序章

序章 初恋を上書きしました

「私に好きな人がいるって知っているわよね」


女が相手を睨み付けながら告げれば、男は苦々しげに頷いた。

二人は寝台の上にいて、なんなら今日は初夜である。昼には盛大な結婚式を挙げて、都の大通りを華やかな馬車で揺られてパレードもしたし、夜には名だたる高位貴族や他国の王族を含めた招待客を招いて披露宴まで行った。先程まで親族や客人たちから祝福もされていた。

それを終えて、それぞれの婚礼衣裳を脱いで、夫婦の夜の儀式に臨んでいる真っ最中だ。


そんなときに、女は静かに切り出した。

初夜には随分とそぐわない話題ではあるが、幼馴染みであるので、勿論男は彼女の初恋を知っていた。

けれど貴族の婚姻など利害の一致で一緒になるのであって恋愛感情を持つことは少ない。むしろ夫婦になってから育むものである。彼女の場合は例外で、なんなら平民であった男にとっても本来は当てはまらない結婚観ではあるけれども。


とにかく、わかりきっている話ではあり、今回の二人の結婚はそのために成されたのだと男は理解していた。なぜわざわざ女がする必要もないのに、自分の幸福を追求しないのかは全くもってわからなかったけれど。男をこの国に引き留めておきたいだけならば、別に婚姻など結ばなくても平気だったのに。


だが、彼女はこのタイミングで再度、男に告げた。

なぜ今なのか。もっと早くてもよかった。なんならいつでも結婚を白紙に戻すつもりだった。今日の日を迎えるまでなら、どうとでもしようがあったというのに、彼女は結局、今切り出したのだ。すべてが手遅れになってから。


寝台の傍のランプの灯りが仄かに部屋を照らしている。そして女の真剣な眼差しも。

暁色の瞳には、強い決意が秘められていて、男は知らず息を飲んだ。

これまでの付き合いから、彼女は言い出したら絶対にきかないということはわかっていた。有言実行なのだ。

それを知っているので、さて今度は何を言い出すつもりなのかと身構えた。


ちなみに彼女の言う好きな人が男自身であることはない。それはずっと彼女を見つめ続けた自分が一番よくわかっている。

とくに女とは口論が絶えなくて、一番仲が悪いのが男である。

二人が夫婦になれたと言っても、それは単に条件が合っただけで、別に彼女の夫候補は他にもいたのだ。そしてその内の一人に彼女は恋をしていた。


「私がその好きな人と結婚したいと願っていたのは知っているわよね」

「ああ」

「だから、ヌイトに頼んで魔法薬を作って貰ったのよ」

「魔法薬を?」


彼女は小さく頷くとサイドテーブルに置いてあった茶色の小瓶を目の前にかざした。

ヌイトは彼女の夫候補の一人でもう一人の幼馴染みでもある。『魔道王』の後継者とも呼ばれるほどに魔法の腕がある。

そうして彼女の想い人でもあるのだ。

その名前に、男の胸が僅かに痛んだが、取り敢えず今は無視をする。


彼女は初恋の人と結婚したいとよく言っていた。何より彼女は想い人としか結婚できない決まりだ。

女はそういう定めを持って生まれた。


だからこうして男と夫婦になると決まったときに、彼女は胸に秘めた恋情をどうするのかと不安になったのは事実だ。

想い人は男とは別人だというのに、彼女の生涯の伴侶に決まったのは自分だったのだから。まさか自分が選ばれるとは欠片も思っていなかったので何度も彼女に取りやめないのかと確認もした。そのたびに、悲しげに瞳を揺らして怒ったように決まったことだからと告げる女は取り付く島もなく、この日を迎えてしまったわけだが。


だというのに魔法薬?

どういうつながりがあるのか、男には全く理解できなかった。

だが、次の彼女の言葉に度肝を抜かれた。


「これを飲んで初めて見た相手が私の初恋の人になるの。記憶が上書きされるのよ。だから、私の態度が急におかしくなっても不審がらないで」

「は? ま、待て、何だって?!」


男が慌てても、彼女は躊躇することなく瓶の中身を呷った。

うっと小さく呻いて、こくりと嚥下する音が響くのをただ見つめるしかない。


「な、なんでそんなこと……」


口ではわからないふりをしつつも、彼女の定めを知っているだけに頭の片隅では理解していた。

女は別に好きな相手がいるにもかかわらず、男と夫婦になった。現実を変えることはできない。

だとしたら――?


男が茫然と彼女を見つめていると、パチリと瞬きした暁色の瞳がとろんと蕩けた。

まるで、男に恋しているかのように。


いや、彼女の言葉を信じるならば、今、この瞬間に女の初恋の相手は自分になったということだ。


初恋を上書きする魔法薬なんて聞いたことはない。そもそも記憶操作ができる魔法なんて複雑すぎて途方もない。

けれど、天才魔法使いのヌイトゥーラが失敗作なんて作るはずもないと分かっている。


「ねぇ、バルス」


初めて、女は男の愛称を呼んだ。

これまではバルセロンダと呼び捨てでしか聞いたことがない、男の名だ。しかも常に冷ややかに、呼ばれていた。


けれど今、女が紡いだ名は、とても愛しげで甘やかに耳に届く。自分の愛称は随分とエロく聞こえた。


思わず、男の心臓が跳ねた。酒をどれだけ飲んだとしても、魔物に四方を囲まれても、これほどに鼓動が速く打つこともないだろう。


「ま、待て。本当に、ちょっと落ち着け……っ」

「落ち着いているわ。貴方は、何を慌てているの? 今夜は私たちが夫婦になる初めての夜なのよ」


女が不思議そうに首を傾げて、瞳を細めて微笑んだ。

まるでヌイトゥーラに微笑みかけているように。


これまでだって後悔していた。

女と夫婦になれと女王の命令が下ったときから、彼女の気持ちを無視してきて本当に良かったのか、と。元平民で夫候補の中で誰よりも彼女から遠い存在だった自分なのだから。


だが、今の衝撃は本当に頭を鈍器で殴られたかのようだ。


「お前、今の状況が分かっているのか……?」


初恋を上書きした――書き換えたのだ。

つまり、今まで彼女が大切にしていた想い人が一番大嫌いな自分にすげ代わった訳で。


なぜ当の本人が、こんなにケロリとしているのか!


いや、上書きしたからだ。ヌイトゥーラへの恋情を、今向けられているからだ。

彼女は想い人と結婚したことになったのだ。記憶を上書きしたから。


「状況だなんて、もちろん分かっているわ。だから、初夜でしょう? 好きな相手に初めてをあげられるのだもの。とても嬉しいわ」


初恋を上書きすると、それまでの記憶も書き変わるのだろうか。

とても彼女の言葉とは思えない。

愛らしい瞳を潤ませて、熱っぽく見つめられればそれだけで戦慄が走った。


「ラナウィ……嘘だろう……?」

「どうしたの、嘘なんてついてないわ。いつもみたいにラーナと呼んで?」

「それは――っ」


それはヌイトゥーラだけが呼んでいた彼女の愛称だ。

男には決して呼ぶことを許されなかった。


「お前は、俺のこと……」


嫌いだろうと続くはずだ、いつもならば。

だというのに彼女が男の言葉をとって続けたのは、これまで夢見た言葉だった。

男がどうしても欲しくて、けれど手に入らないと諦めた願望だ。

間髪入れず、てらいもなく、さらりと鼓膜を揺らした。


「愛しているわ、バルス」


頬を染めて、女が上目遣いで見上げてきた。


――これが、男にとっての地獄の日々の始まりだった。


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