第11話 あなたを探している
「もう。ちょっと待って、おかあさん。そこまで派手に飾り付けしなくて良いから」
私は、リビングの天井にクリスマスツリーやら、お菓子人形を模したステッカーをあちらこちらに取り付ける母親に声をかける。
「だって。あなたの命の恩人なんでしょう?
ちゃんと迎え入れてあげないとダメでしょう?」
鼻歌を奏でながら、飾り付けをすすめる母親はご機嫌だ。
「でも、もう手紙に書いた集合時間になっちゃうから、これくらいにしておかないと収まりがつかなくなっちゃう」
私は、自分の美的センスに従って、黙々と端から作業をすすめる母親を見て頭を抱える。
こんな状態で、マサトくんが来たら、なんて言うだろう。
中途半端なレイアウトに唖然とするだろうか。
もしかして、戦地に赴くというのにこの異様なテンションの飾り付けに、居心地が悪くなってしまうのではないかと不安を抱える。
あぁ。胃がキリキリするように痛む。
「しかも、今日クリスマスじゃないじゃん?どうして、この飾り付けしかなかったの?」
「普段祝い事なんてしないから、仕方ないじゃない?と言いたいところだけど、彼、もうすぐ戦地へ出発するんでしょう?
ご家族から離れたこの地へやって来て、私達だけでも賑やかに送り出してあげましょうよ?」
母親にそう告げられて、私は改めて自覚する。
マサトくんは、一度戦地に向かってしまえば、帰ってこないかもしれない。
いつ帰れる状態になるかもわからない。
私の弟のような状態になって帰ってくるかもしれない。
「大丈夫だよね?生きて帰ってくるよね」
私は、独り言のようにつぶやき、返事を待つ。
今夜の曇り空からは空虚な返事しかやってこない。
結露した窓ガラスを拭きながら、心臓の脈動を感じる。
「あなたが信じてあげるしかないでしょ?」
母がそうつぶやいた。
「ノアを送り出したときもそうだった?」
「そう。どんな結果になったとしても、受け入れるしかないの。
受け入れた上で、暖かく包み込むことしか私達がしてあげられることはない。
それが、私達の誠意よ。」
「後悔はしなかったの?」
「ん?何に?」
「私達を産んだことに。」
私が言いづらそうにその言葉を口にすると、母親はクスっと笑った。
「どうしたの急に?そんな質問。後悔しているわけないじゃない。」
母親は作業の手を止めて、私の方を振り向く。
旅の途中に教会を訪れたときのことを思い出す。
白装束の中に装着されてると思われる胸の周りに巻くサラシや、胴回りを矯正するコルセット。さらには、性行為を禁止するために鍵付きの鉄製の拘束具を初めて見た。
その時に知り合った20番さんは、感情にとっての一番の害悪は異性だと言った。
心が不安定になる原因は、全て取り払い、不安もなく、安定した生活を永続的に送る。
あれが理想的な姿だと思うと、その選択肢をあえて選ばなかった母親の気持ちが気になった。
母親は私の方を見て、頬を触り、話し出す。
「今の世の中は、もちろん。感情を穏やかにすることが人生を豊かに過ごす上では重要かもしれない。
たしかに、ノアが病になって、私達に対して不自由な身体になってしまったとき心が傷んだわ。
でも、ミサが生まれて、ノアが生まれて。あなた達の笑顔を私は見ることができた。
自分の心の安寧という選択肢は、確かに捨てたけれど、捨てたから得られた選択肢もあったわ。」
母が語り終えたちょうどその頃に、玄関のドアをノックする音が聞こえる。
「あっやばい。」
母は手元に持ったステッカー目の前の空白部分に貼り付けると、玄関に向かう。
「どうぞどうぞ。来てくれてありがとうね」
「おじゃまします。」
玄関の方から、母親の声と普段はこの空間に響くことはないマサトくんの声が聞こえる。
落ち着いていた胸の高鳴りが、再び聞こえ始める。
もう一度、鏡を見て自分の姿を確認しておけばよかったと後悔する。
私はジリジリ、玄関に向かってフローリングを歩く。
足取りは、軽いはずなのに、臆病な心が前面に出ているのか慎重に歩いていた。
「あっ」
母親の影から、マサトくんの面影が見えて思わず声が出る。
「ん?」
マサトくんがキョトンとした表情をこちらへ向ける。
白い軍服に身を包み、黒い手袋をはめた様相で一礼をする。
列車で出会ったときと身につけているものが違うせいか、寮に暫く泊まっていたせいか、重い慎重な雰囲気を感じた。
「さぁ、さぁ。霧島さん。積もる話もあるとは思うけど、とりあえずあがって。私の娘を助けてくれたんですもの。お礼をさせてください。」
そう言って、母親はリビングの方へマサトくんを招き入れる。
「おぉ。」
「座って、そんなにご馳走ではないけれど、食べていって」
マサトくんは、母親の案内にしたがって着席する。
落ち着かない雰囲気のマサトくんをフォローしようと、声をかけようと1歩踏み出したとき、また玄関からドアをノックする音が聞こえる。
「はいはい。入って。」
母親が玄関にたどり着く前に声をかける。
「ご招待ありがとう。エレオノーラ。」
母親の本名を発する見知った声がする。
その人物が姿を表す前に、マサトくんは立ち上がり、お辞儀をする。
「ハハ。ここは我々の基地ではないんだ。肩の力を抜いてくれ。霧島。」
「はい。」
マサトくんは、返事をして着席をする。
「いやぁ。まさか、お嬢ちゃんがエレオノーラの娘さんだったとは思わなかった。たしかに、公園で話しかけたときに、少し面影が似ていてエレオノーラのことが頭をよぎったが、本当に娘さんだったとは。。」
グレーボヴィチ教官は、私の顔をまじまじと見て微笑む。
「グレーボヴィチ教官。その片腕はどうされたんですか?」
マサトくんは、グレーボヴィチ教官の包帯の巻かれた片腕を指差し、尋ねる。
「これは、列車の襲撃時に負った怪我だよ。傷口は止血してあるが、再生医療を行うには期間がかかりすぎるからね。ひとまず、片腕での生活になりそうだ。」
グレーボヴィチ教官は、背中を回して巻いている包帯を見て笑う。
「見た目は大層だが、痛み止めは飲んでいるから夜も眠れる。君が心配することはない」
「あ、そうだ。グレーボヴィチさん。これ、頼まれていたものです。忘れないうちに」
母親はそういうと、戸棚にしまってあったアタッシュケースを取り出して、グレーボヴィチ教官に手渡す。
「さぁ、ご飯にしましょうか。っアリスちゃん!!」
母親は、掛け声を出しながら、2階の方に続く階段へと向かって呼びかける。
しばらくすると、ドタドタ音を立てながら階段を降りてくる音が部屋中にこだまする。
「はーい」
元気な声とともに、アリスは最後に出会ったときとは違う新しい服を召し上げた状態でやってきた。
「うん?あっ、マサトだ!!」
アリスは表情を明るくして、マサトくんに駆け寄る。
「元気だったか?アリス」
「うん。マサトもどこも痛くない?大丈夫?」
「あぁ。大丈夫だよ。」
本当に嬉しそうにマサトくんは笑顔を浮かべている。
良かった。この時間を作れて。
私は、その様子を見て自分までしあわせな気持ちになる。
「さぁ。皆さん座ってください。ほら、アリスちゃんも」
目の前の大皿には、丸焼きのチキンが一口のサイズに切り分けられ、それぞれの手元にはナゲットやサラダが並んでいた。
「いただきます。」
皆の声が合わさった。
こんなにいろんな声が混ざりあった日はいつぶりだろうか。
私が本当に満たされているように感じていたのは、ノアが戦地へ旅立つ前の数日間だった気がする。
ノアが旅立ったその日から、私の心の中はどこかぽっかり抜けた穴が空いていたような気がする。
弟の病気を治すきっかけを探すために、町の外に出かけては、この地に戻り、お見舞いをする。
そんなことを繰り返していた。
これを続けていれば、ノアの病気は治るのか。
私の人生の延長線上のどこに希望があるのか。と考える日々もあった。
満足はしていない。
決して、満足はしていないけど、この笑顔で満たされている空間が、久しぶりに私の心に戻ってきたような気がした。
「総統にはお世話になった。総統は良き戦友だ。
お嬢ちゃんの兄さんとは、現場をともにしたこともある。
今は総統だが、お嬢ちゃんの父親は、自らの長男をなくした紛争で決意したんだと思う。
この世界から、争いをなくすことを。
私は期待しているよ。霧島マサト。
君は医療班志望だが稀に見る感情抑制耐性がある。
その力は、必ず、戦地で一縷の望みになり得る。」
「ふ〜ん。はぁ。若いのはいいわね。」
その言葉に驚いて、母の手元を見ると、グラスワインが空になっていた。
「あっそうだ。見てみて。マサト。アリスも頑張ったんだよ〜。」
マサトくんの隣りに座るアリスは、必死に腕をまくって、何かを見せようとしていた。
「そぅいえば、霧島マサトさんって、うちのミサとどんな関係なの?」
母親は、少し酔っているのか、躊躇なくアリスの声にかぶせるようにマサトくんに問いかける。
「お母さん、ちょっと悪い癖だよ。ミサトくん困ってるじゃない。」
私は、慌てて制止にかかる。
「ふむ。そういえば、戦地に行く前に話そうと思っていたんだが、霧島。
君の祖父は軍人だったな?」
「なにか知っているんですか?祖父のこと」
「そうだね。その頃にはまだ今みたいな感情抑制の訓練なんて兵士たちは受けていない時代だ。大変お世話になった。
当時は、近年見られているような綠斑症も発生していなかった。
私達は、大国にとって悩みの種でしかなかった国を持たない民族の鎮圧のために活動していた。
当時、無事に帰還できたものは少なかったが、私を含め、君の祖父も無事に生き残ることができた。
彼は、この紛争については何も語らなかったのかい?」
「ええ。僕を含め、父や母にも、何が起こったのか語ることはありませんでした。
それは、残酷な記憶を押し付けることを嫌ったかもしれないし、もしかすると、新しい時代を生きている父や母に汚れた記憶を持っていた祖父は嫌われていたのかもしれません」
「そうか。毒はそこまで影響を及ぼしているのだな。」
グレーボヴィチ教官は残念そうに、つぶやく。
「ミサが生まれる前の話だけれど、お父さんはよく怒鳴っていたわ。
今もある書斎から漏れ聞こえてくるの。
もうそんな怒鳴り声を聞くようなことも滅多にないかもしれないけどね。」
母親は笑う。
「君の祖父は、今の世の中を見たらどう感じるんだろうな。君が笑顔になるためにこの世界を作り上げたと思うが。
君がわざわざ、祖父と同じ道を選んだ理由。それをどう思うんだろうな。」
「それは。。」
マサトくんは言葉に詰まりながらも回答をする。
「おじいちゃんの笑っている理由を知りたい。生まれてから、十数年、家族と暮らしているうちにその想いが強くなりました。両親はとても、窮屈に思えて、おじいちゃんのほうが自由に生きているような気がしたから。
僕が戦場へ向かう期日が近づくに連れて、志願した理由を考える機会は増えていきました。
なぜ、こんなにも平和な世界になったのに、僕はわざわざ戦地に赴くのかって。
最初は、単純な正義感なのかと思った。
そう、僕らは何不自由なく暮らせているけど、僕が観測できない世界のどこかでは、間違いなく苦しんでいる人がいるってね。
そんな人を置き去りにしたまま、僕はノウノウと生きてよいのだろうか。
幸運か。不幸か。そんな自分はラッキーだった。それで解決して僕の心が満足していないだけなんだろうって。
でも、列車のなかで、偶然だけどミサさんやアリスと出会って感じました。
本当に、見ず知らずの人のために僕は、この命を捧げられるだろうか?
見ず知らずの人が喜んだところで、僕は満足して死ねるのだろうかって。
それは、違うように感じた。
でも、ミサさんやアリスと出会って、初めてこれまで勉強してきたことや努力してきたことが報われた気がした。
平和な世界を動かす幾つもあるうちの歯車ではなくて、僕にしかできない。必要とされる存在になりたかったんだと思います。」
「それなら、大丈夫だ。」
グレーボヴィチ教官はこれまでのマサトくんの話を聞いてそう答える。
「必ず、君の能力は必要とされている。それは、君を指導した私が保証しよう。
仲間が苦難に遭遇したとき、君の判断力や戦闘力。培った医療技術や緊急処置能力は必ず役立つだろう。自信を持て。」
グレーボヴィチ教官がそう言うと、マサトくんは礼を言って頷いた。
その様子を確かめると、食事が済んだのかグレーボヴィチ教官は立ち上がり、何やら、母親に耳打ちをしてからこう答える。
「さて、霧島一等兵。出発は二日後だ。後悔がないようにこれまで出会った仲間たちに、しっかりとお別れを告げたほうが良い。
現場で、何が起こるかは想像ができないからな。それから、医者の言うことはしっかり聞くことだ。処方はしたか?」
「ええ。」
そう言われて、私の胸がチクリと痛む。
「列車を襲ったものの犯人もわかっていない。離れ離れになるというのはそういうことだ。
リスクが完全にゼロになるということは無い。お互いにこの地域にいる限り程度の差はあれど、危険に身を晒しているんだ。」
グレーボヴィチ教官は私の方をチラっと確認すると、そのまま玄関へ向かっていった。
母親も見送りに席を立つ。
”私達は、異なるせいで、お互いを求め合うのです。”
20番さんが言っていた。
私は、マサトくんの横顔を見つめる。
生きてきた境遇は異なっている。
私が彼に惹かれた理由は何だろう。
狂想曲が流れて、一歩踏み出した瞬間に目が合ったからだろうか。
つらい過去も一緒に背負ってくれる優しさからだろうか。
彼がアリスと笑っているところを見ると、自分の気持ちがホッとするからだろうか。
何度考えても、正解そうな答えが思い浮かぶ。
どれか一つに絞ることはできない。
そんな彼が私の目の前から居なくなってしまったら、私はどうなってしまうのだろうか。
また、ノアを失ったときのように。
******
「マサトくん。話したいことがあるんだけど。」
私はアリスに合図をしてリビングで待ってもらった。
「どっちに、行けば良い?」
マサトくんに聞かれて、私は黙ったまま自分の部屋へ向かう。
足音が床に敷かれた絨毯に吸収されていく。
「話しってなに。」部屋の中でマサトくんの声だけが聞こえる。
私は振り向いて、ずっと考えていたことを告げる。
「ノアの姿を見たでしょ?
あの姿を見ても、なお、マサトくんは戦地へ行ってしまうの?」
「そうだね。」
「ノアは戦地に行って、こんな状態になった。それでも、マサトは行かないといけないの?」
「そこに僕の答えがあるかもしれないから。」
私の問いかけにマサトくんは淡々と答えていく。
「どうしても、行かなきゃいけないの?
生きて帰ってこれないかもしれないのに
あなたが列車で襲撃を受けたときに、私はすごく辛かったよ。
胸が張り裂けそうなくらい」
マサトくんの軍服の袖を握って、言葉を絞り出す。
でもマサトくんは決まった返事を繰り返す。
「必ず、生きて返ってくるから。」
私は我慢できなかった。
その返事じゃ満足できなかった。
そんなどこかで聞いたような別れのセリフを聞きたいと思っていたのではない。
「嘘よ。
絶対、無事には帰ってこれない
お母さんは口には出さなかったけど、
弟だけじゃない、私の兄も亡くなっているの。
父は、それでも弟を送り込んだ。
そうまでして、守りたい平和っていったい何なの?
80億人からしたら、私達はそのうちの4人かもしれない。
だけど、80億人全員と知り合いなわけじゃない。
私は、私の知っている人は幸せにしてあげたいと思ってる。
私達が無事に幸せに生きていれば、それで良いじゃない?
あなたの生きる理由だって、私じゃダメなのかな?
私が貴方のそばにずっと居るから。」
ついに言ってしまった。
私はマサトくんの、袖を離して首を振る。
列車の中で教官に言われたことを思い出してハッとする。
戦地に向かう人にそんなことを言ってどうする?
そんな話は、とっくのとうに出した結論だ。
あの列車に乗る前に決心して、ここまでたどり着いたはずなんだ。
私がしていることは、マサトくんが辛い思いをしながらずっと考えて、行った決意を鈍らせていることにほかならない。
「ごめんなさい。私。」
マサトくんの表情を確認することは怖くてできなかった。
きっと、なんて余計なことを言ってくれたんだと、そう思ってることだろう。
アリスに会えると思ってきたのに、後悔をゼロにするために、別れを告げるために此処に来たはずなのに。
「ありがとう。その気持ちだけで十分だ」
ふんわり、マサトくんの香りがしたかと思えば、優しく抱きしめられる。
「やめて」
「やめてよ。そんなことが欲しいんじゃない。」
私は体をよじって、マサトくんから離れる。
さっきまで静かだった心臓が騒ぎ始める。
「あなたはそうやって、私を抱きしめればそれで、心が満たされるのかもしれない。
でも、私の心はどうなの?」
「そんなことされたら、ますます、マサトくんのこと忘れることができなくなる。」
20番さんの気持ちがわかった気がした。
「こんなにも寂しくなるなら、あなたのこと家に呼ばなければ良かった。
無事が確認できればそれで良かったのだから。
友人として、安否の確認をできれば良かったの」
気づけば、私は膝をつき、泣き崩れていた。
必死に涙を拭って、冷静になれと、自分に言い聞かせようとしても気持ちが溢れ出てくる。
「あなたに優しくされれば、されるほど、私の心はあなたを求めて寂しがるの。
こんなこと言って、何も変わらないのは分かってる。
マサトくんにとって、余計なことだって。迷惑だってこともわかってる。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。」
私はその場にいるのが怖くて、部屋を飛び出した。
準備していたのだ。
本当は準備していた。
私は廊下でうずくまって、自分の首にかかっている十字架のペンダントを眺める。
銀色の光沢が今だけはくすんで見えた。
私の部屋から出てくる足音が聞こえる。
「ごめん」
マサトくんの声が聞こえる。
「いずれ、この日が来ると僕も考えていたよ。
でもなかなかその事実に向き合うことができなかった。
戦地に赴くために列車に乗り込んだ。
退屈な家族に半ば別れを告げるために乗り込んだのかもしれない。
何もない僕が列車の中でこんな素晴らしい出会いをするなんて、夢にも思っていなかった。
とても自分勝手だけど、人生最後になるかもしれない旅で、ミサさんと出会えて良かった。
君からもらった優しさで、僕はこの世界が少しでもマシに見えた。
生きていて良かったんだと心からそう思えた。
感謝しています。ありがとう。」
私は立ち上がって頭を下げるマサトくんに近づく。
鼻をすすって、頬に流れた涙を拭き取りながら、マサトくんと目を合わせる。
後悔しないように。
私は胸元のペンダントをマサトくんの胸元にかける。
「少し、古臭いかもしれないけど、お守り代わりに持っていって。」
「ありがとう。大切にするよ」
普段笑わないマサトくんが私に向かって微笑みかける。
心にチクっと針が刺さったようだった。
「ほらっ。列車遅れちゃうから」
自分の心の動きに気づきながらも、私はマサトくんの手を引っ張り、玄関へと連れて行く。
それからマサトくんは市街地と山奥の基地を結ぶ列車で帰っていった。
あれだけ準備していたのに。
長いようであっという間だった。
私は彼に。
伝えられただろうか?
リビングの暖炉から火花が弾ける音が聞こえる。
やはり今日は、暖炉を焚いていても肌寒く感じる。
初めて彼の顔をちゃんと見たのも、こんな日だった気がする。
照らされた瞳に、落ち着いた声色。
今のカレは違った。
あの頃は、お互いの素性も分からなかった。
このまま諦められるのかな?
時間が経てば、彼を忘れてしまうのかな?
アリスにはなんて伝えれば良いのだろうか?
「はぁ。」
私はひとりリビングに戻り、暖炉の光に照らされながら、ため息をつく。
そしてゆっくりと、左手の甲を右手の人差し指と親指でツネッてみる。
いてっ。
夢なわけないか。
こんな静かな夜をすごせているのが、きっと、とても幸せなことなんだ。
山脈は分厚い防音壁となり、わたしたちから血生臭い事実から遠ざける。
事実は、耳や目に蓋をすれば、無実になる。
わたしたちはずっと、意識することはない。
道中、彼に偶然出会った。
隣に潜んでいる死と出逢っただけなのだ。
そう。それだけ。
分かっていた事だけれど、
朝起きて、マサトくんの姿はかった。
当然だ。
昨日のうちに彼はエルブルース駐屯基地へ帰っていったのだから。
私は祈りを捧げる。
胸元のペンダントの代わりに両手を握りしめて、彼の無事を望んだ。
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