第6話

「――来週、私の誕生日」

 ぽつり、とサラが呟いたのは、二人で夜の道を歩いていたときのことだった。

 あれから。俺は彼女が落ち着くまで待つつもりだったけれど、どうにもうまくいかない。

 サラが涙を流しながら歩き出してしまったからだ。かける声もなく自転車を押して追いかけた。その道中。

「?」

 スペイン語で続きを促す言葉を知らない。さすがに「Enserio(本当に)?」というわけにもいかないだろう。だから相手の顔を見ることで伝えようとしたけれど、向こうはこっちを見ていなかったので、どれだけ意味があったのかはわからない。

 いまだにこの子の頬は涙に濡れていて痛々しい。ただ、ひと時のようにとめどなく流れ出るという感じではなくなっていたから、ほんのわずかでも落ち着いたのかもしれない。

「自転車が欲しいって言ったのは私。車があるお母さんはずるい。私も自分でどこにでも行けるようになりたいって」

 こんなときだけれど、共感を覚える言葉だった。誇張を含む「どこにでも」という表現は厳然たる事実で、だから今、俺は地球の裏側にいる。初めて一人で自転車に乗れるようになったときに感じる全能感は、突き詰めれば大人になっても続くものなのだ。俺にとって自由の翼となった希望は今、彼女を鎖でがんじがらめにしている。

 会えなくなる相手にわがままを言って別れてしまったという後悔。悲嘆で憔悴しきった彼女に、これ以上の負担はまずい。

 バースデーカードの記載から、この自転車がサラへのプレゼントとして用意されたであろうことは推測できていた。だから多少迷い、それでも誰の許可も得ずに現地から持ちだして来たのだ。もっと、ずっと後にいろんなことが落ち着いてから受け取ることができれば良かった。

 でも、人はいつもベストを選べるわけじゃない。

 すぐとなりで灰になってしまった家。鍵の壊されたガレージ。少しでも何かがずれれば二度と日の目を見ることはない。機会を逃すべきではない。そんな判断だった。

 間違っても、後悔を促したかったわけじゃない。

「あんなこと、言わなきゃ良かった。もっと良い子で、お母さんの娘に相応しい私でいなきゃいけなかったのにっ!」

「……それは違うよ」

「え?」

 下とも前とも言えない方向を茫洋と追っていた目線が、やっとこちらを向く。ああ、疑問はこう返せばいいのか……。

「別のことを言っていても君のお母さんはプレゼントを用意していた。違う?」

「…………」

 肯定なのか、どうでもいいのかわからない沈黙をよそに、俺は続ける。

「これは、君のお母さんの願いの結果だ。伝えたい、届けたいという願い。自転車じゃなかったかもしれないけど、どんなことがあっても、君の誕生日を祝うっていう気持ちが形になったもの。お母さんの意志そのもの。形は大切じゃない。届いたことが大切なんだ」

 日本語でもうまく言葉にできるかわからないことを、必死に知っている表現を組み合わせて文章にする。あれだけ勉強したのに、もっとやっておけば良かったと思う。

「ただ、それは君がお母さんのことを見ていたからだ」

「私が?」

「辛くても諦めずに、ガレージのことを確かめたいと願って、行動したから届いた」

「ぁ……」

「二人が願ったから、その自転車はここにある」

 火事場泥棒までやらかしたのだ。俺だって、このプレゼントを意味のあるものにしたい。葛藤の結果に選んだことが正解であって欲しいと思う。

「……へんな言い方」

 返事は予想外のものだった。どうやら俺がむりやり紡いだ言葉は、どこかで致命的に単語か構文を間違っていたらしい。恰好がつかない話だった。

「……でも、ありがとう」


 旅先で日本語が通じないときに必要なのはジェスチャーと、もう一つ大切なものがあるのだと叔父は言っていた。

 恥を恐れないこと。

 『旅の恥はかき捨て』という言葉は、どこか遠くなら現地の人に迷惑をかけても良いという意味ではない。相手に笑われようと、伝えようとすることを諦めないことなのだという。

 それは勇気の裏返しなんだよ、と言われた意味が今ならわかる。

 絶望とは見失うこと。定まらない瞳でいたサラのことを見ていて思う。

 近くに誰かがいることがわからなくなったとき、人は闇に閉ざされる。そうなるともう俯いていることしかできない。

 俺の恥は、ささやかな勇気は、彼女の目線を捉えた。

 感謝の言葉は相手をみていなければ出てこないものだから。

 なら、俺は明かりを灯すことに成功したのだろう。

 たとえそれが小さな蝋燭の火だとしても、闇ではないということに意味があるのだと、そう思いたかった。

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