第10話「命」

 ここに来てから、人を殺すのはこれで何度目だろう……ロザリスはそんなことを考えながら、古いアパートの階段を駆け下りていた。背後からはバスコノフの足音が聞こえる。小さな踊り場の窓からは、満月の強い明かりが二人の足元を照らした。

 ロザリスには、その明かりが誰よりも明るく見えていた。月明かりだけではない。階段も手摺りも天井も窓枠も、頭を撃たれた男の血飛沫さえも……ロザリスには全てが輝いて見えた。

 そう言えば一度だけ、首を絞め殺したことがあった——そんなことを思い出していた。ロザリスはその時の感動を忘れたことはなかった。たまたま銃を使えない状況だったとはいえ、偶然手元にあった電気コードで首を絞めた時の素晴らしさ……体を密着させているからこそ感じる呼吸、鼓動、筋肉の収縮、体温……銃で撃ち殺しても、決して感じることの出来ない感覚だ。命を支配する感覚……それはまるで、世界を支配しているかのような、そんな充実感をロザリスに与えた。

 階段を駆け下りる足も軽い。体がまるで宙に浮いているようだ。ロザリスにとって、人を殺す快感は何物にも替え難い至福の瞬間だった。眩い世界の輝きからか、時間の感覚すら忘れる。自分が世界の中心だった。恐怖心などはどこにも無い。あるのは、快楽を求めた、世界の頂点に君臨する自分だけ……。

 やがて建物を飛び出したロザリスとバスコノフは、月明かりに照らされた街を走った。真夜中を過ぎてるせいもあってか、周りに人影は無い。元々アパートや民家の並ぶ住宅街だ。それほど人通りの多い通りでもない。月明かりから逃れるようにしてロザリスが細い路地にルートを切り替えた時、後ろを走っていたバスコノフが絞り出すような声を上げた。

「——少し——待ってもらえませんか——ここまで来れば——」

 ロザリスが立ち止まって振り返ると、バスコノフはビルの壁に手をかけ、頭を下げて息を切らしている。

 しかし、ロザリスは穏やかだった。長い距離を全力で走ってきたとはとても思えないような清々しさをその表情に湛え、頭を上げたバスコノフを驚かせた。

「……凄いですね……疲れて……ないんですか……?」

 ロザリスは何も応えない……。

 バスコノフが続ける。

「……今……人を殺してきた……ばかりの人には……見えませんよ……」

 ロザリスはジャケットの内ポケットから縦に二つ折りされた大き目の封筒を取り出すと、少しも乱れの無い口調で言った。

「奴は俺達が五か月も追いかけてきたネプチューンの外交官だ。しかもスパイのように偽名を使って密入国を繰り返してた」

 だからって……。

「ビーナスの諜報員と繋がりがあることも掴んだ。だから殺した」

 バスコノフは上体を起こして応える。

「その資料……何なんですか?」

「分からない」

「なんですって?」

「俺達が欲しがってた情報に違いない」

 そんなことで——。

「何も殺さなくても——」

 バスコノフのその言葉が耳に届いていないのか、ロザリスは皺の寄った封筒を開けて中身を取り出した。分厚い書類の束だ。それに目を通すロザリスにバスコノフが続けた。

「俺はいざという時のあなたの身代わりになるように言われてきました。確かにいざという時の為にと思って、あなたの要望する物も揃えた」

 ロザリスは書類を捲りながら、黙ってそれに見入っている。

「なぜ身代わりが必要なのか、分かりましたよ……危険なわけだ……」

 やはりロザリスは何も応えない。その意識は、もはや手の中の書類だけに注がれていた。

「そんな中身も分からない情報を盗むだけなら、あの男を殺す必要なんかどこにあるっていうんですか——?」

「殺しは、嫌いか?」

 ロザリスはバスコノフの目を見てそう言うと、書類を手渡して続けた。

「そういう顔つきだな。まだ若い」

 するとバスコノフは、書類に目もやらずに応える。その声は低い。

「……殺してきましたよ……あなたと会った時は初めての実戦でした……でも、あれから何度も実戦に投入されて……」

「違う——」

 即答したロザリスが続ける中、バスコノフはロザリスがいつもの状態に戻りつつあることを感じていた。

「俺は好きか嫌いかを聞いてる。お前の戦歴などを聞いてはいない。どうだ?」

「どう、って……」

 この人は……好きなのか…………。

 初めてバスコノフは、目の前のロザリス・シオンという男に、嫌な恐怖を感じた。

 すると突然、ロザリスはバスコノフに背中を向けて歩き始める。その背中からロザリスは言った。

「俺に意見する前に、その情報がどんな物なのか理解しておくんだな。明日の朝、あいつの所に行くぞ」

 バスコノフは、やっと書類に目をやった。

 無意識に、言葉がこぼれた。

「……なんだ……これ…………」



 夜が終わり、朝になっても、この日は快晴だった。

 まだ薄らと見えていた星空が青空に変化するのに、それほど時間はかからない。ロザリスとバスコノフが出発した頃に微かに見えていた星の光は、次の夜の為に雲隠れしたのだろうか。しかしその為の雲を見付けることが出来ないくらいに、早朝から青空だった。二人が乗っている錆びついた車のドライブでも清々しさを感じるくらいに、今日の空気は澄んでいた。

 ロザリスが運転をしながら、横の窓を開けた。冬とはいっても、年間を通して暑く乾燥した地域だ。決して寒くはない。窓から入り込んだ心地いい空気を求め、バスコノフも助手席側の窓を開けた。その中でバスコノフはロザリスの横顔を見て思っていた。

 人を殺した直後に、こんなに幸せそうな表情が出来る人を、俺は知らない……。

 二人はビーナスの首都ニコロの東側にいた。西側とはすでに雰囲気からして違った。街並みの色……車……人々の服装……眼つき……スラム街というほどではないが、東側の一般的な色合いはやはり西側とは違う。しかしその東側に来る度に、ロザリスは懐かしさを感じていた。どこかがサターンのあちこちに似ている気がするからだ。

 やがて二人の車は、古いアパートの密集した住宅街に到着する。そのビルは縦に細長く、ワンフロアが一部屋で三階建て。三部屋しかなかったが、ワンフロアと言っても狭い部屋だ。各部屋には外の鉄製の階段を登るしかなかった。鉄製と言えば聞こえはいいが、錆びていない所を探すのが大変なくらいの粗末な物だ。

 一段一段その階段を登る度に、錆びた金属が擦れる鈍い音が辺りに響いていく。幅の狭いその階段を三階まで登り切ると、すぐに部屋のドアがある。殺風景な建物の外観とは別に、なぜかドアだけは色褪せた真っ赤な物で、ロザリスには、そのセンスがいい物とはとても思えなかった。

 ロザリスはその真っ赤なドアの前で大きく溜め息をつくと、右手で二回だけノックをした。

 静かなまま……物音すら聞こえない。

 ロザリスの背後からバスコノフが声を掛けた。

「本当に昨日なんですか? 帰ってきてるの……何か理由があって延びたとか——」

「昨日の朝に電話をもらったよ。“缶詰会社”にな。あいつのことだ……殺されてなきゃ帰ってきてるさ」

 ロザリスがそう言った直後、真っ赤なドアがゆっくりと内側に開き始めた。

「……お前じゃねえんだから——」

 そう言って顔を出したのはウラサスだった。眠そうな両目に髪の寝癖も凄いままに続ける。

「何で殺されなきゃねえんだよ……何時だ?」

「朝だ」

 そう言い放つと、ロザリスはドアを大きく開けて中へと強引に入る——苦笑いを浮かべながらバスコノフも後に続く。ロザリスよりは気遣いを知っているらしい。

「少しは休ませろよ——」

 そう言って続けるウラサスの声は、起きたばかりのせいかいつもよりくぐもっている。

「何時に帰ってきたと思ってんだよ」

「帰りの時間は聞いてない」

 そう言い放ったロザリスは、その部屋に唯一の椅子に腰を下ろした。窓際の机の前にある回転タイプの椅子だ。

 随分、冷たい言い方をするようになったな……——バスコノフはドアの近くに立ったままそんなことを思った。

 ……焦ってるのか——?

「で?」

 軋むベッドに腰を下ろしたウラサスが続ける。

「借金の取り立てみたいに早朝に押しかけやがって、今日は何の用だ?」

 昨夜は帰って来てからすぐに寝たのだろうか。Tシャツにジーンズというラフな服装のまま、ウラサスは更に続けた。

「ネプチューンの土産話か? 随分とお急ぎで……」

 するとロザリスはジャケットの内ポケットから昨夜の封筒を取り出して言った。

「それもあるが、急ぎで送ってもらいたい情報がある……頼めるか?」

「……当然だ。俺はその為にここにいるんだ」

 ウラサスは口元に笑みを浮かべて続ける。

「お前が急ぎで——なんて言うのも初めてだな……やっと何か動いたか?」

「ああ……やっとさ。俺はその為にここにいるからな」

「じゃあ俺も初めて頼みたい——その急ぎの情報ってやつを教えてくれ」

 そう言ったウラサスの目は、いつの間にか、すでに眠気に包まれたものではなかった。

「……ただ情報を流すだけ——それがあんたの仕事だ。それ以上は——」

「サターンの土産話を聞くか?」

 ロザリスの言葉を遮ったウラサスが声を落として続ける。

「俺もただの情報屋でいる訳にはいかなくなったのさ……」

 一体……何が……? ——そう思ったバスコノフだが、なぜか二人の間に入ることは躊躇われた。

 表情を変えないロザリスを前に、ウラサスが続けた。

「ネプチューンだけなら一〇日は早く帰ってこれたぜ。俺はずっと、俺とお前がここにいることに疑問を持ってきた……お前はもう忘れたか? 偶然にしては出来すぎだ——だから俺も、本国のジャーナリスト仲間に頼んで色々調べてもらったよ」

「…………」

「——ファード・エスさ——サターン陸軍最高司令官……そいつが正規の任務じゃないと言ってお前を指名したんだろ? しかもお前の過去を知った上で……それをお前に伝えれば、お前も断りにくい……でも、お前の過去を調べる必要はないはずだ……何か、おかしいと思わねえか? ご丁寧に俺まで動かしやがった」

「どういうことだ?」

 すると、ウラサスがゆっくりと応えた。

「……ヴィスコントさ……」

 ——ロザリスの、目が変わった。

「……ルキノ・ヴィスコント……“あいつ”に殺された、いわばお前の親玉だった男さ……繋がってたんだよ。ファード・エスとな」

 ロザリスが頭を軽く下げて床に視線を落とした。バスコノフにとって、それは初めて見るロザリスの姿だ。明らかにいつもと違う、冷静さを保っているとは思えない様子だった。

 ウラサスもそれは感じとっていたが、構わず続ける。

「ヴィスコントは前の戦争が始まる前に陸軍大臣をしてた。その頃に、お前の親父さんを逮捕した陸軍の特殊部隊を指揮していたのがファード・エス……繋がってきただろ?」

「……つまり……」

「つまり……ファード・エスがヴィスコントの意思を引き継いだってことさ」

「…………」

「俺もお前もウマく利用されたんだよ……丸め込まれたってことかな。ファード・エスにとってはお前との繋がりが出来て、しかも俺とのコンビで諜報活動がうまくいけば最高さ。後は戦後に利用するつもりなんだろ。とりあえず死なれないことだけを祈ってるだろうよ。戦場よりは死ぬ確率も低いだろうし……」

 身代わり……——ロザリスの頭をその言葉が過ぎった。

「まあ、身代わりをよこすまでは何年もかかったが——」

 ウラサスはドアの傍に立っているバスコノフに目をやり、ロザリスに視線を戻して続ける。

「お前が危険なことばかりするから、さすがにヤバいと思ったかな。ただ……正直俺も信じられない部分もあったよ……あまりに出来すぎだ。だからネプチューンから逃げるようにサターンに入って、自分で裏を取った。だから……諦めろ…………」

「……だとしても……」

 低いロザリスの声……。

「命令は命令だ……」

「その成果が、その情報か? 俺も他人事って訳にはいかなくなったからな……それに、その情報のプラスになるかもしれねえぜ。ネプチューンの土産話はな……」

「かなり、ヤバそうだな……」

 そう言ったロザリスは、ゆっくりと顔を上げた。その目を見ながらウラサスが応える。

「ああ……かなりだ……国内情勢はボロボロさ……大国だってことも忘れちまうぜ。首都のあちこちにまでホームレスが溢れてやがる……社会主義国家独特の秘密主義ってやつで情報が漏れにくいだけさ。元々貧富の差は明確にある国だったが、戦争が始まる前はあそこまで酷くはなかった……金だけじゃない。資源もだいぶ枯渇してるようだ。もちろんビーナスとリゲルからの流入があるのは事実だが、去年の中頃からその量は激減したらしい……どの国も厳しいってことかな」

「確かにな……」

「今回の戦争は……どうやら長すぎたようだ……」

 ウラサスの目の前に、ロザリスが封筒を軽く放り投げた。

 その封筒を拾いながら、ウラサスが続ける。

「今回は……関わらせてもらうぜ」

 ドアの傍に立つバスコノフは、ウラサスが封筒から書類を出す様を黙って見続けた。

 書類に目を通し始めるウラサス——。

 一枚……また一枚……二五ページに及ぶその書類を、ウラサスは決して焦らず、ゆっくりと読み続ける。

 時間が経過していった——。

 ロザリスは背中の窓から入っていた強い朝日がいつの間にか動いていることに気付き、その窓に顔を向けた。自然とその目は机の上で止まる。雑然としていた。手垢と共に擦り切れたカバーの本——書きかけの原稿——手で丸められた紙——角の擦れた未使用のフィルムの箱——現像を待つフィルム——傷だらけのカメラ……粗野な男だが、根が真面目なことはロザリスにも分かっていた。

 この男も、この男なりに世の中を憂いている……——ロザリスはそんなことを思いながら、手垢にまみれた古い本を片手でパラパラと捲った。

 “戦争の中の革命”……著者は、ウラサス・バーク自身だった。

「これは——」

 本を手に取ったロザリスが続ける。

「——アンタが書いたのか……?」

 すると書類の最後のページを読み終わったウラサスが、少し間を空けて、ゆっくりと顔を上げて応えた。

「昔の本さ……大して売れなかったよ。残ってるのはそれくらいじゃないか? 誰も覚えちゃいないさ……それより——」

 ウラサスは軽く書類を持ち上げて続ける。

「こいつの出所は?」

 ロザリスは本に目を通しながら応えた。

「ネプチューンの外交官だ——しかし外交官でありながら諜報員でもある。偽名を使って密入国を繰り返してたのを押さえたのさ」

「押さえた?」

 ウラサスがバスコノフに視線を向けると、バスコノフは素早く目を逸らした。

「まあいい」

 ウラサスは、本を読み続けるロザリスに目を戻して続ける。

「つまり……これに書かれてる外相会談が行われれば、この戦争は終わるってことか?」

「非公式の外相会談ではあるけどな——」

 ロザリスは決して本から顔を上げないままに続けた。

「シナリオはこうだ——まずは国際連合の中心の一つであるビーナスが、戦争の長期化を憂いて停戦をマースとネプチューンに提唱する——国際連合の中心である三国の内でマースとネプチューンが戦争をしてる訳だから、唯一残ったビーナスがそれを提唱するとしても世論は何の疑問も持たないだろう。マースとネプチューンが、世界の国々の為に——と、あっさりと停戦協定を受け入れてもな……どこの国も疲れてる……これ以上の戦争の長期化は誰も望んではいない……しかしその資料が本物だとすれば、それには“裏”がある。一番戦争を続けたくないのはマースとネプチューンだ。マースも参戦国が増えたとは言っても、こう戦争が長引けば参戦国に対する支援だけでも台所は火の車だ。しかも国内の反戦活動も相当大きくなってるらしい。世論もそっちに傾いてるしな。ネプチューンはあんたが直接その目で見てきた通りだ。ネプチューンにとっては頼みの綱であるはずのビーナスとリゲルからの影の支援を切られることは、可能性として敗戦を意味する。そしてここからが大国の思惑だ——マースもネプチューンも負けを認めたくない。しかもどっちも、戦争をやめたい本当の理由を、世間には知られたくない。ビーナスが仲介する形で停戦協定に持ち込めば、恥もかかない。ビーナスもマースとネプチューンに恩を売れる……」

「……つまり……」

「戦争なんて……大国のシナリオ通り……外交の延長線上に過ぎないってことさ……勝つ国が無ければ、負ける国も無い……」

 少しの間、誰も口を開かなかった。

 まだ朝も早い為か、外からの音も静かだ。

 ウラサスはベッドに腰掛けたまま床を眺め、バスコノフは立ったまま同じく足元に視線を落とし、ロザリスは依然座ったまま本を読み続ける……。

 やがて、口を開いたのはウラサスだった。

「……結局……大国の手の上で転がされてた訳だ……」

 すると、呟くようにバスコノフがそれに応える。

「俺達の……仲間の犠牲は……何だったんですかね……」

「国民の犠牲もな……」

 ウラサスがそう応えると、次に口を開いたのはロザリスだ。

「……暇潰しか……人減らしか……」

 すると、バスコノフが再び呟くように言った。

「国家は……国民の為にあるんじゃないんですか……?」

 ロザリスもウラサスも、何も応えない……。

 バスコノフが続ける。

「大国の思い通りになんて……納得が——」

 その言葉は、ロザリスが本を閉じる音で遮られた。

 ロザリスは顔を上げて立ち上がると、静かに、本を机に置いた。そのロザリスにウラサスが話しかける。

「この情報……流さない方がいいんじゃないか? 流しても黙殺されるのがオチだ。かえってお前の身が危険になるかもしれねえ……どうせサターンの上層部はマースから話くらい聞いてるさ。それよりお前が国に危険視されたら——」

「結構だ——」

 そう言って続けたロザリスは、毅然としている。

「俺は……外相会談を潰す——」

「潰す? そんなことしてどうすんだよ——!」

 ウラサスが声を荒げて続けた。

「そんなことしたって——今は戦争を終わらせることが一番じゃないか——! 悔しくたって納得がいかなくたって、まずは終わらせようぜ。このままじゃサターンの財政だってマースに食い尽くされちまうぞ。どうして終わらせちゃいけないんだ。何がしたいんだよお前は——!」

 ロザリスは背中でその言葉を聞き、言った。

「“戦争の中の革命”か……“革命の中の戦争”なのか……まだ分からなくてな……」

 ロザリスはドアに向かって歩き始める。

「行くぞバスコノフ」

 そう言われて、バスコノフは少し慌てたようにドアを開けた。先に外に出たロザリスから、バスコノフは視線をウラサスに戻す。

 ウラサスは俯き、バスコノフからその表情は見えない。しかし、左手に強く握られて潰れたようになっている書類の束は、微かに震えていた。

 バスコノフはそのウラサスから視線を外せないまま、ゆっくりとドアを閉めた…………。



 輸送ヘリの窓からは、すでに外は暗闇に見えた。

 元々、天候の為に日中でも薄暗かったことを考えると、今は夕方くらいだろうか。山を越えてから、確かに雪と風は弱くなってきた。地形の造り出す気候の変化を感じながらも、スタコブはイザルの領空にだいぶ入り込んでいることに脅威を感じていた。

 事態は何も動かないまま……スタコブは決断を迫られていた。

「どうする?」

 銃を向け合うウォーフの言葉が繰り返される。そのウォーフが続けた。

「俺達と共に亡命するか……捕虜となるか……」

 スタコブは応える。

「俺達を降ろせ——」

「おいおい——」

 すぐに言葉を返してきたコンツァードが、苦笑いをしながら続けた。

「ここがどこだか分かってるのか? 極寒の山の中だぞ。しかもあんな高い山脈なんか越えられるものか——凍え死んじまうぜ。気が狂ったのか少尉」

「いや……今すぐ降ろせ……」

 スタコブの口調はあくまで冷静だった。

 しかし、体の横に下ろしたままの左手の指が動いている——それに気が付いたのは斜め後ろのアルクラスだけだった。指だけを動かし、何かをアルクラスに伝えようとしていた。

 何度も左右に動く指……しかし、その意味がまだアルクラスには分からない。しかし他には誰も気が付いていない……。

 意味は……少尉は何を…………。

 そのスタコブが続けた。

「どうせ亡命するんだろ? なぜ俺達にこだわる……こんなことしてないで、静かに行きたくはないのか? それとも、亡命の人数をイザルに伝えておいたか?」

 ウォーフが応える。

「俺達は名誉の戦死をしたいのさ。だからお前らを生きて帰すわけにはいかない……分かってもらえないか少尉……俺達に引き金を引かせるな」

「どうせ外に出たら死ぬんだろ? 引き金を引かずに俺達を殺せるじゃないか」

「ダメだ……あんたなら生きて帰れる。生きて帰るつもりなんだろ? ダテに長い戦歴じゃないはずだ」

 指の意味は——? アルクラスは考え続けていた。

 降りる……? どうするんだ……?

「じゃあ、殺すか?」

 スタコブのその言葉に、初めてウォーフの銃口が微かに動いた。

 それは見たスタコブは更に続ける。

「すでに若いのを一人殺してるしな。……どうする?」

 ウォーフは応えない。

 コンツァードも黙っていた。

 ガランはウォーフとコンツァードに交互に銃口を向けたまま……。

 新兵二人は一人の死体を見て震え続ける。

 アルクラスは考え続けた……どうすればいい……。

 突如として、そのアルクラスの背後の声が静寂を破った——。

「……俺は、行きます……」

 新兵の一人——震えた声だ……。

 スタコブとガランの間をゆっくりと通り、やがてコンツァードの近くに歩み寄る……彼もまだ若い……。

 コンツァードが口元に笑みを浮かべるのを、ガランは見逃さなかった。

 アルクラスの後ろでは、もう一人の新兵——サッカス・バルがそれを呆然と見る。その目は明らかに怯えている。

 “革命”に対する憧れだろうか……アルクラスの中に、やり切れない感情が沸き起こる……。

 なぜ……何が正しいのか……何が間違っているのか……。

 それを教えてくれるのは……?

 ウォーフか……スタコブか……アルクラスの頭の中で“恐怖”が渦巻いていた。それは嫌悪感か、それとも懐疑心か、今のアルクラスにはそれを確かめる余裕すらない。

 ただ、怖かった——。

 スタコブの声が、アルクラスの耳に届いた。

「——アルクラス……頼んだぞ……一気にいけ——」

 一気に——?

 …………——————!

 スタコブはウォーフを睨みつけ、銃口を向けたまま——。

 ウォーフの表情は、その言葉の意味を理解出来ずにいる……。

「——ガラン……コンツァードだ——」

 ガランがハッとしたかのようにコンツァードに向けて銃口を動かした時、アルクラスの耳にスタコブの右手人差し指の動く音が聞こえた——。

 引き金にかかった指に力が入り、引き金そのものに連動した部品が拳銃の中を大きく動き——拳銃独特のその音が、ゆっくりと、そしてはっきりとアルクラスには聞こえたような気がした。

 同時にアルクラスの体は、自然と動き始めていた——。

 辺りに、銃声が響き渡る——。

 その音にそれまで以上の恐怖を感じながら、アルクラスは機体横のスライドドアに向けて体を揺らす——。

 ウォーフが、その身を仰け反らした——。

 左目の下を掠めた銃弾は細く長い傷を作り、血を溢れさせる——。

 直後、ガランの正確な射撃がコンツァードの左肩を貫く——。

 そして、アルクラスがドアを一気にスライドさせた。

 出発した時よりいいとはいえ、まだ外の風は強い——その強い風が、大量の空気と雪を一気に機内に押し込む——。

 ほぼ同時に大きく機体は揺れ、明らかにそのバランスは崩れた——。

 スピーカーからパイロットの叫び声が微かに聞こえる中、全員の体が宙に舞う——。

 そのまま下からの強い衝撃が機体全体と全員の体を包んだ——。

 開け放たれた機体横のドアから、大量の降り積もった雪が雪崩れ込む——。

 やがて機体の動きが止まり、静かになった…………。

 そして、全員が生きていた…………。

 強い衝撃とは言っても雪がクッションになったのだろうか。全員が気を失うことなく動いていた。

 それを最初に確認して動き始めたのはスタコブだった。ガラン……アルクラス……サッカス……雪に埋まりかけた三人を助け、三人が外に出たのを確認すると、スタコブも外に這い出る。

 しかし左足を痛めたらしく、つまずくように倒れたがすぐに上体を起こし、スタコブは機内を振り返った。上半身だけを雪から出して動けなくなっているウォーフと目が合う……左目の下には出血の後があるが、それほどの深い傷ではなかったらしい。その背後では雪の中で脱出を試みるコンツァードと若い新兵が躍起になっていた。コンツァードの左肩は重傷のようだ。

 スタコブはなんとか立ち上がって外に出ると、機体横に緊急用に備えられている発煙筒を一本——少し躊躇ってからもう一本取り、他の三人を促した。風雪は容赦なく体を叩き付けてくる。

「行くぞ——あいつらなら——」

 スタコブのその言葉と同時に、風の音に混ざって遠くからのプロペラの音が四人の耳に届いた。そしてスタコブが続ける。

「——あいつらは大丈夫そうだ——行くぞ!」

 輸送ヘリからの信号に応えたイザル空軍のヘリだろう。そのプロペラ音がしだいに大きくなる中、その音を背に四人は走った。

 深い新雪——膝をいくら高く上げても、すぐ目の前が遠い……加えて横殴りの雪と、それをもたらす風が四人の逸る気持ちを阻んだ。

 背後のプロペラ音がしだいに小さくなっていく。ウォーフ達を収容したのだろうか。四人はそれぞれにそう思いながら、同時に緊張が高まるのを感じていた。

 このままでは追いつかれる……。

 やがて、再びその音が近付いてきた——。

 全員の神経が張り詰める——。

 どうする……? その言葉が頭を巡ったのはアルクラスだけではないだろう。

 ガランとサッカスはライフルを持っていたが、スタコブとアルクラスは拳銃だけだ。とても対抗できる装備ではない。

 その時、アルクラスの目の前を行くスタコブが発煙筒に火を点け、更に前方に大きく弧を描いた——一つ……二つ……。

 こんな所で——?

「少尉! こんな所で——!」

 背後から叫んだのはガランだった。尚もガランが続ける。

「敵に見付けやすくさせるだけだ!」

「気が付かなかったのか!」

 そう叫んだスタコブは、歩幅を緩めて続けて叫ぶ。

「俺達が出発する時にもう一機が準備してたんだ! あの発煙筒はSOS信号も送れる! 必ず見付けてくれるさ!」

「それで——」

 ——後ろを来てるとは限らない——アルクラスは思った。

「行くぞ!」

 ガランの言葉を遮ったスタコブが再び走り始めた。三人が後に続く。

 しかし容赦なく背後からのプロペラの音は大きくなっていった。その音はしだいに風と共に四人を包み込んでいく。

「ダメだ——!」

 ガランのその言葉が聞こえた直後、四人の頭上を巨大な輸送ヘリが通り過ぎる——。

 しかしまだ背後からのプロペラの音——そして二機目が頭を掠める——。

「二機もかよ!」

 再びガランが叫んだ。

 イザル陸軍の二機の輸送ヘリは、サーチライトを揺らしながら四人の頭上を回り始める——。

 自然と四人の足のスピードが落ちていく……諦めや絶望感がしだいに沸き起こる……。

「向こうが発砲するまでは撃つな! 諦めるな!」

 スタコブの言葉が響いた。

 しかし旋回をしながら高さを落としてくる二機の輸送ヘリの精神的な圧力は相当なものだった。

 懸命にライフルを構え続けるガラン——。

 サッカスは足が止まる——ライフルの銃口は下を向いたまま……。

 アルクラスの足も、止まった……両手で拳銃を握る——。

 すぐ頭上の輸送ヘリ——。

 アルクラスの両腕が上がる——。

 振り返ったスタコブが叫んだ——。

「ダメだ! 撃つな!」

 空に向けて銃声が繰り返された——。

 ガランがアルクラスに向かって走る——。

 スタコブも空に銃を向けるしかなかった……。

 輸送ヘリからの重機関銃の音が響き渡る——。

 辺りの積もった雪が小さく弾ける中、ガランがアルクラスを押し倒した——そしてすぐに立ち上がるガラン——ライフルを構えた——。

 輸送ヘリの一機が積もった雪スレスレまで降りてホバリング飛行を始めた時、四人の緊張と恐怖は更に跳ね上がる——。

 ゆっくりと前進しながら重機関銃を向ける輸送ヘリに、雪の中から起き上がったアルクラスは引き金を引き続けた——。

 スタコブもそれに続く——。

 ガランとサッカスもライフルを撃ち続ける——。

 そうするしかなかった……。

 アルクラスの頭から、やがて恐怖が消えた……張り詰めた緊張など、もはやそのカケラすらない……辺りは静かだった……目の前の光景は何も変わらないのに、なぜかアルクラスにとっては静かだった……周りのいくつもの銃口からは不規則な光の点滅が繰り返され、アルクラスには、それすらも輝いて見える……。

 相手は動いていた——四人の銃口も動く——。

 弾倉の交換を繰り返しながら、アルクラスは撃ち続ける——。

 しかしアルクラスは、その銃口の先にガランの姿が現れたことに気が付かなかった…………。

 腰を落としてライフルを構えていたガランが、アルクラスの目の前で倒れる…………。

 血飛沫が見えた……強い風の中でも、ゆっくりとその血飛沫は飛び散る……ライトに照らされた真っ白な雪を赤く染め、その輝きを増した…………。

 誰もその傍には近付けない——。

 駆け寄ってやることすら、出来ない……。

 スタコブの銃声が止まった——。

 アルクラスの指も止まっていた…………しかし、何が起こったのか、考えられるだけの意識はない……。

 輸送ヘリからの銃声が止まる——。

 アルクラスの耳に、足音が聞こえた……雪を踏みしめる、あの鈍い音だ……アルクラスの体と腕が、自然と動いていた……。

 ……引き金を引いた時、目の前の、歩み寄ってきたサッカスの足が止まったのを、アルクラスは理解した…………。

 サッカスの体が崩れる…………。

 スタコブが動いた——アルクラスに背後からしがみつく——。

 アルクラスの指は動き続けていた……しかし銃はブローバックしたまま……弾倉は空……。

 スタコブは何も言わない……後ろから体を押さえつけ、アルクラスの手から銃を外す……。

 直後、突如として二機の輸送ヘリが動いた——現場から急速に離脱していく二機の逆方向から、別のライトとプロペラ音が現れる——スタコブにとっては、聞きなれたサターン陸軍のヘリの音だ。それはウォーフ達の動きを上に報告していた結果だった。

 助かったのか……——それがスタコブの本音だった。

 助かった……? 何がだ…………?

 ヘリが近くでホバリングを続ける。柔らかい雪のせいで着陸が出来ないのだろう。

 スタコブはアルクラスを抱きかかえるようにしてヘリへ誘導する。

 そのアルクラスの表情は、完全にいつものものとは違った……スタコブは、自分が誰を抱きかかえているのか、完全に分からなくなっていた…………。

 誰だ……この生気の無い目をした男は誰だ…………。

 何が起こった…………。



 マース・サターン連合軍ベースキャンプ——。

 辺りはすっかりと闇に包まれているが、景色を覆い隠すような灰色の雲が、その漆黒の闇を和らげる。辺りを埋め尽くす雪が僅かな光を雲に反射させる。加えてこの時間でもまだ収まらない雪と風が、常に真っ白な雪を運び続けていた。

 サターン陸軍、イザル戦線司令部、仮設指令室——。

 ベースキャンプに到着するとすぐ、スタコブは報告に赴いた。

 仮設とはいえ、簡易組み立て式ではあるが頑丈な物だ。地面への固定もかなり強固な物ではあったが、それでも強い風はその建物をビリビリと震わせた。一〇人は余裕で入ることの出来るその指令室内に、今はスタコブと司令長官だけだ。五〇才を過ぎたばかりで前線を任されることになった新任の司令長官は、黙ってスタコブの報告を聞き続けた。

「……以上です……」

 語気も重くスタコブがそう言うと、司令長官はすぐには何も応えず、しばらく目を閉じたまま一人で考え続けていた。

 その時間の長さが、スタコブには重い……。

 やがて、司令長官が目を開き、ゆっくりと口を開いた。

「とりあえず、偵察を彼が買って出た段階で私も怪しいとは思ったよ。以前の君からの報告があったからね……もう一機出しておいて正解だったな。まあ……結局逃げられはしたが……」

「申し訳ありません……」

「いや、君のせいではない。君の報告を聞いた限りでは、誰かにどうこう出来た状況ではないだろう……それよりも、だ……彼の件だが——」

「……はい……」

「やむを得ない……状況だった、ということだな……?」

「はい——雪と風で視界も悪く……加えて敵機からのライトも眩しく……自分も——」

「まあいいだろう。彼は今——」

「医療テントです。外傷はそれほど問題は無いのですが……精神面で、少し……」

「戦線には復帰出来そうかね……?」

 スタコブはすぐには応えられず、しばらく考えていた。

 すると司令長官が続ける。

「君が無理だと判断するならば……」

 そして、スタコブはその言葉を受け取った。

「——無理だと思われます」

「分かった。明日の朝——後退する部隊と共に本国に送り返すが、それでいいな?」

「はい、ありがとうございます」

「それと君だがスタコブ少尉——」

 その間が、スタコブを身構えさせる。

「三階級の特進でいいかな。君を少佐に任命しよう」

 …………。

「不満かな?」

「……いえ……ありがとうございます……」

「明日の部隊編成まで今夜はゆっくり休め。それまでに任命書は用意しておく。君も長い間、陸軍の為に尽くしてくれたベテランだ……そろそろ報われてもいい頃だろう……その代わり、分かってると思うが……」

 友軍誤射——軍隊にとっては当然望ましいものではない。加えて兵士数名の亡命……。

 スタコブに対する優遇程度でそれが黙殺されるなら、軍隊にとっては安いものだ。上層部の指揮系統、兵士の士気——組織の内部問題はあらゆる所に波及し、多くの形で影響を及ぼす。戦争の長期化でどの国の軍隊も疲弊を続け、最大の問題が兵士の士気になりつつある現状の中で、それを更に加速させるようなトラブルは何としても避けたい——それが軍隊の本音なのだろう——スタコブはそう思った。

 アルクラスがどうなるかは問題ではない……。

 喋ることが出来ないなら、その方がいいのだ……。

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