第2章 世界の果ての宝石箱
第9話
記念すべき走り出し初日。三千キロ以上に及ぶであろう旅の最初の一歩は、他の点に関していえば順調に始まったと言えなくもない。
同行者がいることで起きそうな問題もなく、もう数時間走ることができている。荷物満載の俺は時速十キロも出ないペースだけれど、長く自転車に乗ることに慣れていないサラには無理がなくて良い速さだったのかもしれない。
彼女が持っている大きなバッグは、実のところその中身のほとんどは毛布だ。例によって貴重品は別に身に着けているので、俺が持っていた細引きでキャリアに縛りつけてある。これも良かった。荷物というのはただ持ち上げるだけで人を疲労させる。自転車で移動するならば背負うよりも自転車に固定するほうがずっと楽。特に低い位置ならよりよい。
そんな走行にかかる負荷の違いが、自転車に慣れた俺とそうでもない彼女の間の溝をうまく埋めてくれたのだろう。むしろ、疲労という一点について言えば先に俺の方がへばる可能性も高いくらいだ。
それでも、早朝に出発した俺たちは夕方になる前に五十キロメートルを走破していた。
「あと三十分くらいでヴァレンツァの街中に入るはず。今日はそこがゴールだ」
「……まだ走れるよ?」
何度目かの休憩でした提案に、疑問の声があがった。日焼けか運動のせいか頬が紅潮している以外にサラに不調はなく、余裕があるというのは本当だろう。
今日一日で走った距離は初心者ならなかなかのものだ。もしかしたら彼女には才能があるのかもしれない。しっかりしたつくりの自転車が良かったというのもある。俺の持っている整備用品で調整すると、はかったように彼女の体にあうポジションを出すことができた。
けれど、ここで無理はできない。
「ハンガリーを出るためにはまだまだ走らなくちゃいけない。無理して疲れが溜まったら結果的に遅くなるんだ。だから今日はここまで」
「わかった……」
気がはやるのか多少不満はあるようだけれど、俺の発言が嘘ではないということは理解してもらえたようだ。とにかく、一日目の走行はうまくいった。
あとはしめくくりの難関をなんとかしなければいけない。すなわち、宿泊地の確保である。
当然のことながらサラは未成年の女の子で、俺は(この国で)ぎりぎりお酒が飲める年の男である。髪の色どころか国籍まで違う年齢に差がある男女。どう見ても親子でも兄弟でもない。
ツイン、あるいはダブルで部屋をとろうものなら一瞬で警察に連絡がいくことだろう。俺がホテルの経営者ならそうする。
例えば、二人別々にチェックインすればどうか。
俺はまぁ、問題はない。当初からキャンプ以外ではそうして旅をするつもりだった。でも、サラは無理だ。どう見ても家出少女にしか見えないし、それが事実なのでやっぱり警察沙汰。
かといって、自転車に慣れないうちから野宿を繰り返したくない。特に、ヴァレンツァはちょっとした観光地ではあっても、探してみてもあまり良いキャンプスポットがないのである。この状況で選べる手段は……。
コココン、コン。短い期間に鋭く三回のノック、一拍おいてもう一回。あまり大きな音ではなかったけれど、耳を澄ましていた俺はそれを聞き逃さなかった。取り決めてあった合図だ。
速やかに入口へ行くとすぐにドアをあけた。予定通りそこにいたのはサラ。目線で室内へ誘うと、声もなく中へ。
「誰もいなかった?」
「うん、かなりしっかり人がいないのは調べたから大丈夫」
ドアを施錠して完了。とりあえずこれで安心だろう。
ここはヴァレンツァ郊外にあるコンドミニアム。いわゆるアパート的な宿泊施設である。
中心地から外れるせいか価格もそう高くなくキッチン付き。バカンスの始まるハイシーズンにはまだ早い平日なので他の部屋が埋まっている様子もない。本来は観光地に長期滞在する人が借りるものなのだと思うけれど、一泊でも問題なくチェックインすることができた。
このタイプの宿の強みはいくつかあって、その中で今回の旅に都合が良かったのはフロントが部屋から遠いことだった。そもそも宿泊する建屋と管理棟が別になっている。長期滞在者を前提にしているために、出入りをそこまで念入りに確認しない。共同の駐車場から物置まであるので自転車旅にも向いている。
つまり、とりあえず俺さえチェックインしてしまえば、そこに誰かが寄ろうととやかく言われにくい構造なのだ。さすがに複数部屋があるようなタイプまでは借りることができなかったけれど……。とにかく今日のところは屋根の下で眠れることを喜ぶべきだと思おう。
幸い寝袋もマットも、なんなら空気で膨らませる枕だってある。ベッドはサラに譲って俺は廊下の床で十分だ。明日も早朝に出発だし、時間差で部屋を出て落ち合えば良い。チェックアウトは鍵を箱に入れるだけだし。
「いい部屋……」
入念なチェックアウトの計画を考える俺をよそに、純粋に部屋を検分しているサラ。
何日かぶりのまともな宿に感動しているらしい。
無理もない。ここ数日は警察の用意した施設、転がり込んだテントとろくな場所で寝ていない。
早速背負っていた荷物をベッドスローの上に降ろすと部屋の中のチェックに入る。
トイレ、キッチン、シャワールーム。俺の知る日本のビジネスホテルよりかなり広い。ただし、バスタブはなし。値段を考えれば格安、二人分で計算すればかなりのコストパフォーマンスと言っていいだろう。ズルだけど……。
「ちゃんとストーブも三つあるし、お鍋やお皿もたくさん。良かった」
特にキッチン周りが気になるようで、棚を開けては小さく歓声をあげている。
「ちょっと早いけど、お夕飯の準備、始めてもいいよね」
と早速使ってみる気満々で、チェックイン前にヴァレンツァの中心街で購入してあった食材をあさっている。
当初、食事は俺が用意するという契約だったのだけれど、本人の希望で調整が入ることになった。結果は見ての通り。俺の責任が減る以上、報酬の見直しも必要そう。
ただ、会話の端々から彼女は料理が好きなんだろうなということはわかっていた。朝食のラザニア風もシンプルながらなかなかのお味だったし。買い物のときも率先して食材をカゴに放り込んでいたので、現地の事情に明るくない俺よりも適正があるのは間違いないだろう。
とはいえ購入品は馴染みのあるものが多かった。ジャガイモとか豚肉とか。今日は調理環境が充実していて、一晩とは言え冷蔵庫も使えるため、生鮮食品を買い足した感じ。そうそう、一つ見慣れないものがあるなと思ったのはスパイス。しかも真っ赤な粉。最初は唐辛子かと思ったのだけれど、サラが言うにはどうやら乾燥させたパプリカの粉末らしい。この国ではとてもポピュラーな食材だそうで、たくさん置いてあったし価格もほどほど。興味深い。
あまりにも赤いので辛いやつかと思ったと、そう伝えたところ。「辛いのもあるよ」という返事が返ってきて混乱したりもした。後で調べてみたところ、そもそもパプリカ自体がピーマンと同様に唐辛子の甘味種のことだった。ピーマン(pimiento)ってペッパーのことだもんな。スペイン語の謎が一つ、こんなところで解けたりもした。つまり、今日買ったのはあんまり辛くない唐辛子粉。どんなハンガリー料理になるのか楽しみだ。
旅の途中でちゃんとした宿に泊まるとき、まずやらなければいけないのは洗濯だったりする。キャンプなんかではふんだんに水が使えるとは限らないし、排水の問題もある。さっさと今のうちに済ませるのが手だと思うんだけど……。
「サラ」
「なあに?」
鼻歌混じりに食材を並べているところに声をかける。
「その、洗濯のことなんだけど……」
彼女の荷物には少しだけれど着替えも入っているということは確認してあった。問題は俺のものといっしょに洗濯していいか、だ。手洗いをするならエチケット上別々にするべきだろうけど、幸か不幸かここには洗濯機がある。まとめて洗う方が楽と言えば楽なのだ。
「ああ、ランドリーマシンあったね。シャワーを浴びたら着替えちゃうから、使うのはちょっと待って」
……どうやら俺が心配するようなことは気にしていないらしい。無防備な意見に「わかった」とだけ返事をして荷物の整理を行うことにした。せめて洗濯ネットを使って分けられるようにしておこう……。
棚の上にはWiFiのパスワードが書かれたカードが置いてあってネット接続ができるようになっていた。早速接続してからこれまで撮った写真や移動してきた経路をアップロードし、ちょっとした所感を書き込む。家族にも近況を連絡するかどうか考えたところで、何を書けば良いのかわからなくなってしまった。
口が裂けても「家出少女の国外逃亡を手伝っています」とは言えない。結局、無事に旅を始めることができましたとメッセージを送るに留めることになった。大嘘だけど……。
きりがついたところでキッチンへ向かうと、調理は大詰めになっているようだった。フライパンの上で豚肉が焼けるなんともいえない香ばしい匂いがする。どう考えても美味しいやつ。
「こっち、洗っておくよ」
シンクにバットやボウルが重ねて置いてあったので先に片付けておくことにする。それなりに運動して、お腹が満たされたら眠くなる。これは絶対の摂理だ。洗い物がたくさん残っていたら、今の百倍面倒に感じるはずなので少しでも減らしておきたい。
「助かる。それと、もうすぐできるからお皿の準備もお願い」
言われるままに、棚の中から大きめのプレートを二人分取り出し、さっと水洗いしてから拭いていると、じき料理が完成と相成った。
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