30話 君に光を

 先導する狼の白い毛並みが石段を駆け上がる四肢に対応して揺れる。確かな重さが乗るその足音を追う白いヒール。

 息を切らしながらキャンディッドは華奢な脚で二段飛ばしに跳ねてゆく。

 気が遠くなるほど遮二無二走ったその果てようやく階段が終わり、一人と一匹の目の前に錆びた鉄の扉が現れた。


「ビアンカ、そこにいるの」


 その向こうにいる少女に呼びかけながらキャンディッドはドアノブに手をかけた。鍵の類がかかっていないことを確認すると、躊躇なく開け放つ。

 鉄の匂いのする風が吹き抜けた。目に飛び込む赤い絨毯とレンガで囲まれた物一つない殺風景な部屋。天窓から射す星明りが、その中心の足を鎖でつながれ膝を抱え座っている赤い髪に赤い服の少女を闇の中から浮かび上がらせている。

 それがずっと探していた少女、ビアンカ・シルヴェスタであることは再度考えるまでもない。

 物音に体を強張らせ、怯えている様子が見て取れたので、キャンディッドはできうる限りの優しい声で、静かな足音で少女のそばに歩みを進める。


「もう大丈夫。あの人は私たちが討ち倒しました」

「でも、だめなの」


 色のない声が胸に重くのしかかった。ゆったりとした歩みが見えないものの力を受けて半強制的に止まる。

 踏みしめた足元に水音が鳴り響いた。


「あたし……ヒュドラと約束したのに誰一人救えなかった。目の前でみんないなくなってしまったの」


 恐る恐るそこに目をやる。

 考えた通りの酷い光景が作り物のように美しい顔を歪ませ、キャンディッドは反射的に退く。


「あの女に傷一つ付けられなかった……みんなきっとあたしを恨んでる。助けてほしかったのにどうしてって言ってるわ」

「やめなさい」


 何とか絞り出したその声は僅かに震えていたけれど、背筋を走る悪寒と強張る体を悟らせぬようにキャンディッドは呼吸を整えて、また撫でるような声音で語り掛ける。


「あなたはよく立ち向かった。もういいの。誰もあなたを責めたりしない。

 おじいさんが待ってる……ビアンカ、帰りましょう」


 白のヒールは赤の水溜りを飛び越え、気高き姫君は自責の念に駆られる少女の目の前に膝をつき手を差し出した。

 ようやくビアンカは反応を示し、ゆっくりと顔を上げる。だが、露になった16の少女の顔には涙の痕がべったりと張りつき、差し出された手を見ても力無く微笑を浮かべるだけだった。


「ねぇ…………あたしの服、赤く見えるでしょ」


 染め上げられた真紅の服に目が行き、心臓が痛いほどに音を立てる。聡いキャンディッドはビアンカの言葉の意味を瞬時に悟った。

 紫の瞳がとうとう動揺を隠せず揺れ、声にならない声が薄い唇から零れ落ちる。


「あたし……あの子を救えなかった。だから当然のことなの。おじいちゃんには……もう会えないよ」

「…………やめて。そんなこと言わないで。あなたは」


 震えた声でポツポツと呟くキャンディッドにビアンカは徐に被りを振って彼女の言葉を拒絶した。


「………あたしはもう、前みたいに暮らせない。もう戻れない。こんなに、汚くなった」


 触らずに救いの手をやんわりと押し戻すと、ビアンカは立ち上がり鎖を引きずって天窓の光が届かない部屋の奥へと歩き出す。

 暗い闇の中、しかしキャンディッドの目にははっきりと見えた。振り返ったビアンカの精一杯の笑顔が。


「あの女をやっつけてくれてありがとうお姉さん。助けに来てくれて嬉しかった」

「まって」


 瞬間、白狼が吠えキャンディッドの前に躍り出ると同時に眼前から刺すような眩い光が飛び込んできてたまらずギュッと目を閉じる。部屋の外へ連れ出される彼女は薄く瞳を開けて絶句した。

 赤黒い光の中心は天窓を仰いで佇むビアンカだった。


「……何をしてるの」


 痛みを感じるほどの冷たい風が断末魔のような音を伴い部屋中に吹きすさぶ。絨毯を巻き上げ、鎖を引きちぎり、その次は、扉のそばまで来ていた一人と一匹を取り囲み再度部屋の中へ引きずり込む。逃げようとしても逃げられない、瞳に映るのは赤と黒だけ、鼓膜を震わせる絶命の声。かつてここで起こった悲劇の当事者になったかのような感覚に陥り、キャンディッドは悲鳴に近い声をあげた。


「だめよ。待って。ビアンカ……やめてビアンカ!」


 風が揺らいだその一瞬の隙に白狼は体勢を整えキャンディッドに体当たりし、共に部屋の外へ出ることに成功した。

 鉄の扉は勢い良く閉ざされ、鍵のかかった音がこの場に響く。

 僅かに漏れ出る風に乗ってビアンカの声がした。


「もうこっちへ来ちゃだめだよお姉さん。きれいなドレスが汚れちゃう。振り向かずにあったかいお家へ帰って。急いでね。もうすぐこのお城は壊れちゃうから」


 浅い呼吸を繰り返し、視線を落とした先に映るのは、白いドレスに点々とこびりついた赤。


「私は…………私には」

「お願い。お姉さん急いで帰って。そしておじいちゃんに伝えて。あたしはおじいちゃんがくれた白いワンピースを着てたよって」

「…………っ」


 風が止んだ。もう一度踏み出した右足を引っ込め、かと言ってここを立ち去ることもできずにキャンディッドは膝からくずれ落ちた。白狼が背後に向かって鳴いたその時、遅れてたどり着くエスティーはもう何が起こっているのか悟っている。

 へたり込むキャンディッドの横をすり抜け、骨ばった大きな手をドアノブにかけた。力づくで鍵を壊そうとするその手に部屋の内側から這い出してきたねっとりとしている黒いものが絡みつく。バチバチと焦げるような音がして、キャンディッドは瞬時に立ち上がりエスティーを扉から遠ざけた。


「だめです……っ!触れたらエスティーまで!」」

「そんなことわかってる!けど俺は止めねぇといけないんだよ!」


 エスティーは制止を振り切りまたそばに近づいた。


「ビアンカ!もう大丈夫だ!」


 そう声をかけると懐からあの短剣を取り出し、瞳を閉じて銀の風を纏う。

 ビアンカがどうして呪いを使ったのか知らず、自分の身の安全など考えもせず、この扉の向こうへ行くつもりなのだ。

 何度考えても、もしもの2つの未来の行く先に光などない。

 キャンディッドはふっと息を吐きだし、胸元からアコーニトの赤石を取り出す。そして、エスティーの手から無理やり短剣を攫いこう告げた。


「エスティー、城外へ出てください」

「は……何言ってんだ」

「私は彼女にエリザベスという脅威を無力化した事を伝えました。ですが彼女は呪いを使ったんです。この意味がわかりますか」


 彼女は自ら命を絶つ事を選んだのだ。そうわかってもエスティーの表情は動かなかった。むしろ、ルビーのような赤の瞳は奥底の激しい感情をふつふつと滾らせギラギラと輝く。

 そんな彼を見つめる紫の瞳は輝きから顔を背け、短剣を後ろに放り投げた。そうしてうつむいたままエスティーを追い抜かしていく。


「この城にはまだ無関係な令嬢達もいます。呪いを食い止めるしかありません」

「やめろキャンディッド」


 あえかな右肩を強い力で引き止める。キャンディッドは肩越しに一瞥した。


「まだ方法はある筈だ。だからそれだけはやめろ」


 純粋だけで紡がれたその言葉にキャンディッドは何を思ったのだろう。彼女は瞳を閉じて前を向き、赤石に手を翳す。刹那、その手をエスティーの眼前へと向けた。避けるのが遅れ、苦しそうな呻き声があがる。それは、あの夜と同じ戒めの魔法だった。動くのもままならない痛みの中、エスティーはまだ折れない。鋭い光を宿した瞳が薄く開かれキャンディッドを睨む。彼女はただ困ったような微笑を浮かべた。


「あなたは誰かの命を奪うことができないでしょう。だから…………」


 次の瞬間、エスティーは突き飛ばされた。まだ頭痛の残る体は言うことを聞かず、体勢を立て直す術が無い。体が傾く中、踵返すキャンディッドの背に手を伸ばし続けた。


「やめろ」


 その言葉の後、ドサッと倒れる音がした。けれど、白狼が先回りしてエスティーを受け止めたので大きな傷はできていないだろう。そこまで計算済みのキャンディッドは振り返ることなく扉を見つめていた。

 両の手でネックレスを包み込むと指と指の間から血潮のような赤があふれ出す。

 光の中、目を固く閉じたその時、彼女の唇がわずかに動く。

 何かを言い終えた。その時だった。


 カチ…………


 時計の針が動く音がして世界がセピア色に染まる。

 この場も、赤い光も、再び立ち上がるエスティーも、全てが動きを止め、キャンディッドは訳も分からずただあたりを見渡した。


「どうして彼を信じてあげないの」


 背後から聞こえたその声に弾かれた様に振り返った。

 深く響く男の低い声、誰の物かはわかっていた。恐らく世界がセピア色になったその時から。


「帰してあげようよ」


 黒糸鍔の三角帽子を目深にかぶった藍のローブの魔法使いは、魅惑的な笑みを浮かべながらそう言って、彼女の石を包み込んだ。

 忽ち赤の光は青の光に変わり波紋のように広がってゆく。

 世界がまた色づく…………


「ゼノ!どうしてお前が、城に近づけないんじゃ…………」


 突然現れたその人、ゼノに驚きつつエスティーはそう問いかけた。


「エスティーが魔法を使ってくれたからね。少しの間だけだけど僕はここにいる事ができる」

「じゃあ何か方法は無いか。ビアンカが呪いを……」

「うん、大丈夫だよ。みんなで力を合わせればね」


 エスティーを落ち着かせるようにいつもよりゆっくり言って、ゼノはキャンディッドとエスティー、そして短剣を拾って戻ってきた白狼を背にしてペンデュラムを天に翳した。


「≪プルガトリオ・アルカヌム≫」


 呪文を合図に形成された水色の球体が三人と一匹を囲ったのと同時に、固く閉ざされていた扉がギィと音をたてて開け放たれる。部屋の中は一点の光もない漆黒……右も左も天と地もわからぬ闇の世界を突き進んでいると、ある場所にたどり着いた時、突然球体の表面に稲妻が絡みついて、ゼノは一二歩後ずさる。これ以上の接近が難しいことを悟ると、ゼノはエスティー達の方を振り返って


「ここで起こることは僕達だけの秘密……勿論君も他言無用だよ」


 わかっているとでも言うように白狼は元気に返事をして傍らに進み出で、咥えていた短剣を渡す。それをローブで拭いながら刀身の古代文字を見るなり、ゼノは不敵な笑みを浮かべ、エスティーの手に柄を握らせた。


「エスティーはあの中からビアンカを連れて来て。彼女の集中が少しでも揺らげば僕の魔法が呪いを上書きできるはず……ぜーんぶ無かったことにするよ。何もかもを元通りにするんだ」

「そうか、お前にしか使えない魔法ならば可能なことだな」

「でもゼノ、だめです。あれに触れたら」


 先ほど二人と一匹はこの黒い流体が何かを焦がす力を有しているのを目撃している。そこに行けと指示したゼノをキャンディッドは間髪入れずに咎めた。だが、ゼノはそう言われることをわかっていたかのように何度か頷くだけ。


「大丈夫エスティーは平気だよ。僕が保証する。そのでね。行ける?エスティー」


 説明されても理解できないキャンディッドはまだ不服そうな表情をしていたが、真っ直ぐな藍の視線が見据える、強く逞しい騎士は期待を裏切らない。


「……必ず連れてくる」


 そうとだけ言い残しエスティーは身一つで球体結界の外側へと溶けるように消えてしまった。広い背中を見送り、ゼノはキャンディッドへ向き直る。


「さぁキャンディッド手を繋いで。ジェーン様の力を少しだけ僕に頂戴」


 今度は自ら差し出した手が、ゼノのひんやりした掌に包まれる。すると、赤石がまた光を放つ。網膜に焼き付くようなあの赤色ではなく、夕暮れ時のような優しい光は蛍のように瞬いて、ゼノのペンデュラムから迸る青い光と結合し、壮美な紫色の光と成って球体の中を満たす。


「こんな大掛かりな魔法、生まれて初めて使うんだ。ちょっと緊張してる。なんて、こんなこと言ってる場合じゃないよね…………ここまで連れて来てくれた彼に僕も応えたい」


 笑みは次の瞬間、真剣な表情に変わり、閉じて見開かれた両目、その左からは夜空のように蒼い光と月のような黄の光が放たれた。


「しっかり見てて。彼の姿を、瞳を、光を灯す熱い心を」


 ゼノとキャンディッドの顔が闇の中、彼がいる方向へ向けられる。

 万物を焼き焦がす闇の中でエスティーは目を閉じて、息を殺して、ただ耐えながら前に進む。

 実体を失いつつある中でも、確実にこちらに近づいてくる誰かの気配を感じ取って、ビアンカはまた怯え、ひたすらに拒んだ。


「やめて。こないで」


 伝播する声はエスティーだけでなく球体結界の中に居てもはっきりと聞こえた。


「こないで!あたしのことは放っておいて!」


 足先の感覚が無くなっていく…………自らの命の終わりを改めて感じ取り、ビアンカはこれまでのことを思い返す。

 もう涙は出ない。けれど、心が震えるのだけはわかった。

 握りしめた希望が、掌から零れ落ちて絶望に変わったあの時、彼女は自らに罰を与えることに決めたのだった。


「そうだよ、もっと早くからこうすることができたら……そうすればあたしだけが死んで、みんなは生きていられたかもしれない。あたしが……弱かったから。だから」


 ふと闇の中を行く者の気配が消えたことに気がついた。まただ、そう思った。


「もういいの……あたしは、一人でいいの……最初からそうすればよかった……」


 最期の言葉として懺悔を口にし、少女は意識を手放す。時を同じくして、闇の向こう、紫の球体結界の中で白狼が吠え、ゼノが叫ぶ。


「行け……!」


 一閃の緑赤の光が四方八方に飛び散った。黒を切り裂き、振り払い、伸ばされた手は少女をとうとう捕まえる。


「…………え」


 術者の心が、乱れた。

 その隙をついて純血の魔法使い渾身の秘術が展開される。

 足元に一筆で描かれた五芒星は一瞬のうちに時計の文字盤へと姿を変え針を動かし、時を戻す。

 徐々に強くなっていく紫の光は部屋中の黒を一掃し、ゼノの左目に宿っていた蒼と黄の光はある一点に集まってビアンカの体そのものを再形成した。

 白いワンピースに身を包んだ赤い髪の少女が最初に目にしたのは、自分の腕をつかみ目の前にしゃがみこむ黒い髪の男。


「遅くなってすまない。迎えに来た」


 ビアンカの意識が戻ってきたのを確認して男、エスティーは口を開いた。

 自らの命を手放すのに失敗した少女の表情は、いつかエスティーが助けたビアンカの祖父のものとよく似ている。

 さがり眉して笑みを浮かべ、エスティーはビアンカを自分の腕の中に引き寄せた。


「お前が辛いことは少しだけだけどわかるよ。だけどじいさんはお前が帰ってきたら、それだけでいいんだよ。あと、できることはなんでもするさ。苦しいのを一緒に背負うのだって、お前の話を聞くのだって、傍にいるのだって、なんでもな。

 それに……どんなに辛いことも時間が経てばゆっくり癒えていく。今は信じられないかもしれないけど、その時が来るのをどうか待っていてほしい。

 暗闇の向こうまで、一緒に行こう」


 久しい人のぬくもりに、肩に触れる傷だらけの手に、心の奥底に真っ直ぐ届くその声に、ビアンカは無き両親と祖父を重ね、押さえつけていた感情が一気に溢れ出す。


「………………ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」


 泣きだしてすぐにビアンカは一切の苦しみを手放しぬくもりの中で眠った。

 少し離れたところからその様子を見ていたゼノは肩で荒く呼吸しながらも静かに笑い声をあげ、独り言を呟く。


「エスティー……君は君だよ。何も守れなかったあの方とも僕達とも違う。

 そのまま全て手に入れれば良い。君の意のままに……ねぇそう思うでしょ?」


 ゼノは肩越しに彼女を見遣った。




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