ハチクマ③

 青年の前に並べられたのは、ベーコンエッグが乗ったライスと、小鉢に注がれた醤油である。


 憤怒を露わにコートの男が立ち上がると、厨房近くで様子を覗う従業員たちは、身の毛がよだち震え上がった。青ざめたコックの額には、汗がじっとりと浮かんでいる。

 やってしまった。このコックはしばしば、後先考えず突飛な行動に出て、今のように後悔する。これが風変わりだと呼ばれる所以ゆえんで、コック自身も従業員もよく知る弱み。笑って済むことも時折あったが、今回ばかりは裏目に出ている。従業員一同は、列車食堂万事休すを覚悟した。


 一方、青年は張り詰めた空気の中でぽつねんとして、不思議そうな顔で粗末な料理をじっと見つめていた。


「お好みで醤油をどうぞ」

 かすかに震えるコックの勧めに従ってベーコンエッグに醤油をかけると、薄くまとった脂に弾かれてスルスルと滑り落ちていき、こんもりと盛り上がった卵の山に赤い足跡を残していった。

 中心めがけてスプーンを入れると、半熟の黄身が点々と留まる醤油を飲み込んで、蒸されて甘味を蓄えるライスへと染みていく。艶やかなライスの白い丘は、菜の花色に彩られた。


 カリッと踊るベーコンとプリッと盛り上がる白身、とろりと黄身をまとったライスをひとまとめにして口に運ぶ。


 凝縮された肉の旨みが舌から鼻へ、脳天にまで突き抜けようとした。それを黄身が濃厚な甘味をもって抑え込むと、ふたつの味が争わないよう白身が淡白に間を取り持つ。下支えするライスが塩気も脂も強い甘味も、ほのかな香りでふんわりと受け止める。それらすべてを、隅々にまで染み込んだ醤油がキリリと引き締めていた。


 一口、また一口と味わってから青年は問いかけのために口を開いた。

「どうして私にこれを?」

「シチュードビーフの煮込みが足りないのは、ほんのわずかでございました。私の出来心で半端の赤ワインをほんの少量入れたのですが、それに気付く鋭い舌の持ち主では、何を出してもおかの洋食屋には敵いません」

 ポカンとするコートの男をよそに青年は言葉を嚥下えんげして、ふんふんとうなずいている。


「何か召し上がったことのないものが良いのでは、と思いましたが……如何でしょうか」

「うん、ベーコンエッグとご飯の味です」

 身も蓋もない感想に、従業員一同がズッコケそうになる。撒き散らされた緊張は、一体どこへ行ったのやら。


「でも、確かに初めて食べました、面白い料理です。これは何という料理でしょうか」

「ハチクマライスという、まかないです」

「まかないだと? 貴様!」

 いかめしく立ち上がったコートの男を、青年が手の平ひとつでいさめていた。やはり奇妙なふたりである。


「先ほどハチクマさんと呼ばれていましたが、あなたが考えたのですか?」

「いえ、この料理が列車食堂で生まれたことは確かなようですが、誰がいつ考えたのかはわかりません」

 コック、もといハチクマは少し困ったような顔をして、話を継ぎ足す。

「私のような若輩者がコックなどと呼ばれることを、申し訳なく思いまして……」


 確かにハチクマは、列車食堂のコックでは一番若かった。青年より少し上、というくらいだろうか。コックを目指して修行中のパントリーと言われた方が、違和感のない年齢だ。

「落語のように八っつぁん熊さんでも構わないと申しましたところ、この料理にちなんで皆がハチクマと呼ぶようになりました」


 感服した青年は目を見張り、これ以上ない笑顔を満ち溢れさせた。

「簡単に見える料理ですがベーコンエッグの仕上がりから、あなたの腕前の良さがわかります。これほどの腕を持ちながら客にまかないを出すコックは、この世にふたりといないでしょう。あなたは面白い人だ!」

 青年がたたえる菩薩のような微笑みは暖かな陽射しとなって、列車食堂に張り詰めていた薄氷を溶かしていった。


 コートの男が支払う間に、青年が首を伸ばして厨房の奥を覗き込んだ。用があるのは、もちろんハチクマである。

「ハチクマさん、御馳走様でした!」

 厨房の奥で定食の準備にいそしむかたわら、青年に軽く会釈し笑顔を返した。挨拶さえもままならない忙しさである。

「あと、これをハチクマさんに渡してください」

 青年は小さな手紙をレジに手渡し、二等車の方へと立ち去っていった。


 レジからそれを受け取ったパントリーは、ハラリと開いた手紙の一文が目に飛び込むと、血相を変えて「ハチクマさん!」と声を掛け、夜戦の準備を中断させた。



ハチクマ様


 本日は珍しいものを供して下さり

 ありがとうございました。

 私のことを特別扱いなどせず

 普通に接してくれたことが嬉しかった。

 分け隔てなく接して頂いた方は

 あなたが初めてでした。

 私も、あなたの様になりたく思います。

 住所を書いておきますので

 近くに寄る機会があれば遊びに来てください。



「おい! ハチクマいるか!?」

 車掌が血相を変えて飛び込んできた。厨房に首を突っ込み、興奮気味かつ一方的に喋り出す。


「今日の一等車なあ、ボーイが接待しながら色々と話し掛けても天気の話ばかりだそうで、どこのどなたかわからなかったのよ。ついさっき、ようやく名前をお申し出てくださったのだが、何と宮家の殿下よ! 定食を予約されていないから、その後の一品料理でいらっしゃるかも知れないぞ。失礼のないよう頼むよ、宜しくなあ!」


 記された住所は宮家の邸宅、そして殿下の名前で手紙は締めくくられていた。

 腰を抜かしたハチクマはすっかり呆けて、厨房の床にべったりとへたり込んでしまった。

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