カクテル③
しかし使う側に立って設計することはうらやましく感じられた。複雑で面倒でも慣れたものの方がいい場合もあるが、与えられたものに慣れるよう努力することが当然と思っていたので、ありがたい話である。
「そう、アメリカの新型電車は、ブレーキも凄いんです。難しい話になるけど、日本のだいたいの汽車や電車はブレーキハンドルを一番奥のひとつ手前まで回してブレーキ力を上げて、その手前でブレーキ力を保ちます。速度が落ちてきたら更にその手前に回して緩めて、奥で保って、緩めて、保って、という操作をするんです」
紳士がハンドル操作をテーブルの上で実演していたが、皆が理解できるものではなかった。ただ機関士や運転士は、そんな面倒なことをしているのか、と思っただけである。
「それが奥に回すにつれてブレーキの効きが強くなるだけ、ちゅうのをアメリカのウエスチングハウスが作ったそうですわ。強めたければ奥、緩めたければ手前にハンドルを回すだけでええんです。さっきみたいにガチャガチャせんでもええ」
「それは簡単そうだ、我々でも運転できそうに思える」
「ガチャガチャ動かさんで済むから、PPCカーでは加速もブレーキも自動車と同じような足踏みペダル式ですわ」
「足踏みペダルなら、ミシンで慣れた私たちの方が上手く運転できそうね」
どんなブレーキでも列車を停めることは難しい作業なのだが、野暮なことは言わないでおこうと思い、紳士は話を続けた。
「これを応用して、むしろこのために開発したそうですが、加速とブレーキのハンドルをひとつにまとめた電車が出たそうです。片手でハンドルを掴んで、右に回して加速かな? ええとこで真ん中に戻して転がして、反対に回してブレーキや。どっちか一方の手で運転して、もう一方の手で何かできます。もうアメリカの地下鉄では走っているそうです」
「ハチクマさんなら、どれだけ楽なのかわかるんじゃないですか? 片手で焼いて、もう片手で揚げて、時々オーブンを覗いているんだから」
「全部片方の手で済むのは楽なのか? どんな料理ができるのか想像がつかないな」
皆の笑い声を聞き、技師でもない人たちに訳のわからない話を延々としてしまったことを自嘲した。
しかし誰でもいいわけではなかったが、この話を誰かに聞いてもらいたくて仕方なかったのだ。
「今年アメリカで完成したエレクトロライナーいう電車があるんですが、びわこ号を四両にしたような電車ですわ。出張で知り合ったアメリカの技師から絵葉書が届きましてン、まあ奴の自慢ですわな」
背広から取り出した一枚の絵葉書には、幾筋もの朱色の帯を巻いた緑色の流線型電車が青空の下に佇む姿が描かれていた。これがアメリカの風景なのかと、皆が釘付けになった。
「今できる最新の技術で最高の電車ができた、なんて憎らしいことを言いますわ。びわこ号は小さいから横長の椅子ですが、これは全席ふたり掛けロマンスシートや。シカゴでは高架鉄道を縦横無尽に走って、郊外は普通の線路を高速で走ります。試験では時速百八十キロを出したそうですが、閉まらんうちに踏切を通過してしまったそうで、郊外は時速百四十キロに抑えて走っているそうですわ。カフェーかバーみたいな食堂車が一両あって、そこの名物はコックさんが私に作ったやつです」
「あれは料理としてあるものなんですか!」
ハチクマが目を見開いて絶叫すると、紳士は不思議そうな顔をした。
「そやから、知らんちゅうのが信じられんのや」
「アメリカの本物は、一体どんなものなんですか」
ハチクマの今にもよだれが垂れそうな顔に圧倒されて、紳士は椅子からずり落ちそうになっていた。
「パンの間にハンバーグの他、チーズやチシャ、トマトにベーコンを挟んだりするかな、まあ好きなもの挟んだらええ。上のパンを開けて、トマトケチャップとマスタードを好きなだけかけて、そのままやと分厚いから、手で潰して食べるんですわ」
ハチクマは感嘆して、まだ見ぬ本物のハンバーガーに思いを馳せた。そんな豪快で旨そうなものは、日本にはない。
自らが苦肉の策で作ったとはいえ、まだこの国では料理にはなっていない。できることならアメリカで食べたいと夢を見た。
紳士は、絵葉書の電車に乗ってみたいと溜息をついた。
どうすれば音もなく高速で走ることができるのか、どうすれば扱いが簡単なブレーキが作れるのか。今すぐシカゴに行き、その電車の床下に潜り込みたい。そして、日本の鉄道技術を進歩させたい。
そう願ってすぐ、うつむいて、ぽつりとつぶやいた。
「どうして……」
昭和十六年十二月八日、日本軍はアメリカ・ハワイ真珠湾の奇襲攻撃に成功、アメリカ海軍に甚大な被害をもたらした。同時にイギリス領マレーにも進軍、大陸での戦いに終わりが見えていない中のことである。
空いたカクテルグラスに、一粒の涙が注がれた。
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