夕顔花魁3

「そうやな。こうやって面と合わせる事はもう二度とあらへん。なのに、まことになもせんでええんでありんすか?」


 そう言いながら彼の手を取り自分の胸元へ滑り込ませ素肌に触れさせた。(緊張の所為か)彼の手は思っていたより熱い。


「自分で言うのもなんでありんすがこなたの吉原で一番の遊女でありんすよ?」


 私の声が届いているのかいないのか赤面し微かに瞠目した彼は瞬きひとつせず固まってた。だがそれもほんの一瞬。機械仕掛けの体を切り替えるように瞬きをすると顔を横へ。

 そんな彼の顔へ手を伸ばした私は、私と目が合うようにすぐ元の向きに戻した。その触れた頬は胸元にある手より熱かった。


「みな最高位花魁といわす地位にあるこなたの体との偽りの愛を求めて、あないな大金を払うんでありんすよ。なんべんも。そやのに主は触れもしいひんのでありんすか?」


 何かを言おうと口が開くが言葉はすぐには出てこなかった。そんな遅刻している言葉を待つ間、私はその一人待ちぼうけている唇を指でなぞる。


「――あの……。ごめんなさい。失礼ですよね。こんなの。三好で料理を食べないのと同じで」

「わっちの事、料理や思てるんでありんすか?」

「い、いえ! そんな事ないです! ただの例え話のつもりだったんですけど……ごめんなさい」

「冗談でありんすよ」

「でも酒宴も開いてないのにここでも何もしないって失礼ですよね。だけどこうやって会えるのは今夜しかないからこそそうい事はしたくないって言うか……」

「そないな事はないでありんすよ。つまるとこ、主さんをその気にさせる程の魅力がわっちにはないっゆー事でありんすよね?」

「そんな! 夕顔さんは魅力的です! とっても!」


 さっき同様の慌てっぷりが可笑しくて私はつい笑いを零してしまった。それで言葉にするまでもなく冗談だと伝わったのだろう、彼は安堵の表情を見せた。

 するとホッとひと息零した彼は私の胸元から手を抜き取ろうと力を入れ、私もその力に従い触れたまま一緒に手を外へ。そして彼は(胸元へ入っていた手に触れていた)私の手を両手で包み込むように握った。


「僕はただ夕顔さんと言葉を交わして、夕顔さんの事をもっと知って。そしてもっと近くで見たかっただけなんです」


 それは真っすぐな穢れ無き目。私とは、普段の男たちとは違った目。美しくて綺麗なまるでここへ来たばかりの禿のような目だった。


「でも――」


 私は唇に触れていた指を口の前で立て言葉を遮った。

 そしてそのまま横に寝転がると彼の方へ体を向けた。手は握ったまま。


「それで? 何が知りたいんでありんすか?」

「え?」

「わっちの事が知りたいんでありんすよね? 何が知りたいんでありんすか?」

「あっ。えーっと。――好きな食べ物って何ですか?」


 ふふふ、と零れる笑み。

 でもこれで良かったのかもしれない。ただ少しでもその純白さに近づきたいという私の我が儘の所為で彼が穢れてしまわなくて。


「そうでありんすね 。好きな食べ物でありんすかぁ……」


 それから私はこの吉原に来て初めての夜を過ごした。寝転がりただ言葉を交わし、いつの間にか眠りに落ちる。普通ならなんてことないただそれだけの夜。でもこの日は今までで一番よく眠れた。

 そして気が付けば朝が来て目を覚ます。いつも通りの時間帯に。


「あれ? 起こしちゃいました?」


 だがそれはまたしてもこの吉原に来てから初めての体験だった。目が覚めるとそこには既に起きた八助さんが笑みを浮かべ立っていたのだ。いつもならお客より早く起きて、その後にお客を起こす。これまで一度たりともお客より遅く起きたことは無い。はずだったのに。


「おはようございます」

「えろう早起きでありんすね」

「いつもの癖で目が覚めたので。それに僕もう店に戻らないと」

「せやったら下まで送らしてもらいんす」

「いえ! 出る時は一人でって言われてるので」


 私の頭には秋生の顔が浮かんだ。バレないようにだろう。


「なので夕顔さんはもう少し寝てて大丈夫ですよ。どうぞごゆっくり」


 そう言って彼は襖の方へ歩き出した。


「少うし待ってくんなまし」


 襖の前で八助さんを立ち止まらせた声と共に立ち上がった私は彼の前まで足を進めた。


「またおいでなんし。ってまことは言うんでありんすがね」

「僕にはもうまたは無いんで。残念ですけど」

「そうやな。わっちも残念けれど――」


 そして私は八助の頬にそっと唇を触れさせた。


「おさればえ、八助はん」


 彼はそれを確かめるように頬に軽く手を当てると視線を私の方へ。微かに口を開きながらただ私を見つめていた。ほんの枯れ葉がひらり地へ落ちる間だけ。


「ありがとうございました」


 そしてお礼を口にした八助さんは襖を開け部屋を後にした。いつもなら後朝の別れをしに大門まで行くのに今日はこのまま体を休められる。私はその事に少し不思議な気持ちになりながらも布団へと戻った。

 だが一度、障子窓の方を見遣ると少し立ち止まり、それからその方へ歩き始めた。そして障子窓へと手を伸ばす。だが、障子窓には触れただけで開けはせず、私は布団へと戻った。


              * * * * *


 開けた窓から太陽とそよ風が流れ込む時間帯。良質な睡眠のお陰かいつもより気分も良く体も軽く感じる。


「失礼致しんます」


 その声の後、三回に分けて開く襖。その向こうには跪座した禿、初音の姿があり襖を開いた彼女は跪座から正座へと変えると丁寧に頭を下げた。そして再び跪座に戻すと横に置いてあった足膳を持ち私の前へ。


「朝食をお持ちいんたし……いした」


 ぎこちなく言い直されても間違いのままの言葉の後、初音は足善を私の前に置いた。


「いんした。朝食をお持ちいたしんした。もういっぺん」

「朝食をお持ちいたしんした」

「ありがとうございんす」


 ちゃんと言い直せた彼女にお礼を言い終えてから会釈を返す。


「それと。失礼致しんす。失礼致しんますじゃなくて、失礼致しんす。はい。もういっぺん」

「失礼致しんす」

「そう。ややこしくてもゆっくりと覚えないといけんせんよ」

「はい」

「ええ返事やな」


 私はそう言って初音の頭を撫でてやった。


「夕顔姉さん。今日もきれい」

「ありがとうございんす。初音も十分綺麗でありんすよ」


 頭から頬へ下げた手の触れる満面の笑みは本当に可愛らしかった。でもだからこそ胸が痛い。


「さっ、もう行きなんし」

「はい」


 襖まで早足で向かった初音はくるりとこちらへ振り返る。


「失礼致しんした」


 頭を下げ立ったまま襖を閉め行ってしまった。離れていく足音を聞きながら溜息をひとつ零すがあの笑顔を思い出すと「まぁいいか」という気分になり料理へ手を伸ばした。この日は、三好の蕎麦と天ぷら。


「あれ?」


 今まで何度も頼みここで食べてきた料理のはずだが、この日は少し違った。


「天ぷらが一つ多いみたいだけど……」


 一人呟きながら頭には八助さんの事が浮かんでいた。


「おおきに」


 届かぬお礼を口にしてから私は朝食を食べ始めた。

 それからたった一夜の非日常を忘れさせるように夕顔花魁としての日々が戻ってきた。毎日お客と共に酒池肉林をし夜はお客を悦ばせる為に偽りの快楽に塗れ愛を演じる。これまでと変わらぬ吉原に身を捧げる日々が。あと幾度こんな日を繰り返せばいいのだろう。お客が寝静まり一人外を見つめ、妹分への教育の時間だけが心休まるだけのこんな日々を。いや、夜の自由も結局は偽り、妹分は可愛すぎるが故に心苦しさも感じる。本当の意味で心休まる時など無いのかもしれない。

 夕顔花魁という地位の代わりに私はあまりにも多くの何かを失った気がする。いや、違う。遊女とならざるを得なかった以上、この地位で少しでも何かを得なければ私には何も無いままだった。


              * * * * *


「失礼致しんます」


 襖を開けた初音は今日も間違った言葉と一緒に私の前へ蕎麦と天ぷらの朝食を運んで来てくれた。そして運び終えた彼女が出て行くと一人朝食の時間。花魁になって好きな食べ物を出前出来るようになったがこれからいつもの一日が再開すると思うと……。料理が美味しいのがせめてもの救い。

 私は蕎麦のつゆを少し飲んでから天ぷらを食べようとお皿を手に取った。するとその長方形のお皿の下から折り畳まれた紙が隠れん坊でもしてたみたいに顔を出した。初めての出来事に小首を傾げながら手を伸ばしてみる。紙と交換しお皿を戻すとお箸を置いた。


「なんやろうこれ?」

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