第13話

 国境を越えたのが午前中。

 お昼にはムルスカソボタという集落に到着する。そのころには浮世離れした風景も幾分変化して、馴染みのある、人の住む気配が強く感じられるようになっていた。

 この街はスロベニアの中では大きい方らしい。ただし、人口は二万人ほど。これまで通ってきたバラトンなんかと比較すると、とてもこぢんまりとしている。ただ観光地は観光地なので、赤い屋根の民家が並んでいる様子は写真に撮るだけで額に飾れそうだし、買い物をする店もたくさんある。人の少ない場所を走るために食料は多めに持っているけれど買い足せる場所はどれだけあっても困らない。二人旅は驚くほど食べ物や水を消費するのだ。

 屋台で売っていたケバブが美味しそうだったので昼食代わりに平らげて、必需品を探してまわるうちに少しずつナーバスな雰囲気も払拭されていく。それでもどこかに心の疲労のようなものが残っていた、はずなのだけれど……。


「おお、すげー種類がある!」

「?」

 思わず日本語が出てしまい、サラが疑問の視線を向けてくる。ここしばらくは使ってなかったのに興奮するとついお国言葉がでてしまうものなんだな……。

「ごめんごめん、ちょっと面白いものがあったから」

「面白いものって……、ヌードルのこと?」

 俺たちの前にある棚に並んだ商品をいぶかし気に眺めながら言う。

 そう、俺が見つけたのはヌードル。乾麺にスープがついたいわゆるインスタントラーメン。さすがに他の国にだってこういう食べ物があるのは知っていたけれど、見慣れた金髪の出前小僧のイラストを見てちょっとテンションが上がってしまった。

 しかも、国内では見たことのないような味がずらりと並んでいたので、つい日本語が出てしまったというわけである。いや、本当にすごいんだって。

 一、二、三……、ここには十二種類ほど。赤以外に、緑や紫のパッケージのものがある。英語と漢字の表記があるので、この国での製造というわけではないのだと思う。どれも写真を見ればねじれた麺が直方体状に固められたものが映っており、そこまで違いはないように見える。ということはそれぞれスープの味が異なるのだろうか。

 全体的に牛肉系の味が多いな。辛そうなやつはトムヤンクン? カレー味なんてものも。……これはいくつか買ってみねばなるまい。幸い価格も日本ほどではないけれど、十分安価な部類に入る。保存食なので旅にも向いている。

 ちなみに、スロベニアの通貨はユーロなので事前に用意していたものがそのまま使える。ハンガリーの通貨であるフォリントの残りもどこかで両替しないとな……。

 サラがいる手前、全部をまとめてというわけにはいかなかったけれど、四種類ほどを選んで買い物かごに突っ込むことに成功した。

 しばらく自転車で南下した草原と森の間みたいな場所を今日のキャンプ地ということにする。少し離れたところにトレッキングのための飲料水の水道があったのが決め手になった。

 そこで意気揚々と鍋の準備をしていると、

「そのヌードル、そんなに美味しいの?」

 となりで食材をカットしていたサラがこちらを見ている。

「こういうの、食べたことない?」

「あるよ。馬鹿にしないでよ」

 そうか、ハンガリーでも普通にインスタントラーメンは普及してたんだな。買い物のときは特に目にすることもなかったと思うけど。気が付かなかっただけなのだろうか。

「俺、これ好きなんだよ」

 実は我が家の方針で、この手の食べ物が食卓に上がることはほぼない。高校の部活の合宿で、夜中に合宿所を抜け出してコンビニで買ったカップ麺がほぼ初めての味だった。それが美味くて刷り込みされてしまったのだと思う。以来、ごく稀にチャンスを活かして食べてきたのだが、まさか異国の地でこんなバリエーションに出会えるとは。

「ふーん?」

 懐疑的な目を向けられてしまう。それも仕方がないか。日本人にもインスタントラーメン好きはたくさんいると思うけど、全員がそうというわけではないし。

「とにかくいっしょに食べよう」

「……まぁ、いいけど」

 他の料理の下拵えなんかを済ませて、出来上がるタイミングを計ってラーメンを茹でる。鍋はあまり大きくないので一食分だけ。二人で分けることになる。名前通り時間がかからないのがこの食材のいいところ。すぐに馴染みのあるスープの匂いが広がった。

「へぇ……」

 何か思うところがあるのか反応を示すサラ。

 しかし、ここからは時間の勝負だ。急ぎ鍋からシェラカップへと中身を移すと、地面に耐熱シートを敷いただけの、即席テーブルの上に夕食を並べていく。

 二人で向かい合って座ると、即座に両手を合わせた。ここまでずっといっしょにご飯を食べてきたので、サラももう何も言わない。マイペースに麺とスープをフォークで検分し始める。

 俺は俺で箸を持ったままスープを一口。ああ、懐かしい味だ。

 今日、食材として使用したのは買ったうちでも、もっとも見慣れたものに近い醤油味のやつ。味見のために他の食材は加えてないプレーンな一品。

 本当は、ネギくらいは入れたかった。マーケットにはそれらしいものもあるのだけれど、ネギそのものなのかわからなかったので今回はパス。とりあえずこのままでも美味くて良かった。

 麺をすするとサラが嫌がると思い、音をたてないように慎重につるつると口にしていく。……うーん。ちょっと日本のと風味が違うかな? どこが、というわけではないけど。

 基本的に硬水なこの国の水のせいか、はたまた旅行の途中という特殊な生活スタイルのせいで体調が変化しているのか。よくよく味わってみれば異なる部分もある気がする。でもまぁ、これくらいなら許容範囲。初めて見る物ばかりの旅も良いけれど、そんな中で出会うお馴染みというのもまた良いものだ。

「ほんとに好きなんだね……」

「思い出の味だからね」

 部活で友人といっしょに食べたのだという話をする。

「サラの口には合わない?」

 俺の話を聞いてばかりで一向にフォークが進まない様子を見て、訊いてみる。

 当たり前の話だけど、この食べ物が好きというのは俺の趣味であって万人に受け入れられる味というわけではない。苦手な人もいることだろう。

「ん、そんなことないよ」

 思い出したようにフォークでくるりと麺を巻き取る。

「あまり食べてないようだったから」

「味をしっかり見てたの。熱いとよくわからないから」

 ラーメンなんて、熱ければ熱いほど美味しいような気がするけど、サラはそう思わないらしい。ここにも文化の違いが。それとも個人的な好みかな。考えてみるとサラは猫舌な気がする。

「ご感想は?」

 頃合いを見計らって再度問いかけると、「……そんなに見られてると食べにくいんだけど」という答え。ごめんなさい。

「あえていうなら、味が強い、かな」

 ふむ?

「しょっぱかった?」

 ざっとではあるけど、ちゃんと分量を計ってお湯を沸かしたつもりだけど。

「それもだし、他の味も」

 他の味とは何だろう。塩以外だと醤油? 食べなれないから口に合わなかったとか。

「多分MSG」

 聞きなれない言葉が出てきたな……。

「何それ」

「MSGはMSGだよ。知らない?」

 寡聞にして知らない。料理とは相容れなさそうな用語にしか思えない。話を聞いてみると、ケミカルでありふれた物。味に関わる。嫌いな人も多い……。

 うーん、それって。

「旨味調味料?」

 正しく説明できたかはわからなかったけれど、ニュアンスは伝わったようだ。

「そんな感じ、かな」

 え、苦手な人が多いの?

「私は気にしないけど、小さい子がいるお母さんとかは病気になるよ、って言って子どもに食べさせなかったりする」

 ……言われてみれば日本でもそういうのあるかも。明言されたことはないけれど、我が家で出てこない理由も似た感じなのかもしれない。思ったよりうちはグローバルスタンダードなのか?

「お母さんはいつも『変な話』って言ってた。どんな栄養も摂り過ぎたらどうせ体に悪いのにって。塩でも水でも人は死ぬよ。食べ物の分量を間違えたらいけないの」

 なかなか合理主義のお母さんだったようだ。

「うまく使えば血圧とか塩の病気を減らすこともできるんだって」

 何か難しい話が始まってしまった。

「誰でも必要なだけご飯が食べられるわけじゃないんだから、食材は上手に使わないと駄目よって」

 この部分は得心が行く。二日目の朝に彼女がつくってくれたスパゲティとラザニアの合いの子みたいな料理が生まれたのはこのマインドからなのだろう。生活環境が十分ではない難民の人たちを間近で見てきたからこその意見なんだろうな……。

「でも、サラには美味しくなかったかな。ごめん」

 味が濃いという感想はそういうことなのだろう。俺の一存でごり押ししてしまった夕食なので申し訳なさはある。とりあえず今日に関して言えば一食を半分にしているのでそこまでの分量ではなかったのが救いか。

「美味しくないってことはないよ」

 そう思っていたのに、また微妙な答えが返ってくる。

「塩もMSGも多めだけど、使い方が上手だなって思う。ソイソース? ベースの味なんでしょう。でも私が知ってるのと全然違うもの。たくさんのものを凄くバランスを考えて入れて作った味なんだと思う。こういうのが好きな人、絶対いるよ」

 お?

「麺の油とか、茹でるときに出るものまで計算してるんだろうね。すごいと思う」

 ということは?

「……私は色々と味が強すぎると思うけど……」

 ですよねごめんなさい。

「これ、全部食べたら体に悪いよ。二人で分けて正解」

 うーんそうか。

「そういえば、日本の人はよくスープを残すね」

「は?」

 あまり深く考えたことがなかったけど、インスタントに限らず、ラーメンのスープを残す人はそれなりにいるのではないだろうか。あれはサラが言っていることと関係があるのでは。

「こういうのじゃない時間をかけてつくるラーメンもあるんだけど、お店ではそれを全部食べない」

「……レストランで出すってことは、これ以上に味に気を遣うんじゃないの?」

「そうだね。スープ一つに何時間もかけるのが普通なんだって」

 ラーメン屋がレストランかどうかはともかく、みんな気合を入れて作っていると思う。

「……わけがわからない」

 というのがサラの感想らしい。自分で言っていてもどこかおかしいという気はする。

「せっかく手間をかけてつくった料理を残されてシェフはそれでいいの?」

 残念ながら俺にはそれはわからない。日本中に隠された悲哀があるのかもしれない。

「……まぁいいよ。それはシェフの問題だから。私たちは私たちの話」

「俺たちの話?」

「まだいくつか残りがあるでしょ。だいたい味がわかったから。今度から私がつくる。スープを捨てるなんて絶対させない。水って大切だしゴミもだせないでしょ」

 残りの奴は今日のとは違う味、とは言えなかった。旅の途中で排水を出すなというのも正論すぎるし、サラの調理の腕も短い期間ではっきりわかっていたから。

「……よろしくお願いします」

「うん。いろいろ野菜とも合いそうだし、鶏肉の残りを使ってもいいかも。でも油が多すぎるかな……」

 さっそくレシピの考案に余念がない。

「ああ、そうだ、俺たちの話といえば」

「……どうしたの?」

 ちょっと、考え事の途中に邪魔をしてくれるな、という感じがする返事。でもこれ、大切な話だからさ。

「契約。サラを連れて行く場所はやっぱりリュブリャナがいいと思う」

「え……?」

「首都だし、ちゃんとスペイン大使館がある。関係ないかもしれないけど日本とハンガリーのも」

 ずっと考えていたことだった。

 彼女が巻き込まれた事件。真相はわからなくても、国境を超えるという当初の目的は果たした。ここから彼女を守るのは、信用することができなかったハンガリーではなくもう一つの祖国であるスペイン。そしてそこにいる父親だ。

「そこで――」

「うん。わかった」

 難解な内容を足りない語彙で正しく伝わるようにゆっくりと話す俺は、サラのシンプルな了承の言葉で遮られることになる。

「ちゃんとそこまで私を連れて行って。そうしたらお金は全部渡すから――」

 報酬の話をまったくせずにいようと思っていたわけじゃない。ここまで多少の出費はあったから、サラの持っていたお金から融通してもらいたい気持ちはあるけれど、絶対じゃない。だいたいサラは、たまに自分のお金で食材を買っているのだから、そちらだって精算してみないことには必要な額がわからないのだ。……ん? 全部?

「決まりね。ところで、私はヌードルの感想を伝えたんだからタイチもちゃんと料理の感想を教えてよね」

 もっと詳しいこと。それなりに真剣に考えていた到着後の計画を話す前に話題が移ってしまう。しかし、彼女の言いようももっともだ。

 せっかくつくってもらった料理にまともに手をつけずにラーメンの話をしているのは失礼だろう。……国境を越えたから、はいすぐ次の話、という考えは間違いだったかもしれない。

 サラにはサラの感傷がある。朝からだいぶ雰囲気が和らいだなという俺の判断は時期尚早か。もう少し頃合いを見てから詳しい話をしよう。

 ごめんごめんと謝りながら口にしたチキンパプリカシュは、これまで食べたキャンプ料理の中でも絶品の出来だった。

 素直にそう伝えてみたけれど、どこか浮かない様子に見えるサラの表情が晴れることはなかった。

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