オムライス③
「すみません、私も嫁入りすることになりました。今日が……最後です」
またもや皆が絶句したが、それはハチクマのそれとは違って落胆であった。
「そうか、寂しくなるなあ」
「その幸せ者は、どこのどいつだい?」
「そうか、旦那さんになる人は出征するのか」
ちらりと向けられたチャコの視線が、ハチクマの心臓をチクリと突いた。互いに目を伏せ、じわじわと広がる痛みに耐えた。
ふわふわとした甘い夢が形となって、どっしりとした重さを得ていれば、違った未来があったのだろうか。
戦争という緊迫感の中、その未来を掴むことができたのだろうか。
しかし今できることは、お互いを祝い、幸せを祈ることだけだ。
「チャコ、おめでとう」
「ハチクマさん、おめでとうございます」
それからは、いつものように仕事は進む。
一段落し、昼飯にしようとハチクマが言うと
「私にやらせてください」
と硬い表情で三代目が申し出た。
様子を見ていようかと思ったが、ひとりでやりたいと厨房を追い出されてしまった。
席に着いて待っているが、どうしても耳を澄ませ、鼻を利かせてしまう。
カッカッカッ……これは卵を溶いている音。
ジャッと焼ける音に続いて、トマトケチャップの香りが食堂にまで漂ってくる。
なるほどオムライスか、しかし何故だと考えてしまい、そわそわと落ち着かない。
出されたものはチキンライスだった。
おや? という顔をしていると、三代目が小さなオムレツをそっと載せた。よほど柔らかく仕上げたのだろう、ぽってりと膨らんだそれは、列車の振動でぷるぷると揺れている。
「オムレツを横一文字に切ってください」
ナイフを手にしてオムレツを切ろうとすると、チャコが制した。
「ハチクマさんは主役なんだから、私がやります」
チャコが腕を伸ばしてナイフを入れると、オムレツはパッと開いて半熟の中身を露わにし、チキンライスを覆い隠した。食堂に感動の声が上がると三代目はしてやったり、という顔である。
「私にもやらせてくれないか」
とハチクマが、チャコのオムレツにナイフを入れた。
朱色に染まった丘一面が朝焼けに染まっていくような光景に、従業員一同が再び感嘆の声を上げていた。
「これは凄い、君はもう一人前だ!」
「お互いのオムレツにナイフを入れるなんて、ハチクマさんとチャコが結婚するわけじゃあるまい」
パントリーが叩いた憎まれ口に、馬鹿なことをいうものじゃないよ、とレジが言うと、列車食堂はいつもの笑いに包まれた。
ハチクマとチャコの視線が交わった。針で突かれたような哀しい笑顔に気付かされて、叶うことのなかった気持ちに固く蓋をするしかなかった。
他の者は普通のチキンライスで、皆はガッカリしている。
「なんだ、めでたいおふたりさんだけか」
「レジさんが勘定を合わせてくれるなら、作りますよ。俺は、ハチクマさんみたいに計算できないから」
「何言っているんだ、ハチクマさんの計算はレジさん任せだぞ? 金勘定が苦手だから、店を任されたら潰してしまうと思って、洋食屋を転々としていたんだ」
「そうだったんですか? 列車食堂なら金勘定しなくていいから、コックになったと?」
従業員一同は、狼狽えて目を泳がせているハチクマを笑っていたが、レジの神妙な顔に気付いて熱を冷ました。
「そういう遊びも、できなくなるな。列車食堂営業会社は、日本食堂の一社に統合させられてしまうんだから」
全員が言葉を失い、スプーンを落としてしまった。レジは誰ひとり知らなかったことに驚きを隠しきれず、激しく動揺した。
「皆、知らなかったのか! ハチクマさんも聞いていないんですか?」
知らないはずだ。
聞くより先に、支配人を絶句させてしまったのだから。
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