ハムライス①
日を跨ぐ長旅を終え、顔を覆う煤を洗い流していると三代目が「うちに来てもらえませんか」と誘ってきた。
誘われたハチクマは苦虫を噛み潰したような顔で「君の実家は、何という屋号だっただろう」と返したので、思わず吹き出してしまった。
「俺は餓鬼の時分から、店の厨房を遊び場にしていたんです。うちで、どんな奴が働いていたのかは、誰ひとり忘れちゃいませんよ。ハチクマさんが働いたことのない店ですから、安心してください」
東京や横浜の洋食屋を転々とし過ぎたせいで、ハチクマには入りづらい店が数多くあった。
あの店の何というメニューが美味い、という噂を聞いて、働いた経験から「あれは絶品だね」「あれから何やら工夫したのだろうか」という話だけに留めておければいいのだが、そんなことをすっかり忘れて店に行き、コックの顔を見て逃げ出すことや、コックに捕まって怒鳴り散らされた挙句、戻ってくるよう懇願されることもあった。
その店は行ったことがないと安心して立ち寄ると、知っているコックが出てきて前述同様の事態となることも、しばしばあった。
安堵しているハチクマに、浅草で働いたこともあるのか尋ねると「働いた気がする」と返ってきた。どうやら、すべての店を覚えていないらしい。どれだけ転々としたのだと、三代目は呆れるばかりである。
地下鉄を降りてからハチクマは、知っているコックに鉢会わないかと
いずれ三代目が継ぐことになる洋食屋は、浅草でも裏手にあった。観音さまを拝みに来た客よりは、近所を相手にしているような店構えである。
敷居は低いが綺麗にしてあり、通りから見えるよう花を飾ったりもして、ハレの日でも使えそうな雰囲気だ。
扉を開くと、心地よい鈴の音が鳴った。
が、それに感嘆している暇もなく、威勢のいい声がふたりの身体を掴み取る。
「おう、お帰り! そちらさんは?」
三代目そっくりなコックが厨房に立っていた。父親ひとりで切り盛りしていると聞いていたが、ひとりでは帯に短し、ふたりでは襷に長しという広さである。地元が相手であれば、多少手が足りなくても何とかなるのだろう。
三代目の紹介を受けて頭を下げると「せがれが世話になって!」と大袈裟に喜んでいた。江戸っ子というのは、こうなのかと驚かされたハチクマは、目を白黒させている。
「夜行列車じゃあ、お疲れでしょう! よかったら奥で休んでください! おい、お前ご案内しろ! ささ、どうぞどうぞ」
勢いに
「もうすぐ昼ですが、何か食べますか?」
と勧められた。確かに開店時間の少し前で仕込みは終わっているようである。
するとポン! と手を叩く音が鳴った。
「そいつぁいい! うちの料理を燕のコックに食べてもらえるなんて光栄だ!」
半ば強制的に座らされた。眠いと言えば寝床に押し込まれるに違いない、食事を頂いた方がよさそうだ。
では折角なので、と言うと賑やかにメニューが出された。
念のため言うが、賑やかにメニューを出したのは三代目の父ひとりである。
今までに食べたことのないものはないかと探していると、親父に先手を打たれてしまった。
「食堂車のメニューに、うちで出していないものはありませんか?」
えっ? と小さく驚いてから視点を変えて、メニューを見直す。
「ハムライスがないですね」
「そいつはどんな料理ですかい?」
「そうですね、いくつか形があるのですが食堂車では……」
「知っている限り教えてくれやしませんか」
矢継ぎ早な返事に、これを気早の江戸っ子というのかと困惑するばかりであった。
そういえば、特急列車の愛称を公募した際「気早の江戸っ子」というのがあったと聞いた。なるほど、これは特急燕のようにせわしない。
「チキンライスの鶏肉を刻んだハムに変えたものや、トマトケチャップではなくコンソメやバターで炒めたもの、その上に薄く切ったハムを一枚載せたものなど、店によって様々ありまして」
ハチクマの知識に感心していると思うと、すかさず
「作ってくれませんか」
と言うので、三代目が気を遣って
「やめろよ親父。ハチクマさんはお客さんなんだし、昨日の晩から鍋を振るって疲れているんだよ」
「いいや、言うより見てもらった方が早い」
ハチクマがスクッと立ち上がったので、三人で厨房へと向かう。久しぶりの陸、初めて使う厨房だ。ぐるりと一瞥してからフライパンを二枚取り、それぞれの鍋底に触れた。
「ケチャップの香りが付くので、フライパンを分けます」
食材を親父から受け取り、薄切りにしたハムと玉ねぎ、人参を刻みはじめた。ガスコンロを着火させてフライパンにバターを落とし、刻んだものを炒め、なじんだところで飯を入れ、塩胡椒をして盛り付ける。
もう一度同じことをしてからコンソメスープを拝借してフライパンに流し入れ、水分を飛ばして盛り付ける。
今度はフライパンを変え、仕上げにトマトケチャップを和えて炒めて盛り付ける。
そしてバターライスとコンソメライスに薄切りハムを一枚ずつ載せた。
「ケチャップライスは味が濃いのでハムを載せていません。どうぞ、比べてみてください」
わざわざ作ってもらうほどのものではないだろうに、と三代目は不満そうな顔である。しかし、こんな簡単なものでも親父はご満悦である。
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