第27話

「ここ?」

「……そのはず、なんだけど、ね」

 なんでもない街角の歩道。付近には街路樹が植えられ、遮るものなく天から降り注ぐ日光を浴びて青々と茂っている。路肩に所せましと小型のファミリーカーが停められているのは違法駐車ではなく近隣の住宅の人のものを停車することが許されているから。車両の数からもわかるように、小ぶりながら綺麗な家屋がずらっと並んでいる住宅街。

 すぐ近くに公園があるらしく、子どもたちの笑い声が聞こえる。道路の向かいにはパン屋があって向こう側へ渡れば香ばしい匂いがしてきそう。本当に普通。誰もが何気ない日常を過ごし、過ぎ去る幸福を享受するであろう、何の変哲もない石畳の上。

――ここが、叔父が息を引き取ったと思われる場所だった。


 旅の目的は旅をすること自身だった。では、旅の中で何をなすか。自転車に乗ってどこへ向かうのか。そんな目的地の一つ。

 ニース郊外の住宅街の歩道こそが、俺にとって避けては通れない大切な場所。

「おじさんはさ、ここで倒れてたんだって」

 ほとんど目印になるものがない中で唯一それらしい街路樹の一本の前に立って話す。

 事前に何度も確認したから間違いないはず。

「多分これ、寄りかかるっていうか、片手で抱きしめるみたいな体勢だったらしい」

 発見者は付近に住む高齢の女性で、寄り合いに向かう途中だったと聞く。

 午前十時過ぎ、彼女が歩く先で様子のおかしい叔父を見つけた。傍らには自転車、俺が今も押しているこれ、が倒れており、一目で普通ではないことが見て取れた。すぐに救急車が呼ばれることになったが、残念ながらその時点で自発呼吸はなし。担ぎ込まれた車両の中で心肺停止も確認された。その後も救命活動は続けられたが、病院で死亡、ということになっている。

 当初は交通事故が疑われたものの外傷はなし。検案書に記載された死因は急性心不全だった。祖父が言うにはあまり具体的な表記ではないのだとか。検死では膵管に腫瘍があったことが確認されたらしいので、それが間接的な理由なのだろう。

 ほとんどの私物は宿に残っていたし、盗難にあった形跡もなし。恐らく、この場所で発見されたときには手遅れだった。誰が悪いわけでもない。責任を追及するなら叔父以外におらず、一人の中年が旅先で孤独死した事故として片付けられるのは自然なことだろう。

 ただ、俺や家族はそれが悲しかった。感情に行き場がないのだ。大人ならどこかで折り合いがつくものなのかもしれないけれど、俺は違う。

 だから今、こうして形見の自転車とともにここにいる。

「……タイチ」

 黙って立木を見つめていた俺にサラが問いかける。

「……ごめん。ちょっとだけ日本語で独り言を言うけど驚かないで」

 それだけ伝えてごくりとつばを飲み込んだ。なんで少し緊張しているのだろう。

「多分叔父さんはこんなところにはもういないだろうけどさ。他に伝えられそうな場所もないから、聞いて欲しい」

 地縛霊にだけはなってないと思うけれど、かといってお墓で親族の来訪を待っているタイプではもっとない。考えてみればあの世でゆっくりだってしていないだろう。

「俺、ここまで来たよ。叔父さんの自転車で」

 言葉にすれば大業を成したような実感が生まれる。自分でいうのもなんだけど、大変な道のりだった。時間もかかったし、距離も長かった。思わぬ事件もいくつもあって、予定通りのことの方が少なかったと思う。

「多分叔父さんはもうちょっとスムーズだったんだろうと思うけどさ。俺は慣れないからこんなものなのかな。でも楽しかった。今もそう」

 ちょっとだけとなりに視線を向ける。

「この子がいてくれたからだ」

 一息つく。

「これから先の旅も続けるつもり。叔父さんが見たかったもの。俺も気になるから。気が向いたらついて来てよ。こんなところでふらふらしているよりは面白いと思うよ。

 ――でも、もしかしたら最後まで行けないかもしれない。他にも大事なことができたから。本当に必要ならそっちを優先しようと思うんだ」

 決意を伝えたかった。もっと言えば懺悔。

「彼女、今凄く大変でさ。それを助けたい。いい加減俺だって当事者だと思うから。叔父さんの旅も大切だけど、場合によってはちょっと後回しにすることもあるかもって先に謝りたかったんだ。前から言ってたろ。道草こそが旅の醍醐味だって。……道草っていうにはいろいろ複雑だけど、不思議と引き返そうって気にならないんだ」

 言い訳がましいな、と叔父の声が聞こえた気がする。本当は自分自身で感じたこと。でも、実際に続きがあったとしたら何というか。だいたいわかる。

「今年……、は難しそうだけど、来年のお盆にはお墓参りに行くからたまには帰って来てよね」

 両手を合わせてから、じゃあ行くよとその場を離れようとしたときに、不思議そうな顔をしたサラと目が合った。

「さっきのっていつもご飯の前にやってるやつ?」

 ああ、そういうことか。

「そうだね。日本ではお墓とかに行ったときにもやるんだ」

「へぇ……、あ! そうか」

「どうしたの?」

「私たちと同じ。こっちでも教会でやるよ、これ」

 十字を切るジェスチャーで言いたいことがわかった。以前、食事の前に手を合わせたときも話題に上がった動きだったから。

 どうやら遠い地に住んでいても、人はどこかで同じ様なところがあるらしい。食べること、日々を生きること、死者を想うこと。これらはどんな国に住んでいても共通して大切なことなのだ。学術的な正解はわからないけれど、そう結論付けることにした。


「……日本では人は死んだらどこへ行くの?」

 なんとなく自転車に乗る気になれなくて、二人で歩道を歩いていたときに、ふとサラが問いかけてきた。さっきの話の続き。……そして多分、彼女の母親についての話でもある。

「うーん、どうだったかな……」

 国、というよりも宗教や教義によって違うような気がする。うちは何の変哲もない信仰心が低めの仏教徒の家系。クリスマスも初詣もハロウィンも普通に楽しむ家だけど……。

「一部の人は天国みたいな場所にいくらしい。そこにはお釈迦様がいる」

 仏教徒的にはそんな感じだろうか。

「他の人たちは?」

「……地獄がある。悪い人たちはこっち」

「どっちか?」

 どうだっただろうか。あまり詳しく考えたことがなかったけど違ったような気がするな。ええと……。

「……生まれ変わりっていうのがあったと思う」

 輪廻転生リインカネーションという言葉を思い出せたのは偶然だったけど、これってたしか仏教用語だ。

「天国に行ける人はごくわずかで、だいたいの人は新しい命に生まれ変わる。それでまた魂を鍛える、とかだった、かな」

 めちゃくちゃうろ覚えだけど。

「それまでのことは全部忘れちゃうの?」

「だろうね。今こうして生きている俺たちだって前世があるのかもしれないよ」

「でも私、仏教なんて知らないよ」

 それもそうだ。

 修業のために生まれ変わって異教徒にする、という話もないだろう。そこらへんどうなっているんだろう。

「よくわかんない」

「なにそれ」

 そうは言うけれど、みんな整合性のある死生観を持っているわけじゃないから……。

「ハンガリーではどうだったの?」

「……主の御許に召される、かな」

 カソリックの考え方だろうか。

「地獄へ落ちる人もいるけど。その後は復活の日を待つの」

「復活の日?」

「そう。みんなその日に復活する」

 聞いたことはある気がするけれど、いざ考えてみるとスケールが大きい話。

「だから、いつか会える。みんなそう信じてる。昔はそんな都合の良い話なんて、って思ってたけど、今は私も信じたい。何もかも忘れて別の人になっちゃうなんて、悲しいから」

 身を切るような切実な想い。けれど彼女がこうして本音を吐露できるようになったのは進歩の証であるようにも思う。

「……そうだね」


 しばらくの沈黙の後、一つ思い出したことがあった。

「そういえば、幽霊っていうのもあった」

 スペイン語にもFantasmaと言う言葉がある以上、似た様な概念があるはず。

「小さい子が怖がるやつ?」

 そういう認識なのか。お化けと言い換えれば日本でもまぁ同じかもしれない。

「それもだけど……、守護霊とか」

「シュゴレイ」

 どう説明するのがいいのかな。

「誰か守りたい人がいて、その近くでずっと相手を守る霊のこと。日本では呪いとかじゃなくて、霊と人、合わせて一人の人間の個性として見たりする」

「霊が守護天使をするの?」

 こんどはこっちがよくわからない。

 聞けば人それぞれに守ってくれる天使がいて、それで占いなんかをしたりもするらしい。中学生くらいの女の子が好きそう。っていうかサラ自身がまさにその世代だ。そのせいかはわからないけれど、かなり詳しく教えてくれた。

「叔父さんが守護霊になっているとしたら居場所はスペインかもね」

 一番しっくりくる。

「なんで?」

「恋人がそこにいるから。今回の旅は、この自転車をその人のところに持っていきたいっていうのもあるんだ」

「……お父さんとお母さんみたいだね」

 そういえばよく似ている。国を跨いだ恋人。その片方がスペインにいる。

……そして遠い地にいる二人は共に命を落としてしまった。こんな共通点はあって欲しくなかったけれど……。

「――だったら」

 また悲しいことを思い出させてしまったな、と反省しているとサラが続ける。

「私とタイチをめぐり合わせてくれたのは、その叔父さんかもしれないね」

 出会ったのはブダペスト。叔父さんが中断した旅のスタート地点だったから訪れた。

 ともに西を目指したのは、二人ともスペインに縁があったから。そこには亡くなってしまった二人にとって大切な、そして俺たち二人にとって会うべき人がいる。

 誰かの導きなのだと言われてしまえば納得できる材料がいくつもある。現実的に考えればただの偶然だけれど、あの人ならやりかねないとも思う。

「今ごろ気付いたのか」とどこかで叔父さんの霊が笑っているのかもしれない。

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