第4話

 彼女の母という人物はこのブダペストの地で難民支援を行う団体に所属していたらしい。

 ハンガリーに限らず、ヨーロッパではもう長い間、各地から集まってくる避難民にどう向き合うかが課題であり続けている。人道上無視するわけにはいかないけれど、他国に内政干渉することもできない。変に優遇すれば自国内で反感をうむ。対応のひとつひとつに時間をかけた慎重な協議が求められるのに、世界の情勢は目まぐるしく移り変わっていく。

 結果的に宙ぶらりんになることになった当事者たちは、適切な環境で医療や教育を受けることができず、かといって不安定な情勢の自国に帰ることもできず、日々の生活に苦労している。

 そんな問題を少しでも改善しよう、という考えの元に活動している人は少なくはない。この子は、そんな活動を身近に生活してきたようだった。

 避難してきた人たちはただ普通に暮らしたい。けれど、正しく身元を証明する機関は遠く異国の地。一般的な意味での就労はかなり難しい。そんな中で手軽に高額の報酬を得る方法がある、と言われれば飛びつく人ももちろんいる。当然、そんな話のうち多くは法的に問題があるもので、支援団体にせよ、この国の警察にせよ強い意志の元に排除を心がけている。そのはずだった。どうやら、彼女の母親は大規模な汚職の決定的な証拠を見つけたらしい。

 らしい、というのは俺が知らない単語が多く、説明を正しく理解できているとは限らないため、こういう言い方になる。とにかく、国外からの移民や難民を利用した違法薬物売買に、警察や政治に関わる人間が大規模に関わっているという事実が判明した。

 当初、このことを知った支援団体の人たちは、事実を告発するために準備をしていたらしい。けれど、とん挫した。理由としては、想像以上に関与している警察関係者が多かったこと。そして、味方だったはずの団体の中にすら、売買で利益を得ていた者がいたため。

 仲間のひとりが行方不明になった。警察はこの人物を薬物売買に関わっていたと断定。所属している団体を『国外からの流入者を利用した違法薬物カルテルへの協力』容疑で捜査を始める。

 告発のために用意していた資料は押収され、逆に自分たちが悪人として処断される側になった。不服を申し立てた他の者も逮捕され、拘禁の後に死亡。警察はこの死を自殺と説明した。抗議しても「薬物に関わる捜査ではよくあること」だと取り合わない。

 関係者はただただ恐怖した。正義が暴力によって塗り替えられていく。元々多くなかった事情を知る人たちはだいたい貝のように口を閉じることを選んだ。

 ただし、全員ではない。この段階で身の危険を感じた母親は娘を信用できる人物の元に預け、単身、真実を白日の元に晒す戦いに身を投じた。

 そして運命の日がやってきた。

 母親が交通事故に遭ったという噂。サラが預けられたのは難民キャンプの中の一夫妻。正確な通知はなく、ただ母親の車らしきものが燃えているという話だけが人づてに伝わってきた。

 信じられない、信じたくない。脳裏に浮かぶ最悪の状況を必死で振り払いながら現場へ向かったが、事故車は撤去された後だった。ただ、生々しい焼け跡だけが普通の事故ではなかったという事実を伝えてくる。事故に遭ったのは母だとは限らない。詳細が不明であるというただ一点にだけ縋って現場検証をしていた警官に問いかけた。

 彼らはとても優しかった。混乱し、要領を得ない言葉を口走る自分に根気強く向かい合い、事故死した人物の家族である可能性がある、という言葉に強く同情した。事情聴取を行うために連れていかれた署内でも、ずっとベテランらしき女性の署員が温かい飲み物を出して励ましてくれた。

 しかし、あるときを境に彼ら、彼女らは顔を見せなくなった。ちょうど、事故を起こした車が母の物であると判明してから。

 代わりに制服ではなくスーツを着た二人組が聴取を行うようになる。今まで心からの配慮が感じられたそれは、ただただ事務的なものに。表向きは優しいことを言っているようでも、どこかで粗を探して嘘をついていないか確認しているように感じられた。一日経ち、二日経ち。逮捕されたわけでもないのに保護者不在という理由で家に帰らせてももらえない。居心地の悪い施設をあてがわれて寝起きし、朝には取調室へ連れて行かれる。

 帰りたいと願っても匿ってくれた人達は難民であるという理由で里親候補にもならないということは理解していた。救いは最初に担当した女性が彼らに自分が保護されている事実を伝えてくれたという言葉だけ。

 そうして迎えてしまった三日目。双方が意義を認めなくなりつつあった無為な聴取が終わり、味気ない食事が出された。食欲のなかった少女はこれを早めに切り上げ、手洗いを理由に部屋を出る。ただ一人になれる場所へ行きたいという本心に従い、人の気配がない方へと向かった。その先。

 偶然というにもありえないことだったのだと思う。とにかくこのとき、運命のいたずらは、そこまで残酷になれるのかというほどの切り口を見せた。具体的に言うならば、本来知ることになるはずなんてない言葉を彼女の耳まで届けてしまった。誰も居ないと思っていた場所から、ここ最近耳にしたばかりの声がする。

 「……粗方処分したんだろう。車も家も……」というスーツの男たちの会話。嫌な予感がした。

 とぎれとぎれに聞こえる「難民が何を言っても証拠能力はない」、「全て薬物中毒者の凶行……」という不穏な言葉たちが無情に刺さる。母の死が明白になり、これ以上の絶望はないと、そう思っていた心が打ち据えられていく。ここにいてはいけないと直感的に思った。

 そうして彼女は警察署から逃げ出した。

 まず家へと向かった。長く離れていた我が家。戻っても何かが解決するというわけではない。けれど、今となっては母との縁が残っている場所はそこしかない。スーツの男たちの言葉で、処分したと言われていたのも気になる。

 走って走ってたどり着いた場所に自分の居場所はなかった。文字通り。信じられない気持ちで家『だった』場所を眺める。黒く、黒く心へ差した影のように、そこにあるのに現実感のない燃えあと。母とともに過ごした時間も思い出も、焼け落ちて一切が灰になっていた。

 時間が経って熱や火は残っていない。ただただ拭えない泥のように重たい炭の臭いだけが、視界にあるものを現実であると無理やり伝えてくる。

 気分が悪くなり思わずうずくまって吐いた。そこに「大丈夫?」と声をかけてくる者。火事の現場検証をしていたらしき警察官。

 もううんざりだ。この人が『良い警察』なのかどうかなんてどうでもいい。金輪際関わりたくない。そんな気持ちで震える脚に鞭を打ってまた走る。自分にとって行先と言える場所はもうほとんど残っていない。何も考えずにたださ迷った後にたどり着いたのは、母が死ぬ直前まで面倒を見てくれていた夫婦の仮家。

 彼らは日中、就職活動のために家を空けている。案の定、そこには誰もいなくて、けれどその方が都合が良いと思った。ここにいれば迷惑をかける。もう他の場所が焼けあとになるのを見るのは絶対に嫌だ。その気持ち一心でカバンに私物を詰め込んで書置きを残して家を出てきた。大きな荷物を背負った彼女は傍からみれば家出少女そのもので、目につく。職務質問のリスクをさけて移動するうちに俺のテントへと逃げ込むことになった。


――長い、長い話だった。

 俺の語学力では要領を得ない部分が多く、彼女は繰り返し言い方を変えて説明した。話の途中でキャンプ場の警察官らしき二人はいなくなってしまい、テントを出る。

 ここで切り上げても良かったはずだと今になって思う。隠れるというサラの目的は果たせたわけだから。けれど、そうはならなかった。ランタンを点け、スマホの辞書で翻訳しながら聞いた。一度始まった話は堰を切ったように続き、止まらない。ずっと彼女は誰かに聞いて欲しかったんじゃないかと思う。

 ただただ苦しく続く、絶望の上塗りと一人で向かい合うことが怖かった。こんな見ず知らずの外国人に、親しい人にも話せないようなことを洗いざらい伝えるほどに。

 逆を言えば、完全に巻き込まれたことになるのだけれど、それを指摘する気力すらなかった。恐ろしい体験を抑揚のない声で、あるいは感情が抜け落ちてしまったような表情で語るこの子の迫力に気圧されていたのかもしれない。

 一方でLEDランタンの頼りない光に照らされる彼女の目じりは赤く腫れており、ずっと泣き続けていたのだということは間違いない。そんなちぐはぐな様子はぞっとするほどアンバランスで、絶対にこのままにしておいて良いとは思えなかった。

「……これからどうするの?」

 器から溢れて零れ落ちるように続いていた話は、やがてとぎれとぎれになっていつの間にか沈黙へと変わっていた。その頃合いを見計らって質問する。

 本当は凄く迷った。このことを訊くべきかどうか。これ以上踏み込むことに意味があるのかどうか。

 例えば、助言を求められたところで俺にできることはない。普通、当たり前にとるべき『警察へ行く』『親へ相談する』ということが彼女にはできない。他に信頼できる人がいても巻き込めない。四方を壁に囲まれて進む方向を見失っている。そんな相手にはあまりにも残酷な訊き方。

――でも、ただ黙って見過ごすという選択をすることが出来なかった。

「…………」

 答えなんてないことはわかりきっている。それでも酷いことを訊いたのはたった一つ、次の言葉を伝えるため。たいして良くない頭をフル回転させて導き出した一言。

 日本語ですら正しく伝えられる自信がない。ましてや慣れない外国語だ。少しでもシンプルに、間違って受け取られないように文章をつくる。

「……俺に何かできることはある?」


――少女は伏せていた目を見開いてこちらに向けた。


 何ができるかなんて知らない。彼女は行先を見失った。それだけが事実だ。

 大切な人を失い、裏切られ、誰かを頼ることすら恐れている。

 俺は無力で、無関係で、異邦人。無責任で無駄なことしかできない。

 ただ、無意味でないたった一つの選択がある。

 寄り添うこと。

 問題を解決しない。場合によっては悪化させる。

 けれど、サラにとって一番必要なことだと思ったからこそ選ぶ。

 その先に道はなく、切り立った崖に続いているとしても一歩目を踏み出すことができないより良いと、身勝手に判断して決めた。

 いつか彼女が走り、飛び立てる可能性にかけて。自らを囲む壁を乗り越えられるように。崖の先へと進めるように。

 今このときは心に熱が、温かさが必要なのだとそう思うから。

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