無腕 宗兵衛

南沼

 小田原藩士麻倉宗兵衛が双腕を失ったのは、享保のはじめの頃、金木犀の香る晩秋の時節である。小田原宿の歓楽街で、酒に酔っての喧嘩だった。

 その日、宗兵衛は寅松と日の高いうちから馴染の店で鯨飲していた。次の登城は明後日に控えるばかり、浴びるように飲んで二日酔いに苦しむことになったとて、翌日を臥せて過ごせばそれで済む。

 寅松は幼馴染だが、町人である。本来であれば、御目見以下の下級といえども武士と肩を組んで歩くことなど許されない。寅松も普段人目のある所では畏まって腰を屈め、言葉遣いを改める。しかし、一度酔ってしまえば二人の間柄はかつての幼少時代そのままに戻ってしまうのだった。こうしたことはこの二人ならず至る所であったし、周りも敢えて咎め立てる無粋はしなかった。

 この日も、二人はしとどに酔っていた。宗兵衛が寅松の肩に腕を回して小唄をうなり、寅松が拍手で合いの手を入れた。

 そこに、総髪で着流し姿の、いかにも浪人者といった体の男がすれ違った。

 最初は鞘の先が触れただのというありふれた口論だったが、お互いあっという間に激昂し、その場に二本の白刃が抜かれた。浪人も明らかに酔っていた。宗兵衛と一緒になって相手を罵り挑発していた寅松は事ここに至って流石に泡を喰ったが、止める暇は無かった。

 どん、と宗兵衛に突き飛ばされ無様に尻餅をついたすぐ後に、勝負は着いた。

浪人者の振るう白刃は宗兵衛の右脛を強かに斬った後、閃くように下段で返り、そのまま宗兵衛の双腕を斬り飛ばしていた。

 抜けるような秋空を背に舞う幼馴染の二本の腕を、寅松はその目で見た。


「それで、気付いた時には浪人は姿を消していた、と」

 ふむ、と村林伊平次は太い指で自身の顎を撫でくり回した。

「へえ」

 寅松は蒼い顔で頷くばかりだ。

 取り調べの場だった。村林は町与力の組頭で、宗兵衛からは上司のそのまた上司に当たる。固太りの中年で、手指だけでなく、首も顎も岩を削ったような厳つい造りをしていた。刃傷沙汰で重傷者が出たという通報を聞き付け、現場近くの番所に駆けつけてみれば、当の怪我人は部下の一人だったという訳だ。だが、村林にしてみれば特段の面識はない。

「浪人の風体も聞いたことだ、もう帰って良いぞ」

「あの……宗べ……麻倉さまは」

「近場の金創医(刀傷などが専門の外科医)に運び込んだが、あの怪我だ。まず助からん」

 にべもなく村林は言った。

「花街遊びが、高くついたな」

 寅松は、もはや血の気を失くした顔で俯いた。


 しかし、村林を含めた大方の予想に反して、宗兵衛は一命を取りとめた。恐るべき生命力といっていい。それに、寅松の応急処置があった。宗兵衛が斬られた直後はあまりの出来事に呆然自失に陥っていたのだが、「縛れ、縛れ」とうわ言のように繰り返す宗兵衛の言葉のまま、解いた帯で傷口の上を固く縛っていた。それこそ、駆け付けた同心が三人がかりで必死に引き剥がさざるを得ない程に。傷口から溢れ出す宗兵衛の血と共に、魂が抜け落ちてしまうような恐怖に取り憑かれるがままだった。

 宗兵衛は、意識を失ったまま寧寛という金創医の元に運び込まれていた。最新の蘭方医学を学んだと名高い名医である。その寧寛をして、骨を斬り、傷口を縫い、全ての処置が終わる頃には、もう夜九ツを過ぎていた。まさに大手術だった。

 その後、身代を養生所に移され、一週間あまりの生死の境を彷徨った。八日目の晩、驚くほどの高熱が出て医者も今夜が峠と腹を据えたが、翌朝になって意識を取り戻した。

 ようやく退院できる程に回復したのは、その年の初冬を迎えようという頃だった。


 急な病により若くして隠居。

 これが、藩による正式な通達である。花街の喧嘩とあれば大事には出来ず、それも下手人が姿をくらましたとあっては、当家の面体を保つにはこれしかなかった。当然禄は召し上げられ無役となり、唯一の身寄りである兄夫婦の屋敷に身を寄せることとなった。

 兄である市右衛門は、小田原藩勘定所は帳面方の勤めである。六十石取りの中級武士で、早逝した父親の役目を継いでいた。屋敷も生まれ育った生家である。早くに妻を娶ったが子は一人きりで、まだようやく乳呑み児なのだ。ようやく生まれた嫡男の世話に大わらわの家中へ半ば廃人となった次男が出戻る訳であるから、歓迎されるはずがない。妻のそのなどは口にこそ出さなかったが、その態度にありありと不服の意を見せた。

 そもそも代々が役方(文官)の系である麻倉家の男は、血筋と言えば良いのだろうか、皆揃って温厚な人柄だった。父親も、とうに亡くなった祖父も叔父も例に漏れない。ただ、宗兵衛だけが例外だった。次男坊という立場の気楽さ故か、良く言えば天真爛漫で、悪く言えば粗忽者のきらいがあった。幼少期から勉学よりもむしろ剣術に没頭し、城下町の浅山一伝流の道場ではめきめきと腕を上げた。寅松とも、その頃からの知り合いである。悪友たちとつるみ、若い時分から酒と女色の味を覚えた。

 二十歳を迎えるころに、一つの縁談が持ち上がった。それが尾崎家である。嫡男はおらず、きよという婚期を迎えたばかりの一人娘がいるばかりで、入り婿を探していた。尾崎家は三十俵二人扶持の同心、麻倉家からすれば格下ではあるものの、誰よりも宗兵衛が乗り気になった。理由はきよその人である。つんとそらした顎の、意志の強そうな線が宗兵衛の気に入った。それに、番方として現場で身体を動かす仕事の方が性に合うと自分でも考えていたためだ。

 ささやかに行われた婚礼はわずか一年前。宗兵衛がこれと見込んだきよは、思ったとおりのおてんばだった。武家の娘としての教育は受けていながら、何かにつけ宗兵衛につっかかった。単に意固地や天邪鬼ではない。例えば家具の配置が意に沿わなければ、「これはようございません」と衒いなく謂う。その度に「なぜじゃ」と宗兵衛は問う。風水の観点からは、文句のつけようのない配置であるはずだからだ。

「それは分かりますが、お客様がいらした時、これでは不便でございましょう」そういう類の苦言を呈すときは、後から思念しても決まってきよの言う通りだった。そうなれば、宗兵衛も強くは言い返せない。一事が万事でこの調子だった。見る人が見れば、「割れ鍋に綴じ蓋」と称したかもしれない。

 婚姻生活はわずか一年。残念ながら、子は出来なかった。どれだけ理想的な婚姻関係であろうと、今回のような事が起きればそれでおしまいである。本人同士の意向とは関係なく、殆ど自動的に宗兵衛ときよの縁は切れた。離縁である。市右衛門が代筆した三下り半を藩に届け出、沙汰が下りた時点で尾崎家との縁も切れた。宗兵衛は元の麻倉家に帰らざるを得なくなった。以降は、ただ命の尽きるまで麻倉家のお荷物として生を生きるだけの廃人に他ならない。飯を食い、糞をひるだけの、ただただ家族の情によってのみ生き永らえるお荷物である。

 東海道から甲州街道に入ったあたりの東側に、麻倉家の屋敷はある。通りに面した西側を来客用の座敷とし、東側に家族の生活する茶の間と納戸を置く造りだ。宗兵衛は、その最も東の端にある納戸を改装した筵敷きの間に暮らすこととなった。改装したとはいえ納戸は納戸で、小さな明り取りの窓が上方に一つあるきりの、昼もなお薄暗い一間であった。無論双腕の無い身である、一人で生活のよしなしの出来る筈もない。そこは下男の岩造が請け負った。

 岩造は、先代の頃から麻倉家に仕えてきた男である。幼少のみぎり、宗兵衛のむつきをかえたのも岩造だった。食事の世話、下の世話、すべてを当たり前のように岩造が負った。無口な老僕は、不平の一つをこぼすでもなく宗兵衛の世話をした。

 宗兵衛はといえば、すっかり意気地が萎れたようになっていた。かつて道場で師範をも圧倒しようとしていた若き剣士は、剣士に必要なすべてを失い、筵葺きの屋敷の奥で余生を燻らせるだけの廃人となった。すっかり塞ぎ込み、日に日に痩せこけていった。これはそう長くないと、宗兵衛を眼にした誰もが思った。病や事故で四肢のいずれかを喪って生き延びる例は非常に珍しいが、それは医学の限界というだけでなく、生きる気力を失うという側面でもまたそうだったのだろう。

 そんな中に、見舞いに来た客もないではない。ただ、宗兵衛はその全てを遠ざけた。

 最も頻繁に屋敷を訪なうのは寅松だった。罪の意識故か週に一度は決まって屋敷の戸を叩いたが、決まって宗兵衛の言を受けた岩造に門前払いを喰らった。職場の同僚であればまだしもな扱いであったが、それでも宗兵衛は直接に会う事を良しとしなかった。

 またある時は、それよりももう少しだけ玄関の辺りが賑やかになった。

 奥座敷で胡坐をかきながら、宗兵衛ははてなと首を傾げていた。ただ来客を負い返すだけであれば口上を述べる手間も掛からないはずだ。

 ややあって屋敷中が静まり返り、次いで戸の外から声がした。

「よいか」

「はい」

 がたがたと戸を開けた先に立っていたのは、市右衛門だった。数えで三歳になる嫡男、利之助を腕に抱えている。

「聞こえていたか」

「詳しくは、聞きとれませなんだが」

 ふう、と市右衛門はこれ見よがしに溜息をついた。

「きよ殿がな、見舞いに来られた」

「……それは」

「無論、門の外で遠慮願ったのだが、結局玄関先まで来られてな」

 市右衛門に岩造、果ては尾崎家の供の者まで総出で何とかお引き取り願えたようだった。

 馬鹿な女だ、と宗兵衛は胸中で吐き捨てた。

 黙って座っていれば、後家として周りは扱ってくれる。まだ二十歳にもならぬ身で器量も良い、この先いくらでも嫁ぎ先はあるだろう。何をこの身に執着することがあろうか。

「ああ、愚かな女姓にょしょうだ」

 利之助を揺すってご機嫌を取りながら、市右衛門が言った。

「兄上、それは」

「なあ、宗兵衛。侍の本分とは何だ」

 いきなりの問いに、宗兵衛は言葉に詰まった。問いの内容もさることながら、市右衛門がこのような問いかけをしてくることは未だかつてなかったからだ。

 ただ、宗兵衛は問われるまま噛み締めるように言った。

「主君によくお仕えする事、それにお家を守ることです」

「そうか。そうだな」

 相変わらず利之助の目を見てあやしながら、市右衛門は言った。その態度は、宗兵衛にとって揶揄に他ならなかった。宗兵衛には、その全てが不可能であるからだ。

「いや、誤解するなよ宗兵衛、ただわしは」

 そういったところで、足音を高らかに廊下に響かせながらそのがやってきて、市右衛門の腕中から利之助を半ば無理やり奪い取った。

「あなた、利之助はここには」

 そのがちらりと座敷内に向けた視線が宗兵衛と合い、さすがにそのの口上もそこで萎んだ。ただ、利之助を抱えながら気まずげに足音を殺してその場を去るだけだった。市右衛門も、宗兵衛と目を合わせることなくその場を去った。

 宗兵衛は、その場に胡坐をかいたまま、いつまでも開け放しの障子を見つめていた。


 享保四年の四月の終わり、強いて言えばそこがひとつの区切りだったろう。奥座敷の掃除をする岩造に、ふいと宗兵衛が声を掛けた。それは同心として町中を駆け回った頃のような、明るい声色だったという。

「のう岩造、桜はどうじゃ、咲いておるか」

「へい、今が見頃で」

 そう答えてから、岩造は垂れた瞼を精一杯に見開いて宗兵衛を見返した。宗兵衛は床の間の前で胡坐をかきながら、背筋を伸ばして真っすぐに岩造を見据えていた。

「すいやせえん」

 消え入りそうな誰何の声が門の方から聞こえた。

「おう。寅吉か」と宗兵衛は楽しげに言った。

「通してやれ。茶も頼む」


 それから、宗兵衛は目に見えて変わった。痩身は変わらず、しかし伸び放題だった月代と無精ひげをあたり、常に袴を着用するようになった。来客を断る事も少なくなった。

 また、残った足を使って生活の訓練を行うようになった。これには時間が掛かったが、半年もすれば左の足指で器用に箸を使えるまでになった。食事の時間となれば、岩造が平膳に食事をよそって運んでくる。魂の抜けたようになっていた頃は岩造が手ずから匙で掬って口元まで運んでやっていたが、もうその必要もなかった。汁物も、器用に椀の縁を掴んで啜り、綺麗に平らげてしまう。酒も偶に飲んだ。市右衛門が下戸であるためあまり屋敷に備蓄はないが、折を見て寅松が差し入れに来るのだ。

 湿気の残る残暑が辛いその日も、寅松が大徳利にたんまりと酒を汲んできた。気の利く事に、小ぶりの梨を幾つか籠に入れている。

「ご家族で召し上がって下せえ」そう言って、畏まる岩造に籠ごと押し付けた。おまけに鰹の刺身まで持参している。こちらは酒の肴のようだった。

「随分と羽振りが良いなあ」

「こいつで、ちょっとな」

 笑いながら寅松は、籠を振る仕草をした。珍しく、博打で小金を儲けたらしい。

「使ってしまって良いのか」

「まだたんと残ってらあ。材料の仕入れも済んだしな」

 寅松は、城下町で人形職人をしている。南蛮意匠のからくり人形など凝った作りの注文を大店の商人などから度々請け負い、その筋での評判も高い。だが本人の生活はこの有様で、貯金をしようとなどというつもりはさらさらないようだった。身に着けている小袖も、藍を雪花に染め抜いた洒脱な柄だ。

「お前も身を固めれば、少しは財布の紐も堅くなるだろうに」

 措きゃあがれ、と寅松は笑った。人目のないところでは、本当に言葉に遠慮というものがない。だがそれも長い付き合いである、気にする宗兵衛でもまたなかった。

 戸の外から、岩造の声が聞こえた。徳利と猪口に、箸を持ってきたらしい。主人が何も言わずとも、心得た従者だった。

「おお、来た来た」と宗兵衛が言い、酒盛りが始まった。

 男二人の酒盛りとなれば勿論、手酌である。この頃には、徳利も猪口も、足指だけで難なく使うことが出来るようになっていた。誰の手を煩わすこともない、気楽な宴だった。

 お互い仄かに酔いが回ってきた頃、ふと改まった口調で、宗兵衛が切り出した。

「この前頼んだ品は、中々調子がいいぞ」

「おう、そりゃあ良かった」

 良かった、などと言いつつ寅松のその態度は「良くて当たり前」という、自分の腕前に自信のある職人のそれである。

「それでな、もうひとつ、いやふたつ頼みがある」

「おういいぜ、何でも言ってみな」

 ずい、と宗兵衛は左足でにじり、周囲の耳目を憚る様に身を寄せた。

「実はな」


 その日、村林が麻倉家に足を運んだのは、たまたま気が向いたからに過ぎない。あのような事件で縁のあった身である。退院したと聞き一度見舞いに足を運んだのは昨年の師走だったが、その時はすげなく追い返された。それきり半ば放ったらかしになっていたのを、光円寺まで足を延ばし、父親の命日に参った帰り道にふと思い出したのだ。少し寄り道になるが、構う事は無いと甲州街道を折れ、麻倉屋敷に向かった。

 取次ぎを請われた老僕が頭を何度も下げながら屋内に戻ろうとしたその時、慌ただしく戸を開ける音、誰かが廊下を駆けてくる足音があった。村林には、すれ違う町人髷の姿に見覚えがあった。そうだ、あの時取り調べをした、寅松といったか。

 寅松はそれどころではないようだった。すれ違ったのが村林だと気付いた様子もなく、慌てて顔を隠すように伏せて雪駄を突っかけ、そのまま屋敷を駆け出していった。その顔は、涙目に歪んでいるように見えた。

「男の泣くやつがあるか」屋敷の奥の方から、そう吐き捨てるような声が聞こえた。きっと寅松は戸も閉めずに駆け出てきたのだろう。

「宗兵衛様、宗兵衛様」と老僕がよたよたと奥に姿を消し、村林の訪いを告げたのであろう、にわかに慌てる気配があった。

 やがて通された納戸で、気まずそうに宗兵衛は村林を迎えた。

「失礼を致しました」

 部屋の奥で座ったまま背筋を伸ばし頭を下げる宗兵衛に、「いやなに、わしも急に寄ったでな」と村林は鷹揚に返した。返しながら、部屋の様子に目を配らせている。本当に見舞いに来ただけで何かを疑っている訳ではないが、役目柄身に付いた癖の様なものだった。薄暗い部屋に寂しく転がる、もはや誰に握られることもなった太刀。明かり取りの小窓からは、赤い実をつけた槇の木が見えた。筵敷きの上に無造作に置かれた平膳には徳利が転がり、大皿には鰹の刺身が盛られている。酒と、醤油の香りがふいと鼻をついた。

「邪魔をしたか」

「とんでもございません」宗兵衛はかぶりを振った。手酌で恐縮にござるが、とそのまま酒を勧める。

 村林にも断る理由は無い。

「頂こう」どかりと胡坐をかいて、勝手に手酌で飲み始めた。

 酒を勧めておきながら、宗兵衛は気まずそうな表情を崩さない。ただ、自分の猪口に酒を注ぎ、ちびちびと舐めるばかりだ。

「その後、調子はどうだ」

「はい、お蔭様で」

「慣れれば、何とかなるものだな」

村林は笑いながら言った。

「恐れ入り申す」

「先ほど出て行ったのは、寅松とか言ったか」

「ええ、知り合いの職人で」

「古い馴染か」

「そのようなもので」

 流石に、村林は笑った。

「そう警戒せんでもよい。ほんに立ち寄っただけじゃて」

「いえ、これは……恐れ入り申す」

 武士と町人の過分な親交は表向き憚られるべきものではあるものの、今の宗兵衛がそういった立場にいる訳でもない。明らかに宗兵衛は緊張していた。

 それを察して、村林は殊更陽気に振舞った。寺の作男の滑稽な振る舞いや、妻の愚痴を大仰に並べ立てては宗兵衛の笑いを誘った。酒の手伝いもあって、半刻が過ぎる頃には和やかな空気が部屋を満たしていた。

「そういえばの」不意に、村林が切り出した。

「何でございましょう」

「おぬしの喧嘩相手の事だが」

「は」眉を上げ、宗兵衛が身を正した。

「名だけは分かったぞ」

「何と申しますか」

「亀山左近。この辺りの出ではないな、食い詰め浪人だ」

「ははあ」

 明暦から寛文にかけて、江戸の人口は爆発的に増えた。享保の時代となった今も、とどまるところを知らず江戸の町は急拡大を続けている。自然、江戸口の一つであるこの小田原宿の人の出入りも増えることとなる。恐らく、亀山もその一人だったのだろう。そう村林は謂った。

「して、今はどこに」

「分からん。間道を使って逃げ出したかもしれん」

 そういった類の胡乱な人間が、関所を通過するための手形を持っている事は、まずない。関所を通過した記録もなく近隣の目撃情報もない以上、小田原から密かに逃げ出した可能性も十分にある。あるいは逃げ出す身にあたって関所の番人に鼻薬を嗅がせたという事も考えられるが、村林は立場上、敢えてその方向の言及は避けた。

「では、小田原にはもういないと」

 気付けば、宗兵衛が身を乗り出していた。眼の光が尋常ではない。

 これはしまった、と村林は自省した。酒に任せて余計なことを喋ってしまったようだった。今や宗兵衛は部外者であるというのに。

「あいや、はっきりとした話では無いが」と言い繕い、それからしばらく適当な話でお茶を濁して村林は麻倉屋敷を辞した。もう、暮れ六ツの鐘が鳴る頃だった。

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