第三幕

 

 

 龍馬の後に続く数名の視線を感じながら、早くも伊織は燃え尽きていた。

 男でなければ入隊は認められまいと思い、男装も入念にやってきたというのに、いともあっさりと見破られてしまった。

 しかも、坂本龍馬にである。

 やはり、いつもより胸の晒しをきつく巻いた程度では、甘々だったか。

(入隊が無理だとしても、何とか村山さんと会えないか……)

 間者であることが露見する前に、余裕をもって脱出できるよう助言出来れば、間者役を交代せずとも、何とかなるかもしれない。

(最初からそうすればよかったかな……)

 入隊せずとも、村山に接触する機会は、監察方の伊織なら見つけることができたかもしれない。

 まさに、飛んで火に入る夏の虫の気分だ。

 それとも、消し切れぬ中岡への思いが、陸援隊入隊を決意させたのだろうか。

(……いいや! そんなのは駄目だ。色恋と隊務を混同するな)

 固く目を閉じて、ぶるぶると首を振った。

「おぉ、龍馬! 待っちょったぜよー!!」

 担がれたまま、とある一室に入ると、聞き覚えのある声が響いた。

 慎太郎の声である。

 伊織の顔からサッと血の気が引いた。

「いやぁ、ここン前でおもしろいモン拾っちゅうたがよ! 拾いモンですまんが、土産じゃあ、慎太郎!!」

(ハッ! 土産ってまさか……っ!?)

 思った時には、伊織の身体は既に慎太郎の目の前に降ろされていた。

「……おっ、おおぉーー!!? 伊織じゃあーーーッ!!!」

「ぐっはッ!!」

 目を輝かせて、伊織を力一杯抱き締めた慎太郎の前に、伊織は無力であった。

「なんじゃあ、慎太郎。この土産、知っちゅうがか?」

「知っちゅうもなんも、俺ァ前っからこいつに惚れちゅうぜよ!」

「……っかー! ほんまかぁ、慎太郎!?」

 伊織にしてみれば、踏んだり蹴ったりである。

 まさかこんなに早く隊長に目通るとは計算外だ。

 妙な盛り上がりを見せる龍馬と慎太郎の間で、げんなりと気が滅入る。

 突き飛ばされたり担がれたり、土産にされたり、つくづく陸援隊という組織の恐ろしさを実感せずにはいられない。

(村山さん、よくこんなところにいるな……)

 ちょっとばかり村山を尊敬する。が、無論、村山が伊織のような目に遭っているわけではない。

「返事は明日でエエゆうちょったが、こぉんな早うに来てくれるとはのーぅ! そんなに寂しかったがかぁ? うーん?」

 やたらと甘々な慎太郎の声には、逆に伊織のほうが恥ずかしくなってしまう。

 カッとなった勢いで、伊織は夢中で慎太郎の腕を逃れた。

「ふざけるなっ! 私は男だ! 会津脱藩浪士、高宮伊織という! 此度は土佐陸援隊への入隊をお許しいただきたく、参上した次第!」

 精一杯男らしく言い放ち、失われた自信を少しばかり回復させる。

 これには一同、目を丸くした。

 暫時の沈黙があって、慎太郎を除く全員が爆笑した。

 伊織はその反応に、身体が熱くなるのを感じた。

 悔しくて、恥ずかしくて、なにより情けなかった。

 もう男装ではごまかしきれないところまで、女として成長してしまっていることは、自分が一番よく知っている。

 新選組の中でも、皆が気づき始めている。

 ただそれを口に出さないでいてくれるだけなのだ。

 同じ監察の島田などが、その好例だろう。

 見て見ぬふりをしてくれてはいるが、常に伊織を気にかけて、かばってくれている。

 それでも男として振る舞わねば、新選組にはいられないのだ。

「まっこと面白い女子じゃあー! 慎太郎! こいつぁ、上玉じゃぞぉ。おまんにゃあ勿体ないくらいぜよ!?」

 明るすぎる龍馬の声を取り巻いて、伊織の耳に哄笑が届く。

 何かを言い返してやりたくとも、もう言葉が出てこない。

 そうして、何としたことか、不覚にも涙が出た。

 慎太郎は素早くそれに気付き、伊織を隠すように抱き込んだ。

「はっはっはっ! 伊織は照れ屋じゃき、知らんモンが多くて緊張しちゅるんじゃあ。龍馬もちくと虐めすぎぜよ」

「おー、すまんき。許しちょくれ」

 伊織は、慎太郎の腕を再び払いのけることは出来なかった。

 悔し涙が後から溢れて、止められなかった。


 ***


 その場所で、引き続き会合が行われた。

 その間ずっと、伊織は慎太郎に捕まえられたままである。

(……有り得ない)

 と、伊織は思った。

 間者としては願ってもないことだが、いくらなんでも、今日突然現れた部外者を同席させている不用心さが、信じられない。

 話の内容は、あくまでも陸海援隊の今後の方針に関するものであった。

 伊織には、当然知れたことである。

 龍馬も慎太郎も討幕の意志こそ同じところではあるが、慎太郎は武力討幕を早々に決起することを望んでいるらしかった。

 ところが、龍馬の、

「戦は回避できん。必ず幕府の方から仕掛けてくるっきに、わしらはその機会を待っちょればエエ」

 という言葉が、慎太郎を抑制した。

「さすがに龍馬は才子じゃのー」

 と返した慎太郎の揶揄は、伊織も何かで読んだ記憶がある。

 ひとまず慎太郎の腕に身を預けたまま、伊織は会合の一部始終に耳をそばだてていた。

 やがて談笑に入ってから、伊織はゆっくりと立ち上がり、慎太郎と目も合わせぬまま部屋を出た。

「伊織? どこに行くがよ?」

 慎太郎が呼び止めるのにも、答えなかった。

(村山さんを探そう)

 伊織が退室してしまうと、慎太郎のも立ち上がった。

「ははっ、かまってくれんゆうがで、ふてくされちょる。カワイイがじゃろう?」

「わしもちくと虐めすぎたかのう。慎太郎、早う行っちゃれ行っちゃれェ」

 慎太郎は一言すまん、と言い残して、伊織の後を追った。

 長い廊下を少し歩いたところで、伊織は慎太郎に追いつかれた。

「ちくと待つぜよ。すまんかったのー。せっかく返事を持って来てくれたゆうがのに」

 伊織は背を向けたまま、立ち止まる。

 何を言うべきか、正直ちょっと困ってしまう。

 先ほどのあの様子では、入隊は難しい。

 そして返事をするにも、どう答えても不利にしか働かない気がする。

 慎太郎の申し出を受けると答えればそのままの意味に取られてしまうし、断れば村山に接触すら出来ぬまま屯所を出て行かねばならない。

 かといって返事を濁しては、それこそ何のために来たのか怪しまれてしまう。

(……困った)

 言葉に詰まっていると、突然慎太郎に腕を引かれた。

「人目があるき、部屋に入るぜよ」

 強引に引きずられて、別室に入る。

 二人きりになると、慎太郎は伊織の腕をまくり上げ、まだ血の滲む擦り傷を見つめた。

 思っていたよりも深く擦りむいていたらしい。

(ちっ……龍馬め。手当するどころか、人を手土産にしやがってッ!)

 ふと新たな不満がよぎる。

 ぺろり、と擽ったい感触が腕に伝わった。

 傷を、嘗められていた。

「なっ……!? 何をするんですか、あんたはっ!!?」

 慌てて腕を引っ込める。

「何って、消毒じゃ」

 けろりとした顔で、慎太郎は答えた。

「要りませんよ、そんな消毒は!!」

「うぅーん、照れ屋じゃのー、伊織は! そこがまた、かぁーわいいぜよ!!」

 少しも悪びれた様子のない慎太郎に、伊織はげんなりとため息をつく。

「──ははっ、……まぁ、無理強いする気ィはないがよ。俺んとこが嫌じゃゆうがやったら、俺もすっぱり諦めちゃるき」

 慎太郎は目をそらして言い、すぐに伊織を見つめ直して笑った。

 その笑顔が、何だかひどく寂しげに映った。

「──慎ちゃん……」

 本当に、どこまでも真っ直ぐな人だと思う。

 何に対しても、誰に対しても実直で、どんな苦境や窮地にあっても、真っ向勝負を挑んでいくような人なのだろう。

「俺も、いつ死ぬか分からん身ィじゃきのー」

 心中を読まれたような気がして、伊織は内心ひやりとする。

「……けェど、伊織がおってくれりゃあ、絶対に死なんような気ィがしちゅる。……って、ちくとしつこいがか? すまんにゃあ」

 決まり悪そうに頬を掻いて笑う慎太郎を見て、伊織は答えた。

「──いますよ。あなたの側に」

 努めて冷静な面もちで、慎太郎の反応を待つ。

 目前の慎太郎はといえば、驚いた表情のまま静止している。

「…………」

「…………」

「……おっ、おおおぉーーッ!!! ほんまかぁーッ!!? うをーーッ!! 龍馬ァーーっ!!! 聞いちょくれぇっ! 伊織がっ! 俺んとこ愛しちゅうゆうたがじゃああ~~~っ!!!」

「誰がそんなことを言いましたかっ!! 坂本さんを呼ぶのはやめてくださいっ! いらん誤解を招いてどうしますか!!!」

「もっ、もういっぺん、ゆうてみてくれんがか!!?」

「ですから何も言ってませんよ、私はっ!! どこをどう聞き間違えたんだ!?」

「おぉーう、照れちゅうッ! エエき、エエき! 俺にゃあちゃあんと聞こえちゅうよっ、伊織の熱烈な心の声が!!」

「いい加減にしてくださいッ!! 一体なんなんだ、あんた!」

 抱きついて頬摺りまでしている慎太郎を、懸命に引き剥がそうとしながら、伊織は必死に言い添えた。

「側にいるとは言いましたがね! それは陸援隊士としてですよ!!」

「またまたァー、そう照れんでも─────って……」

 瞬時に慎太郎が真顔になる。

「ほんまに、入隊志願でここに来たがか……?」

 伊織は黙って頷く。

 くだけた雰囲気が、一変して張り詰めたものになった。

「……それは、出来ん。おまんは女子じゃ。それも、俺が惚れちゅう女子ぜよ。──出来ん」

 真剣な眼差しで見おろされ、伊織は眉間に皺をつくる。

 女だから、入隊は認めない。

 解って訪ねたはずなのに、改めて面と向かって言われると、カチンとくる。

 こういう差別的なものは、生来大嫌いな質でもあった。

「女だから何だ。男だけで何が出来る。あんたが真に国を思うなら、そういう考えこそ改めて然るべきじゃないのか? 民の半分は女だ。男の意志と力だけで事を成して、国が治まると思うのか?女は役には立たないか? 女は無力と思っての事なら、これほど暗愚なことはない!!」

 伊織は一気にまくし立てた。

 言い切ったところで、一人分の拍手が鳴った。

「こりゃあ、わしが思うちょった以上に傑物じゃあ」

 いつの間にか、そこに龍馬の姿があった。

「龍馬! いつ入ってきたがか!?」

「あー、わしのことはエエき。おんしは言い返しちゃらんのかぁ?」

 慎太郎は龍馬の出現に少なからず驚いてみせたが、伊織のほうはこの際無視である。

 あれだけの大声で呼んだのだから、別に驚くほどのことではない。

 慎太郎は一つ咳払いして、ちらと伊織を見る。

「女子が無力とは思うちょらん。……けど、伊織を入隊させる気ィには、どうしてもなれんがよ」

「っだからそれが……!」

「まぁまぁ、抑えちゃれェ」

 慎太郎につかみかかる勢いの伊織を、龍馬が止める。

「慎太郎は、おまんを危ない目に遭わせとうないだけなんじゃ。これもおまんへの愛ゆえぜよ! ほんで慎太郎も、ちと折れちゃれ。おんしゃあ隊長じゃき、小姓の名目で入隊さしちゃればエエ。したら、いっつも一緒におれるがじゃろう? 一石二鳥ぜよ!」

 得意げな龍馬の説得は、渋い顔の慎太郎をも唸らせた。

「……小姓、がか? うー……む。……ほんなら、隊長専属の小姓で、っちゅうことなら……認めちゃる」

(……隊長付小姓か。また動きにくそうな位置だな)

 隊長付小姓とは、もたらされる情報も大きいだろうが、動く際の危険度も高い。

 平隊士の末端にいるほうが、何をするにも楽なのだ。

「おぉーっしゃあ、それでこそ慎太郎ぜよ! ほれっ、おまんも礼を言わないかんぜよ」

 龍馬の一言で、伊織はもう一つ重大なことに気づく。

(そうだった。陸援隊においては、隊長の部下になるってことだ……)

 平隊士ならばともかく、小姓という側仕えでは、常に慎太郎の命令に従わねばならない。

 何か嫌な予感がするに加えて、いよいよ自分の考えの甘さに辟易する。

「……さ、採用していただき、誠にありがとうございます」

 形式的に頭を下げはしたものの、言葉は完全に棒読みであった。

 隊長の居室は、さすがに広かった。

 現在の新選組屯所は、けっこうな豪華さであるが、陸援隊屯所もそれに引けを取らない。

 陸援隊に入隊を許可された伊織は、まず普段の生活の拠点となる場所へ案内された。

 までは良かった。

「それで、何で隊長と同室なんですか……」

 引き続き、元気のなあ伊織である。

「何ゆう! 隊長付小姓がじゃったら、昼夜を問わず隊長の側近くに控えちょるもんぜよ! 一応、女子じゃゆうんは隠すようにゆうちょいたが、ここが一番安全じゃき」

 確かにその通りではあるのだが、ある意味ここが一番危険ではないか、と伊織は呟く。

「それになぁ、二人っきりの時は、慎ちゃんでエエき。むしろ慎ちゃんて呼べ」

 伊織は、それは適当に聞き流して、日常の仕事についての説明を求めた。

「せやにゃあ、その日毎に指示するっき、それに従っちょうてくれたらエエきに」

「そうですか。では、本日は何を……」

「暮れ六から久しぶりに酒宴があるんでのー、伊織も出ちょくれ」

「承知致しました」

「それまでは俺についちょってくれたらエエよ」

「畏まりました」

 承諾しながら、伊織は内心、臍を噛む。

 少しでも早く村山を探したいのである。

 その目的でやってきたのだから、それさえ済めば幾分肩の荷も降りるというもの。

(いや、待てよ。酒宴の席なら、かえって自然に接触できるか……)

 ここは敵陣の中だ。急いて事を仕損じるより、慎重に慎重を重ねるべきだろう。

 村山を脱けさせる前に怪しまれては、元も子もない。

 平和な未来からやってきた女子であっても、やはり中身は新選組で鍛えられているらしい。

 幕末へ来た当初に比べれば、この仕事もそれなりに板についている。

 いざ行動を起こしてしまえば、朝の緊張が嘘のように冷静になっているのだ。

(我ながら、すごい順応性だ……)

 そう、冷静である。

 で、あるのだが、先刻から向けられる視線には、さすがの伊織も落ち着かない。

 視線には、明らかに不満そうな空気が感じられる。

「─────他人行儀じゃあ……」

 視線の発信元が、ため息混じりにボソリとこぼす。

 伊織はその場に正座したまま、視線を合わせぬように目を伏せている。

 そればかりか、さあらぬ体で聞こえぬ振りを決め込んだ。

 小姓が主を無視である。

「……はあぁ~~」

 今度は聞こえよがしに大仰なため息でもって、伊織の気を引こうとする。

「お疲れのご様子。刻限まで暫し休まれるとよろしいでしょう」

 本当の主である土方にさえ、ここまで丁寧な言葉を用いたことはない。

 伊織なりの言葉の防御壁なのである。

「結局、返事はもらえんがか……?」

 荷を整理しようと片膝を立てたところで尋ねられ、伊織は正座し直す。

 断ろう。

 どうあってもこの人に応えられはしない。

 そうは思っても、声にならない。

(……どうかしている)

 心のどこかで、慎太郎を愛しいと思ってしまっているらしかった。

 悪いことに、その思いは現在進行形で少しずつ強くなっている。

 新選組を、土方を、裏切ることは出来ない。

 けれど、慎太郎を救いたい。

 また頭を擡げてきた逡巡に、伊織はややうんざりする。

(あるべき未来は、もう知っているじゃないか)

 何も言えなかった。

「──────」

「なんで何も言うちょくれんがよ。俺の気持ちに応えてくれんゆうがやったら、なんで陸援隊に来ちゅう。諦めろ言われても、こぉんな側におったら忘れられんがじゃろう!」

 慎太郎らしくもなく、声音が震えている。

 その中で、伊織は盲点を突かれた。

 幸いにも、慎太郎にはまだ気付かれていないようだが、これでは返事をしないわけにいかない。

 陸援隊は、設立当初の新選組にその状況がよく似ている。

 つまり、陸援隊も寄せ集めなのだ。

 志あって入隊する者もいれば、屯所にいれば食うに困らないからという理由で入り込んでくる食い詰め浪人もいる。

 大半は土佐の脱藩者が占めるが、隊士総勢百名を越える大所帯だ。

 だから、志を申し訳程度に語れば、それで入隊理由になると思っていた。

 伊織としては平隊士の末端に配置されれば、それで良かったのだ。

 しかし。

(あそこで坂本龍馬にさえ会わなければな……)

 思いもよらぬ事故のために、陸援隊の中枢に通されてしまった。

 いや、末端に入り込んだとしても、いずれは慎太郎の目にとまっていたかもしれない。

(……同じことか)

 意を決して久しぶりに慎太郎と目を合わせると、どうしたことか、今度は慎太郎が顔を伏せる。

(??)

 訝しんで慎太郎を見つめると、伊織は呆気にとられてしまった。

「あ……の、隊長?」

「……もう、隊長ってしか呼んでくれんがか?」

 慌てて目を擦りながら、少し鼻声で言う慎太郎が、可愛くさえ思えてしまった。

 だが、それはそれ。

 伊織は表情を引き締めて言う。

「これより申し上げますことは、私の志によるところの決意。是非にも、陸援隊の長としてお聞きください」

 畏まる伊織に対し、慎太郎はうなだれたままである。

「私はとうに女子として生きる道を捨てております。ですから、女子として隊長に添うことは出来ません。しかしながら、隊長のお人柄に強く心惹かれたことは間違うことなき事実。私は陸援隊士として、隊長のお力になりたいと存じます。お側にお置きになるのがお嫌でしたら、どうぞ平隊士の末端にでも配置替えしていただいて構いません。ですが何卒、除隊だけはご容赦を!」

 伊織は、頭を下げずに真っ向から慎太郎を見据える。

 実直さを絵に描いたようなこの人物には、平伏するよりもこの方が効果的であると、いつの間にか心得ていた。

 この機微こそが、日頃の監察方での職務の賜物である。

 見据える先の慎太郎は、複雑そうに目を伏せていた。

「伊織は女子ぜよ」

「はい」

「……配置替えは、出来ん」

「ならばお側にお仕えいたします」

 それきり、会話は途絶えてしまった。


 ***


 暮れ六、陸援隊屯所内に設けられた会場で、予定通り酒宴が開かれた。

 無論、今日訪れた坂本龍馬らも出席している。

 伊織は上座の慎太郎の後方に控え、これまたガッカリしていた。

(幹部だけかよ……)

 てっきり全隊士に酒が振る舞われるものと思っていたのが、そもそも甘かった。

 出席している面々も、どこの誰なのかさっぱり分からない。

 結局あれから一言も話さぬまま宴に出たが、慎太郎は思いのほか、けろりとしていた。

 何事もなかったように龍馬たちと談笑している。

(何か理由を見つけて、途中で脱けよう)

 村山を脱隊させるのに、あまり時間はかけたくなかった。

 長引けば長引くほど、怪しまれてしまう。

 気分的には落ち着かないが、顔には出さずに辺りを窺っていた。

「おぅ! みんな、聞いちょくれぃ!!」

 少しばかり酒の入った慎太郎が声を張り上げると、皆が一斉に注目する。と同時に立ち上がった慎太郎に腕を引き上げられて、伊織もその場に立たされた。

(は!?)

「こいつが今日新しく入った、高宮伊織じゃあ!! 俺専属の小姓じゃき、みんな宜しく頼むぜよ!!」

 隊長直々のお披露目に、幹部衆も歓声と拍手を送る。

(また余計なことをー!!)

 これでまた大変行動しにくくなってしまった。

 どんどん追い詰められている気がしてしまう。

 そして、それよりももっと気になるのは、幹部衆の視線である。

 興味津々といった様子で、穴の空くほど見られていた。

 その様を、龍馬などは面白がっているらしく、笑いを堪えている。

「ほれほれっ、伊織も何か一言!」

「えっ……あ、た、高宮と申します。今後とも、どうぞ……よろしく、お願いします」

 気後れしながら辿々しく挨拶をするが、一同にはそんなことは気にならないらしい。

 一瞬の沈黙の後、場は騒然となった。

「声まで女子のようじゃの──っ!!」

「こぉんな小姓がじゃったら、ワシも欲しいぜよーッ!!」

「っか───ッ!! 目の保養じゃあ! うらやましーぜよ、中岡サン!!」

「小姓っちゅうより、色小姓じゃないがかぁー!?」

「ぶはーっはっはっはっ!!!」

(……こいつらッ)

 最後に紛れ込んだ爆笑は、龍馬のものである。

「まぁまぁ!! 伊織は照れ屋じゃきィ、そう虐めんじょくれ! 後で泣きつかれちゃあ、俺も変な気ィ起こすがじゃろォー!!?」

 周囲を窘める意味も込めてあるのだろうが、慎太郎自身も笑いながら大声を上げる。

(その冗談は笑えねぇよー!!)

 心で毒づく伊織である。

 これだから、どうも酒の席は好きになれない。

 新選組では、近藤や土方といった重役が、それほど酒を呑まなかったからか、それでも楽しく参加していた。

 近藤も土方もそこそこは呑むが、酔って大声を出したり動作が大きくなったりはしない。ほろ酔う程度である。

 伊織が酒を呑まなくても何も言わなかったし、無理に奨めることもしなかった。

 そういう節度ある酒宴が当然と思っていたから、余計にこの場は耐え難かった。

「ほんなら、伊織の入隊祝いも含めて、乾杯じゃあー!!」

 酔っぱらいを煽るのは龍馬である。

 伊織が座り直すと、龍馬は杯を手渡しながら、耳打ちした。

「おう、伊織。慎太郎は何ぞあったがか?」

「はっ? いえ、何も……」

 あった、とは言えない。

「どうしてです?」

「イヤ、酒の煽り方がいつもと違うちょう」

「そうですか? 皆さんと同じに見えますが?」

「うーん、いつもはもう少ぅし大人しゅう呑んじゅうよ」

 そう言われて慎太郎をちらりと横目で見やるが、酒を呑む慎太郎を目にするのはこれが初めてである。どう違うのかなど、知る由もない。

「ま、それはエエき。おまんも一つ付き合っちゃれ!」

 人なつこい笑顔で杯を奨める龍馬を見ると、何となく無碍にも出来ずに受け取ってしまった。

「じゃあ、少しだけ」

 顔で笑って心で策を練る。

(これ一杯で酔っぱらって脱けよう。みんな結構酔いが廻ってるみたいだし)

 杯を一気に煽る。

「うっ!?」

 思わず吐き出しそうになる。

(……きっ、つぅぅー……)

 それでも堪えて呑み込むが、杯一つを干すと、既にもう顔が火照ってきた。

 傍で見ていた龍馬も、びっくりしたらしい。

「うおーっ、おまん、下戸じゃのー! 一杯で真っ赤じゃあ! うぅーん、色っぽくなっちゅうぜよ~~」

「はっはっはーッ! そぉれすかっ!? 龍馬さんたら、襲っちゃいますよぉ~~~!! ぷはーっははははっ」

「おまん最高ぜよ~! も一つどうじゃあ!?」

「うーん、もう、酔わし上手めぇーッ!」

 こうして龍馬を相手に笑い上戸に徹すること小半刻。

 笑いすぎが祟ってか、本当に酔ってしまった伊織であったが、

「ちょっと酔いを醒ましてきます」

 と龍馬に告げ、宴会の席を離れた。

(さぁ、村山さんを探さないと……)

 廊下を歩いて階下に降りる。

 酔いを醒ましながら屯所内をぐるりと一周するも、村山の姿を見出すことはできなかった。

 いくらか醒めてきたのだが、酔っていたことで途中見落としてしまったかもしれない。

(もう一度廻ってみるか……? ──いや、やたらと歩き回るのは良くないか。村山さんだって私の顔は知ってるんだから、擦れ違ってたら声をかけるなりしてきたはずだ)

 それに、酔っている時は判断が鈍るため、危険である。

 とはいえ、宴席にも戻りたくはないのが本音だった。

 元の階段にまで戻ってくると、伊織は隊長室に帰ることにした。

 先に戻って床の用意をしておかなければ、という小姓の仕事を思い出したのである。

 本来の目的は達成出来なかったが、屯所内の構図は大体頭に入ったし、今日のところはこれで良し、とする。

(……もう酒はやめよう)

 今日はそれも勉強になった。

 階段を上がって隊長室へ向かうと、宴会の声が聞こえてきた。

 中でも、龍馬の声がやたらと響く。

(あの人が、坂本龍馬ねぇ……。あぁいう人だとは思わなかったなぁ)

 宴会場を素通りしてしばらく行くと、隊長室に着く。

 伊織は暗い室内に入ると、まず灯をつけた。

 暖かい色の光が、室内に広がる。

「伊織」

 背後から名を呼ばれ、伊織は反射的に刀に手をかけて振り返った。

「! …隊長!?」

 襖に背を預けて座り込んでいた、慎太郎だった。

(あぁ、びっくりした。何してんだ、こいつ)

「もうお戻りでしたか。すみません、すぐに床の用意をしますので」

 身を翻して布団を敷きにかかる。

 慎太郎の床と、入り口近くに自分の床を用意し、間に衝立を移動した。

 その間も、慎太郎はただ黙って伊織を見つめていた。

(やだなぁ、どんだけ呑んだんだろう)

 嫌々ながらも慎太郎の傍へ屈み込む。

 それでもまだ慎太郎は、赤い顔をして伊織をじっと見た。

「……立てますか?」

 言いながら慎太郎へ手を差し伸べる。

 やれやれ、と内心思うが顔にも口調にも出さぬように、無表情を装った。

「坂本さんも心配なさってましたよ、いつもと様子が違……」

「俺は伊織に惚れちゅう」

 伊織の言葉を慎太郎が遮る。

 何度も聞いた言葉だが、いかに平静を装っても、伊織を動揺させる言葉である。

「ですから、それは先にもお話ししたように……」

「何で龍馬には女子の顔を見せるがよ。何で俺には見せんがよ!?」

「? 私がいつ、坂本さんにそのような……?」

 はて、何のことかと考えて、ふと思い当たる。

 そういえば先刻の宴席で、そんなようなことがあったかもしれない。

(あの時か……)

「あれは冗談でやったことです。それは坂本さんもご存知のはずですよ。頼みますから、そんなことで拗ねないでくださいよ」

「龍馬とは仲良うしちょったのに、俺には他人行儀がじゃろう」

 口をへの字にしてみせる、駄々こね隊長の図である。

 これが陸援隊の隊長たる者なのかと、伊織は僅かな衝撃を受けた。

「それは時と場合によるでしょう。私は隊長付小姓ですから、公私の別をつけているまでで──」

「おまんに隊長って呼ばれたくない! 俺は本気で愛しちゅう。"女子の伊織"の返事が聞きたいゆうんが、何でわからんがよ!」

 俯いて、むくれてゴネる慎太郎に、伊織はすっかり頭を抱えてしまった。

(嫌な酔い方をする人だ)

 出来ることなら答えてやりたいのだ。

 私も好きだ、と。

 それが許されない立場だから困っているのに、わからないのはどっちだ、と言ってやりたくもなる。

「だいぶ酔ってますね? しっかりしてくださいよ。さぁ、立ってください」

 苛立ちを抑えながら、改めて手を貸す。

 慎太郎は変わらず仏頂面だったが、黙って伊織の手を借りた。

 伊織の介添えで寝間着に着替える間も、慎太郎は含みのある視線を向け続けた。

 そして伊織が帯を締めている最中に、突然抱きついてきた。

「たっ、隊長!! 本当にもういい加減にしてください!!」

「隊長、じゃあないがじゃろぅ?」

 耳に、慎太郎の息がかかる。

 余程酒を煽ったらしく、酒の匂いがきつかった。

(くっせぇー! こんなになるまで呑むなよなー)

 何だかこちらまで悪酔いしそうである。

「本当に呑みすぎですよっ!! 少し自重なされるとよろしいでしょう。油断は禁物です!」

「……伊織のせいじゃ」

「人のせいにしないでください! ご自分の不覚悟でしょう」

「伊織は覚悟を決めちゅうがか?」

「は?」

「俺は公私の別はきっちりつけちょう。けど、伊織は違うちゅうぜよ」

 ぴくり、と伊織の眉が顰められる。公私の別をつけていないなどと言われるのは心外だ。

「伊織は私情を捨てちょうだけぜよ」

「──持たざるべき私情は、捨てるようにしていますが」

「それで、俺の気持ちまで捨てる言うがかよっ!?」

 伊織は何とも言えず切なくなった。

 自分を抱き締める慎太郎の背に腕をまわしてしまったのも、伊織にとっては予想外のことだった。

 けれど、何故か、そうせずにはいられなかった。

「伊織……」

 少し驚いたような慎太郎に、伊織は照れ臭そうに言う。

「今日だけだからねっ」

 とうとう折れた伊織に、慎太郎は有頂天になり、その夜伊織は一晩中貞操の危機と奮闘する羽目になる。

「なぁんじゃあ~~!! 照れちゅうだけがやったかーっ!? もーっ、落ち込んじょって損したぜよ~~~ッ!!!」

「だっ、だから違……!!」

「うぅーん、エエきエエき!! 本当は俺んとこ愛しちゅうがじゃろー!? 一つ床で寝るぜよー!!」

「ぎゃああああああッ!!! やめてくださーーーいっっ!!!」



【第四幕へ続く】

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