消えぬ想い2

『一番残酷なのは欲するものを手に出来ない事じゃない。手にしその状態に慣れた後に奪われる事だ。知らない事を知ることは出来ても知っている事を忘れる事はそう簡単じゃない』


 一体どこで誰に、もくしは何でその言葉を見聞きしたのかは覚えてないけど、その言葉自体は何故か覚えていた。最初、僕はそんな事は無いと思った。ずっと心にあるあの笑顔の彼女にもう一度会いたい。それが叶わないもどかしや辛さを知ってたから。絶対に今の状態の方が辛いと。

 でも今は違う。あの言葉の言う通り確かにあの頃より今の方が辛い。彼女の小鳥のように綺麗な声やどんな花より可憐な笑顔、柔らかく温かい手と春先のように心地好い香り。彼女という存在に触れる感覚を知ってしまった今は彼女がいない事がより強調されてるようだ。それはぽっかりと太陽だけが抜け落ちた蒼穹のように物足りなく、枯れ葉ひとつ残らぬ枯木のように虚しい。一人の時間が――彼女に会わず彼女からの手紙も来ない日々がこんなにも寂寞としているなんて、仲ノ町をお客と通る彼女の姿を、深夜の部屋から煙管を片手に遊郭を眺める彼女の姿を見るのがこんなにも切ないなんて……知らなかった。こんな離愁を味わうのなら彼女を知らないあの頃の方が良かったのかもしれない。

 なのにこんなにも彼女との想い出が温かく幸せに満ちているのはどうしてだろう。いや、その理由を僕は知ってる。どれだけ離れようとも、もう会えなくとも、彼女を知ってても知らなくても……あの笑顔を見た瞬間からその理由は僕の中にずっとある。あり続けてる。

 だけどそれは同時にこんなにも辛い理由でもある。矛盾の絡み合う感情が、希望と絶望が渦巻く理由。ここにいる限り彼女と同じこの吉原遊郭に居る限りそれは終わることは無い。それは分かってるけど離れてしまったらこの気持ちごと理由も消えてしまいそうな気がする。

 僕は一体どうしたらいいんだろうか。


             * * * * *


 それは僕が幸せと苦しみの狭間にいながら日々を送っていたある日。


「よう。八助」


 お昼より少し遅れて吉原屋の奉公人である幸十郎さんが三好へとやってきた。丁度、お客もおらず暇をしていた時だった。幸十郎さんは適当な席に座ると蕎麦を注文。ほとんど時間がかからず出来上がった蕎麦を彼の前に運ぶと僕は休憩がてら飲み物を片手に向かいの席に座った。話しをしたのは最近はどうだとかの世間話。

 だけど蕎麦を食べ終えた幸十郎さんはこんなことを口にした。


「実はお前に教えておこうと思って今日は来たんだ。ついでに昼飯もな」

「教えたい事? 何ですか?」


 幸十郎さんは誰もいないのにも関わらず、それでも誰かに聞かれたくないのか前のめりになり秘密話でもするように片手を口に当てた。


「実はな。夕顔さんに身請けの話がきたんだよ」

「えっ!?」


 思わず声が出てしまう程にそれは予想すら出来ない話だった。


「まだ決まった訳じゃないが相手はある豪商でえらく夕顔さんを気に入ってるって話だ。まぁ、受けない理由はないと思うがな。とりあえずまだ話が来たって段階だがお前には知らせてやろうと思ってな」

「――わざわざありがとうございます」


 それを言うのが今の僕は精一杯だった。別れの手紙を受け取ったあの日のようにあまりにも突然で頭は追いついていない。


「もしかしたら最後はど派手に吉原屋から仲ノ町を通って大門を出るかもしれん。そうなったら夕顔さんを目に焼き付ける最後の機会だぞ」

「そうですね」


 無理矢理浮かべた笑みはちゃんと笑みとしての役割を果たしているかは分からなかった。


「そんじゃごちそうさん」


 幸十郎さんはそう言い代金を置くと立ち上がり店を出て行った。

 一方で僕は空になった丼鉢と残された代金を視界に捉えながらも全く見ていなくて頭では幸十郎さんの先ほどの言葉を思い出していた。夕顔さんに身請けの話が。もし受ければ彼女はここを立ち去り本当の意味でもう会えなくなる。心のどこかではこの状態が続きここを離れるかどうかの選択肢をするのは自分だと思っていた。自分がここを離れるかどうか。本当の意味での別れを選ぶのは自分だと思っていた。だけどまたしても別れは強制かつ唐突的に訪れた。

 僕はこのまま自分の決意によってではなく訪れる運命によって夕顔さんと永遠の別れを果たしてしまうのか。そうは思いつつもどうする事も出来ない現実にただ頭を抱えるしかなかった。


「出来るならもう一度だけでも……」


 次の日の昼前。僕はあの場所の前へと来ていた。いつもなら鍵が開くのを待つか既に空いている戸から中へ入るのだが当然今回はそうじゃない。それに戸には鍵どころか板が打ち付けられていた。

 先日、幸十郎さんから聞いた身請けの話。それが何も出来ないのにも関わらずこの場所へ足を運ばせた理由なんだろう。そこで僕はただ木塀越しにあの夕顔さんとの想い出の場所を感じるしかなかった。近くに居るからか木塀に凭れるだけであの日々が鮮明に思いだせる。自然に零れる笑み。

 すると、塀の向こうからふーっと息を吐く声が微かに聞こえた。僕はハッとし木塀を見遣る。でも塀の向こうに居るのが本当に彼女かは確信がない。

 でもそんな僕の心の揺らぎを聞いたかのように声が一つ聞こえてきた。


「身請けなぁ……」


 それは確かに夕顔さんの声だった。この木塀の向こうに夕顔さんがいる。僕の胸は思わず高鳴ったがなんて声を掛ければいいか分からず、ただ彼女を想いながらその木塀に手を添えるしかなかった。ここにいる事を気付いて欲しいと思いながら秋生さんの言葉が脳裏を過り声は出せずにいた。掌に感じる木の感触。口は開けど声は出ない。

 結局、僕は逃げるようにその場を立ち去り三好へと帰った。

 その夜。中々寝付けず水でも飲もうと店に行ってみると行灯の静かな灯りに照らされ源さんがお酒を呑んでいた。


「まだ起きてたのか?」

「ちょっと眠れなくて」


 僕は一度、台所に寄ってから源さんの向かいの席に腰を下ろした。そして持って来た猪口を差し出す。


「僕もいい?」

「呑まないのにか?」

「そうだけど、こういうのもいいじゃん」


 口元に更に皺を寄せた源さんは僕の猪口にお酒を注ぎ自分のにも注いだ。そして軽く乾杯をして僕らは同時にそれを呷った。鏡映しのように猪口が口から離れると源さんはそのまま猪口を机へ。だけど僕は喉をお酒が通り過ぎると咳き込んでしまった。


「大丈夫か?」

「大丈夫、大丈夫。次はゆっくり呑むから」


 僕はそう言って差し出した猪口に少し遅れてお代わりが注がれた。

 それからも僕と源さんはお酒を酌み交わしながら色々な話をした。今思えばこういうのは初めてだ。こうやってお酒を呑みながらゆっくりと話しをするのなんて。僕もそうだけど源さんもそうなんだろう昔の話をするその表情は嬉々としていた。しかも話はほとんど僕の話だ。懐古するものもあれば思い出したくないようなものもあって、僕が覚えてないようなのも。でも源さんはどの話でも決まって楽しげ。全てが良い想い出だと言う表情を浮かべていた。

 そしてそれはお酒が回ったからなんだろう、いつの間にか最初と違ってお酒が喉を通るのにも慣れ、大き目の徳利(中は以前から源さんが呑んでいて多少は減っていた)が空になったのはほんの一瞬の出来事のように感じた。まるでぼーっとしてたみたいに一瞬で気が付けば時間が経っていたけど、そこには楽しい時間だっという確かな感覚だけはちゃんと残っている。他に何を考えてたのかは分からないけど。

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