BFC3戦闘記録

伊島糸雨

擬啼琴


 黄昏時のこえが鳴る。深い笛の音に似た空気の波が、港町を微かに蠕動させる。高いところから、低いところへ。亡骸の啼声ていせいは、揺らぎを持って私たちの日常に馴染んでいる。そろそろ暗くなる。海が夜の影に溶ける前に、彷徨さまよう神は時を刻む。

 巫女のエリシテは、この時間になると毎日、埠頭の石畳を叩いて灯台へと向かう。私は船が残す泡沫の軌跡のように、その後を追いかけていく。エリシテは時折私の方を振り返り、ついてきていることを確かめてから再び前へと進んでいく。私は彼女の影を踏み、彼女は巨大な塔の影に埋もれる。

 入り口では灯台守のジベルカインが待っていて、私たちを快く出迎えてくれる。エリシテの役目はとても重要だったし、私がそれについてくるのはもはや当たり前のことだった。誰も気に留めず、私は傍にいる。

 最上階には外に向けて迫り出した空間があって、私たちは決まってそこに立つ。エリシテは長方形のケースから上半身と同じサイズの擬啼琴ぎていきんを取り出すと、手動で展開/拡張して、天球儀とも楽器ともつかない構造を組み上げた。弦や金管が複雑に絡まり合ったその機構を、エリシテは完全に制御する。それが擬啼琴ぎていきん使いの資質であり、孤独な神との交信を担う巫女の責務だった。

 燃え尽きる空は境界を超えて海を焼いている。水平の鏡面が赤熱する真円を映し出し、遥か後方からは夜の帳が迫ってくる。エリシテは擬啼琴ぎていきんを身体と地面に固定すると、張り詰めた弦に指先を添え、巻貝のように渦を巻く歌口に、唇で触れた。

 悲哀を孕んだ笛の音が、伸びやかなままに昼夜のあわいを引き裂いて走っていく。

 呼声、と街の人は囁くように口にする。多くの場合、そこには畏怖に似た何かが宿る。神の声と酷似しながら、しかしそこには得体の知れない響きがあるのだと。

 エリシテの瞳は空を映して燃え盛り、静かな恍惚を湛えている。それは波間を越えた遥か遠く、金管巡る神へと祈る巫女の姿の体現であり、私が存在する余地はどこにもないのだと思わされる。

 互換することも叶わぬ一方通行に、私たちはきっと、生涯に渡って囚われ続ける。神と同じように。



 死せる獣のオルヴァロイは、その精神の不自由によって、大海の深きを知らぬという。

 黄金の巨体を水面に揺らし、漣のうちに陽光の煌めきを灯す彼の者は、魂なるもの秘めてはいない。神性を解体せんとする数多の探究は、金属の機構で形作られた神についてそのように結論づけている。

 しかしながら、擬啼琴ぎていきんの存在によって、信仰は今現在も衰えることなく保たれている。この奇怪な楽器の起源について、明確な知見は得られていない。出自の不明な情報として、オルヴァロイの肉体の一部に類似した機構があると噂されるのみであり、当のエリシテに尋ねても、それ以上は知らないという。

 同様に、彼がどこから来たのかを私たちは知らず、彼が何故あのように悲しげな声でくのかを私たちは語れない。私たちは偽りの歌によって彼を引き止める。深くへ沈み消えることのないように、同胞に擬態した旋律でもって、自由を奪い、愛の幻想へと磔にする。巫女の、エリシテの存在は、その正当性を保証するものだ。これは善意であり、大いなる者に捧ぐ慰めの歌であるのだと。

「彼の姿はね、鯨、っていうんだよ」

 巫女となってしばらく経った頃、エリシテは遠く彼方に浮かぶオルヴァロイの影を指差してそのように教えてくれた。「鯨?」問い返すと、彼女は太陽を背に輝きながらにこやかに頷いた。「ずんぐりと大きくて、ヒレがある。魚みたいだけど、本当は私たちと同じ。世界で一番、孤独な神様」

 つがい交わり語り合うものを失ってなお、彼の者は啼声を響かせている。エリシテはそれに応えて、束の間の報酬を約束する。想うべき存在の錯覚を与え、そして自らもまた錯覚する。

 エリシテは、私を導き私を見つめる私だけの巫女だった。

 けれど、今はもう、私だけのものではない。



 演奏を終えたエリシテと帰路に着く頃には、わずかばかりの残照が燻るのみとなっていた。擬啼琴ぎていきんを格納したケースを揺らしながら、彼女は私の先を行く。そして振り返り、街明かりを背にしてこのように言う。

「いつも付き添ってくれてありがとう。そういうとこ、好きだよ」

 漣の音。空虚な音色と知りながら希う想いは、深海に落ちることなく、水面に浮かび、淡く滲む。

「うん。私もエリシテが好き」

 私は微笑みながら啼いている。決して届くことのない、真実の声で。

 私は、啼いている。

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