第8話  逃避行

 宙は、仁に電話した。家族会期をしたいと告げると、

「そうだな。夏美が会ってくれるといいけど」

「会わせるよ。俺たち、もう子供じゃない。千花も、とうさんの言い分を聞きたいって」

 俺の言い分。母親と別れ、同性の恋人を選ぶという決意を、娘がどう考えているのか、どんなに厳しいものでも知るべきだ。

「宙はどう思ってる?」

「わかんない。どっちの気持ちもわかるし」

 父も母も幸せであってほしいが、今度ばかりはそうはいかないと痛感している。

「お前が生まれる前。逃げようと思ったんだ」

 思い切って仁は口にした。

 由宇を選ぶと決めた矢先に、妊娠を告げられてパニックになった。そもそも親になる自信がない。

 逃げてしまおうか。由宇と二人、誰も知らない土地へ。

 夏美はショックを受けるだろう。何も告げずに、夫が失踪したら。だが、夏美の家は裕福だ。孫の一人くらい、十分に養ってくれる。


 由宇の部屋に向かう途中、そんな妄想が頭の中をぐるぐる回った。何もかも捨てての逃避行。

 しかし、すぐにそんな夢物語は、と現実に引き戻される。

 由宇が笑顔でドアを開け、蒼白な仁の顔に頬をこわばらせた。

「言えなかったんだね」

 夏美の妊娠を告げると由宇はすぐに別れを決意したのだ。

 仁は未練たらたら、由宇を失うなんて考えられない。

 二十年後に、と口走り、触れることもできずに帰宅した。

 いいお父さんになってください、という由宇の言葉を実践するために、だ。

 逃げるなんて無理だった。

 田舎の両親に心配させるし、夏美の両親にも顔向けできない。どれほど迷惑をかけるだろう、憶測と噂の渦の中に親族まで投げ込まれる。

「その時、父さんが消えていたら。絶対に許せなかっただろうな」

 電話の向こうで、宙が素直に口にした。

「でも、とうさんは留まったんだよね」

 そうだ。だから今の生活がある。


 もし逃げていたら、夏美はどんなに自分のことを悪く言っただろう。

「きっと女ができて私たちを捨てたのよ。お前がお腹にいることを知った直後にだよ。本当に酷い男!」

 そんなことばかり聞かされて育ったら、宙は父親がいない寂しさも手伝って、俺を恨んで育っただろう。由宇の顔も見ずに蒸発した男と同じように罵倒されただろうな。

「由宇は、父親を知らないんだ」

 仁は、由宇の父親がアパートから消えたことを打ち明けた。

「ひでえな」

 宙は言い、お母さん苦労しただろうね、と言い足した。

「そうだね。由宇はどこへも連れてってもらえなかった」

「うん」

 いい父親になってくれ、という由宇の願いを叶えてやりたかった。

 肩車しての花火大会。遊園地、海水浴にプール。泳ぎを教え、キャッチボールをした。自転車に一人で乗れるようにサポート。すべては由宇がしてもらえてなかったことだ。由宇に対する罪滅ぼしだ、と思った。

 おまえに言われたように、俺はいいパパになろうと必死だ。

 そうすることで、仁は由宇と心でつながっていたかった。

 だが、時の流れとともに、宙や千花の成長とともに、由宇への思いは少しずつ胸の奥に沈んでいく。



 由宇が小学校に上がるころから、母はメンタルに問題を抱えていた。一日中、ふとんに潜り込んで何もできない日もあり、由宇はただ空腹を抱えてじっとしていた。

 教師の勧めで定時制高校に進学し、アルバイトに明け暮れた。

 高校一年が終わる頃、バイト先の店長に、埃っぽい事務室で抱きすくめられ、すべてを許してしまった。

 大人の男の臭い。由宇は彼に、父の面影を求めたのかもしれないが、他のバイトにも手を出したことが発覚、縁を切った。

 どうにか卒業し、就職が決まり、少しは母を楽にしてやれると思った矢先、母は病死した。

 一年ほど職を転々として、見つけたのが喫茶室Lだ。

 戦後まもなく建てられたレトロなビルの一階で、赤レンガの外観。高い天井、シックな雰囲気に由宇は魅了された。そうした落ち着きを好む客層で店は賑わい、休日には親子連れも来店する。得られなかった家族団欒を束の間味わっているようで楽しかった。

 そんな中、仁が店にやってきた。


 仁の存在を知ってから別離までの二年ほどは、由宇がいちばん幸せな時期だった。

「こんなに長く続いたの、はじめてなんだ」

 仁の肩にもたれかかり、

「今月の二十八日。出会って一年だよ」

 お祝いしようね、と約束した。

 しかし当日になって仁から、行けなくなったと連絡が。

「田舎から親が出てくる日だったの忘れてて」

 妻も一緒に食事会をしないと、と言われてカッとなった。

「もういいよ!」

 智己に泣きつき、家庭もちが相手じゃ仕方ないと言われ、ふてくされた。仁が電話で詫びてくると、

「もう別れる!」

 心にもないことを言い、あの夜は別の男と過ごした、と嘘をついた。ガチャンと電話は切れ、そのまま一か月、音信不通になった。

 その件を智己に告げると、

「バカかおまえは!」

 と一喝された。


 あまりの剣幕に声も出ない。

「本物の相手を見つけるのがどんなに大変か分かってんだろ。つまらない意地を張って、大事な人を失くしてもいいのか」

 やだ。そんなのやだ。

 仁さんを失うなんて、絶対に!

「すぐ電話して謝れ!」

 泣きそうになって、智己の部屋を出た。一回り年上の彼の言葉には重みがあった。

 なんてバカなことを、と今更ながらに気づいたが、恐ろしくて仁に電話できない。あんなウソをを真に受けて、仁が見限ってしまっていたら? もう自分を嫌いになっていたら?

 暗い部屋で泣いていると、チャイムが鳴った。

 涙をぬぐいドアを開けたら、仁がいた。

「ごめんなさい!」

 由宇は、仁しがみついた。

「他の男といたなんて嘘だよ。あの日はずっと、一人で泣いてた」

「ごめん、一緒にお祝いできなくて」

 他の男がいてもいい、もう我慢できなくて飛んできた、と仁は言い、由宇は幸せだった。

 二人は次第に、一緒に暮らすことを考え始めていた。




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