまう気がする。私に唯一残された穢れ無き部分。それが他の穢れに埋もれてしまいそうな気がして怖かった。

 だから彼にだけには知っていて欲しい。でももう諦めて欲しい。彼の為にも。


「最初は確かに少し違とったけど、そやけどこの場所で会っとったあんたはお客やなかった。そやさかい無理に気ぃ引いたりする必要も楽しんでもらう必要も無くて、わっちはお客の前より気楽でいられたんやで。わっちが思たように返事を返して、わっちが思たように共感して、わっちが思たように笑うて。そうやって頭ちゃうくて心で話ができる時間が楽しおして楽しおして。さっき八助はんが言うとった事、実はわっちもおんなじような事を感じて思うとった。八助はんと会うようになってからはこの時間わっちにとっての一番になってん。そやけど同時に段々と、わっちもそう感じるようになってきた。あんたに触れようとする行為、あんたに気持ちを伝えようとする行為が――あんたに対する行為しとつしとつが遊女としてお客にするのとおんなじように思えてきた。それからはなんかあんたにいらえるのも躊躇うようになって……」


 悲しみか悔しさか。何かは分からないけどその激しい感情が喉に詰まり私は言葉を途切れさせた。

 でもすぐに息を吸い続きの想いを口にする。話しながらもうこれが最後になると思うと言葉は次か次へと出て来た。


「遊女としてあんたには触れとうなかった。そやけどあんたに笑いかける自分かてそう思えてしゃあない。なのに心はあんたを求め続けてる。それで気ぃ付いた。わっちはどないしようものう遊女って。遊女としての男との接し方しか、遊女としてのわっちしか、遊女としての生き方しか――知らへん。このまま遊女として八助はんと一緒におるのんはかなんかったけど、わっちはどないしてもこの自分を知らん顔できひん。どないしても忘れられへん。それも年季明かったらなんて思たけど早々にこうなってもうた。そやけどこれだけは知っとって欲しい。わっちがあんたに触れるのも、あんたに言うた言葉もちゃんとそこにはわっちの心があったってことだけは分かって欲しい。決してあんたと遊んどった訳ちゃう。むしろ心から……」


 この期に及んで尚、私はその言葉でさえ口に出来なかった。今まで幾度となく男たちに口にしてきたというのに。肝心な人には言えない。いや、むしろだからこそ言えない。そんな自分がやっぱり嫌で悔しくて。

 でもここで感情を溢れさせてしまえば綺麗な別れが出来なくなってしまう。彼は私の口から直接別れを聞きたくて今こうしていると言うのに、感情に沈んだ声で言ってもスッキリしないはず。

 だから私は精一杯堪えた。幸いこの木塀があるおかげで顔は見られないから声だけを気を付ければいい。

 そして私は平然を装って続きを口にした。


「そうやった。そやさかいこそ遊女としての自分とあんたの前におる自分を重ねとうなかった」

「じゃあ、もう会いたくないって言うのも手紙すらしたくないっていうのも嘘なんですか?」

「そうやな。――でももうわっちは身請けされてここを出る。会えへんくなるっちゅうのんは間違いちゃう」

「僕は別に遊女のあなたでも気にしない。客と同じように僕に触れたからって、言葉をかけたかたらって別にいいですよ。だってそこにちゃんとあなたの気持ちがあるんだから。むしろ僕にとっては別物です」


 本当はもう終わらせてしまいたかった。堪えられてる内に別れて仕事までに気持ちを落ち着かせたかった。

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