第21話 デッドゾーンに踏み入る

 将軍義昭は数千人の兵とともに二条御所に立て籠り、信長の和議にも応じず抵抗をつづけた。東からは信玄ひきいる武田軍、北からは浅井・朝倉連合軍、南からは三好三人衆に一向一揆が迫り、信長は再び絶体絶命の窮地にあった。

 この危機を乗り切るために、信長は朝廷に和議の勅命をもとめたが、朝廷がそれに応じなかったため、上京一帯を焼き払った――ここまでは、すでに述べた。

 公家たちはやしきを焼かれて、あわてふためいた。比叡山同様、焼き尽くされ、皆殺しにされかねないとパニックに陥り、その結果、義昭の二条御所に和議の勅使をつかわした。

 信長は義昭と和議を結ぶと同時に、急ぎ岐阜へ引き返した。全軍で信玄三万の軍と対峙たいじするためである。

 四月十一日、岐阜に帰城した信長のもとに物見の兵が注進に及ぶ。

「武田軍、伊那いな街道を北上せり」

「なぜじゃ。なぜ美濃へまっすぐ攻め寄せて来ぬのか」

 信長は怪訝けげんそうに首をひねった。

 伊那街道は信濃から甲斐へと進む径路である。おかしい。何故に領国の甲斐へ引き返すのか。自分が信玄なら、美濃を火のごとく侵略するであろう。

 もしや信玄の身に何か起きたのか――そうとしか考えられなかった。

 信長は多数の乱波を放って、探らせた。すると、何たることか。信玄が伊那の根羽ねばか、駒場こまんばあたりで息を引き取り、どこかに埋葬されたらしいというのだ。

 信長は強運であった。最大の強敵が、ここぞとというときに目の前から消えてくれたのだ。

 ひそかに胸をなでおろした信長に、京の都から急報が入った。

「義昭公、再び挙兵の動きあり」

 勅命和議から間がないというのに、またしても義昭よしあきが宇治の槙島まきしま城に兵を集めているというのだ。

 信長が咆えた。

「義昭は逆賊なり。今度こそ遠慮はいらぬ。幕府を倒すのじゃ」

 朝廷から下された勅命和議は絶対である。それにそむいた義昭は逆賊となり、幕府の正当性自体が問われることになる。すなわち、義昭はみずから墓穴を掘ったのだ。

 七月七日、信長は上洛し、二条御所にいた義昭の家臣を降伏させ、槙島城を陥落させた。義昭は嫡男義尋よしひろを人質に差し出して降伏し、義弟・三好義継の居城である若江わかえ城へと落ち延びた。

 これにより、室町幕府は事実上、滅んだ。

 朝廷は焦った。

 信長をまがりなりにも押さえつけてきた将軍権威と幕府が崩壊したのだ。となると、今後は上京を焼き払った不遜ふそんな信長と直接対峙せねばならない。しかし、和議勅命を強要し、朝廷すら道具扱いする暴君を制御できるであろうか。

 否、できぬ、と公家のだれもが考えた。

 われら公家や朝廷は、政治的に利用されるだけ利用されて、不要となれば、弊履へいりのごとく打ち捨てられるであろう。もしかして、あ奴は天下統一後、朝廷権威を簒奪いずれした上、この国の最高神として君臨する気ではないのか。

 それだけは絶対に阻止せねばならぬ。

 朝廷は秘密裡に策動しはじめた。信長は最も危険なエリアに足を踏み入れたことに気づかなかった。天才は自分の力しか信じない。さびしい信長の自滅がはじまろうとしていた。

 

 

 

 

 


 

 


このままでは朝廷は和睦の勅命を出さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る