第三章:夕日が沈む

夕日が沈む1

 お皿の下にあったのは手紙だった。


『夕顔さんへ』


 そう書かれた手紙。お客からの手紙はまとめて運ばれてくる。それにわざわざこういう風に隠すような真似はしない――というよりそもそも出来ない。

 私は確信とまではいかなくとも何となくの人物が頭に浮かんでいた。だからだろうか、すぐにその手紙を開き読んでみよと思ったのは。


『突然こんな手紙を送ってしまいごめんなさい。もし迷惑でしたら読まずに捨ててしまっても構いません。そこは気にしないでください。

 まずあの夜の事のお礼を言わせてください。全ての手順を無視して直接しかも一夜分のお金しか払ってない、何でもない僕に普通のお客のように接しくてくれて本当にありがとうございます。あの夜はあなたが言ってくれたように忘れられない最高の夜になりました。もしかしたらあなたからすれば普通のお客より面倒だったかもしれないですけど、それすら感じさせずむしろ一緒に楽しんでくれているように振る舞ってくれたおかげです。

 正直言うとどうしてこんな手紙を書いてるのか自分でもわかりません。ただあの日の事が忘れられなくて、でももう二度とないって分かってて。だからどうにもできない気持ちを晴らそうと筆を取ったのかもしれません。自分勝手でごめんなさい。ただでさえあなたは多忙なのに折角の時間をこんな手紙で使ってしまって。

 ですが最後に一言だけ言わせてください。あなたは僕にとって支えです。あなたに会って直接お話しをするという夢はもう叶い達成されてしまったけど、代わりにとても素敵な想い出を頂けたのでこれからはそれを思い出しながら頑張っていきたいと思います。

 こんな勝手な手紙を突然、しかもこんな形で送ってしまってごめんなさい。本当にありがとうございました。あなたの今日が良い日でありますように』


 そして最後は八助の文字でこの手紙は終わりを迎えた。


「悲観的言うか自信足らへんちゅうか」


 でもそう呟く私の口角は自然と上がり気が付けばもう一度目を通していた。


「今日が良い日でありますように……」


 その言葉に手を引かれるように幼い頃の記憶が脳裏で蘇った。泣いてる私の頭を優しく撫で、頬に触れ泪を拭う手。理想の母を再現するような心安らぐ匂い。そして心地好く寄せては返す漣のような声。


『きっと今日はええ日になりんすよ』


 姐さんは口癖のようにその言葉を口にしていた。体調が悪い日だろうと一人泣いてた日だろうと。そして泣き虫だった私にもよく言ってくれてた。何もかもが大嫌いだったこの吉原で大好きだった人。あの笑顔も、あの声も、あの温もりも、あの匂いも、あの優しさも。全てが恋しい。


「朝顔姐さん」


 いつの間にか私は一人ぼーっとして想い出に浸っていた。それは随分と奥に仕舞い込んでいた大切な記憶。そんな想い出に久しぶりに触れた所為もあるのか、姐さんを鮮明に思い出せば思い出す程、抑えられない感情が込み上げてくるような――喉に何かが詰まったような感覚に襲われ双眸が濡れ始める。

 でも昔の私みたいに頬を滑り落ちる前に我に返えるとまだ太陽の上る蒼穹を見上げた。それは姐さんが好きだった空。よくこうして昼見世が始まる前の吉原とそれを見守るように広がる蒼穹を眺めていた。そして私もあの頃の姐さんを真似るように窓まで行き蒼を見上げてみる。姐さんに近づけた気がすると共に時折見てしまった辛そうな彼女を思い出し、どこか複雑な気分だった。

 それから少しの間だけそうして姐さんをなぞるように空を見上げていた私は溜息をひとつ零すと手紙を手に机の前へ。そこでは他のお客から届いた手紙の山が読まれるのを今か今かと待っていた。私はそんな山から視線を手元へ移すとその山の隣に手紙を置こうとしたが、机に手紙が触れたところで止めると物がいくつか入った引き出しへと仕舞い込んだ。


         * * * * *


 着付けや化粧、昼食を終え馴染み客への返事を書き終えた私は妹分へ諸芸の稽古をつけてやっていた。

 将来の花魁候補として楼主と御上に見込まれた禿は幼い頃から英才教育を受けさせられ遊女として成長していく。三味線や和歌、舞など学ぶべき事は多岐に渡り、それらを遣り手婆様や付いた姐さんから学んでいくのだ。もちろん店や姐さんの世話などの雑用をこなしながら。そして特に期待の高い子をお付きとして受け持った私も彼女たちに色々と学ばせてやらないといけない。時間の合間を縫っては稽古をつけたり基本的な事などを教えるのも仕事の一部という訳だ。だけど私にとっては彼女たちと一緒に居る時間はむしろ一日の中でも楽しいひととき。それは稽古でありながらも愛らしい彼女たちと接しながら遊んでいるような感覚だった。

 そしてこの日は彼女たちの教育を主にしている婆様から言われた稽古を早めに切り上げ最後は囲碁を打っていた。たまにはサボるのも大事だ。とは言いつつもちゃんとこれも教育の一部でもある。ただ婆様から言われてないと言うだけ。でも彼女たちはどうやら稽古の中でも特に囲碁が好きなようで(ちなみに私も囲碁が一番好きだった)打つ時は毎回楽しそうにしていた。だから他のあまり好きじゃない稽古の時間を減らし囲碁を打つ事はサボりと言えばサボりになるのかもしれない。ただ私の前に並べた四つの囲碁盤の向かいにそれぞれ座り打つその表情は真剣そのもの。その姿がまた愛らしい。


「また負けたぁ」

「夕顔姐さん強すぎるよ」

「またわっちの一人勝ちやなぁ」


 皆、悔しそうにしながらもその表情には子どもらしい表情が浮かんでいた。その表情を見る度に朗らかな――まるで蒼々とした広大な草原に立ち温かな陽光と爽やかな風を全身で浴びているような気持ちになれる。でも同時に無垢な彼女たちも心憂く過酷な未来からもう逃れる事の出来ないのだと思うと澄み渡る蒼穹にも暗雲が垂れ込める。


「ほな。今日はここまで。みんな行ってええで。そやけど婆様に囲碁の事は内緒やさかいね」

「はーい」


 元気な返事をすると各々囲碁盤を押し入れに戻し順に部屋を出て行く。


「初音」


 だが最後に部屋を出ようとした初音を呼び止めると手招きで呼び戻した。彼女は襖の前から小走りで私の前へ。


「お願いがあるんやけど。これ三好のおにいに届けて欲しいんやけど。ええ?」


 私は言葉と共に彼女へ一通の手紙を差し出した。


「うん!」

「それとこら誰にも言うたらあかんさかいね。二人だけの秘密やで?」

「分かった!」

「ええ子やな」


 そう言って頭を撫でた後、私は引き出しからある物を取り出しそれも同じように初音へ差し出した。今度は掌に乗せて。


「これもみんなには秘密やで?」


 私が初音に上げたのは一つの飴。


「これ貰っていいの?」

「バレへんようにこっそり食べーな」

「やった! 夕顔姐さん大好き!」


 嬉しさのあまり私に抱き付く初音は可愛くて毎日でも上げたくなる程だった。


「わっちもやで」


 小さな体を抱き締め返し少しの間だけそうすると彼女はゆっくりと離れていった。まだ喜色満面としながら。


「ほな。それやろしゅうね」

「うん」


 そして初音は半ばスキップ気味に部屋を出て行った。

 私が彼女に渡した手紙はもちろん八助さんへの返事。今日、朝食を食べながら考えて他の客への手紙を書く時に一番最初に書き上げた。こんなにも気楽に手紙を書いたのは初めてかもしれない。これまでは面倒なモノだと思っていたけど手紙というのも案外悪くないのかも。そう思える程には書いてて楽しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る