02 あげぱんはお腹が減っている


 胸元にハートの飾りのある薄紫のブラウスにサスペンダーのついた黒いフリルスカート。首には自身のアルファベットであるSが刻まれた黒いチョーカーをし、気持ち地雷よりの服装に身をまとって玄関を開ける。

 うららかな日差しを受け、つま先立ちで背を伸ばすと深呼吸。

「うーん気持ちの朝」

「もう昼ムギよ」

 パイスラさせた黒いショルダーバッグから、ちょこんと顔を出してキンムギがぼやく。

「すずなが起きたときが朝なんだからいーの。それより外ではちゃんとお人形さんのフリね」

「分かってるムギ。今の人類にボクを受け入れるのは難しいムギからね」

 お願いね、と返して軽快に歩き出す。

 土が固められた駐車場を抜けて、やみなべ荘の敷居に差し掛かると「ワン!」と元気に吠えられた。

「お、あげぱんは今日も元気だねぇ」

 アパートの脇に建てられた小さな犬小屋の前で興奮気味にしっぽを振る一匹の雑種犬。よく焦げた茶色とよく肥えた身体からやみなべ荘の住人からは「あげぱん」と呼ばれていた。

「よしよーし良い子だねぇ」

 頭をなでるとハァハァと荒い気遣いが甘えた遠吠えに変わった。

「ごめんねぇ今日はあげれそうなモノ持ってないんだぁ」

 そう告げたもののすずなのショルダーバッグを凝視するあげぱん。

「ねぇこの子キンムギに気付いてない?」

「勘の良い動物には気付かれることがあるムギよ」

 へぇ、と自分事のように喜んであげぱんを抱き上げる。

「やったねあげぱん。キミは勘が良いってさ」頬っぺをすり寄せると「違うハンターだ」と野太い反論が背後から。

 振り返れば、日光を反射する坊主頭に黒いサングサスをかけた男が立っていた。大柄の体格にラフなTシャツでも隠しきれないかっこの良い恰幅。紺色のキツそうなジーパン。服装は普通ではあったが強面の人相のため明らかにカタギには見えない彼は、

「ハゲさんおはよー」

「違うヒデだ」左の眉をピクリと上げ、諦めるように「いい加減オレの頭を見て名前を言うのをやめてくれ。これでも大家だぞ」と。

「えーでもそっちの方が分かりやすいと思うけどぉ」

「あのなぁ分かりやすくてもハゲは蔑称だ。そんなことよりオレがここに来た意味、わかるよな?」

 頭頂部の輝きで脅すようにズイッと一歩前に出る。

 その輝きに負けず劣らず、あげぱんを降ろして両手を胸の前で組んですずなも身を乗り出す。

「え? まさかすずなに貢いでくれるの? 嬉しぃ!」

「ふざけるな逆だ逆! お前先々月から家賃払ってないだろ!」

「あれぇえ? そうだっけ? 先月は払ったような……」

 その不貞不貞しいほっぺた引っ張るヒデ。

「こっちは毎月振り込み確認してんだ。誤魔化しはきかんぞ」

「あーい、すひはへーん」

「やれやれ。すずなちゃんは本当に都合の悪いことを忘れるのが天才ムギね」

 ため息混じりの小声でつぶやくキンムギ。しかしすずなはそれを聞き逃さなかった。

「あ、そういえば昨日のおつまみのビーフジャーキーがバッグにあるけどあげぱんにあげて良い?」

 あげぱんの円らな黒い瞳がキラリと光ってバックにガブリ。

「ァィタタタタタ! 痛いムギ痛いムギよ! 何するムギかこのバカ犬!」

 ごそごそと騒ぐバッグを押さえ付けてすずなは笑顔でギュッと肩紐を握った。

 慌ててハンターもといあべぱんを引っ張り無理矢理にバッグから剥がすヒデ。

「おい! 焚き付けやがったな。ハンター。いいか酒とヤニの染みついたすずなのバッグになんて噛みつくんじゃないぞ!」

「ハァハァ身体に、穴開いたムギ……」

 キンムギ、息も絶え絶えで顔を出す。

 すずな、楽しそうに見下ろして舌を出す。

 そんな和気あいあいとした三人の横を人影が通り過ぎる。

 まだあげぱんに躾をしているヒデを置き去りにすずなは小走りにその人影を追った。

「あっ待て! 逃げるな!」

 待てと言われて待つすずなではない。

「大丈夫ー。今月中は払うから安心してー」

 そう叫ぶとやみなべ荘をあとにした。


 平日の日中。人の少ない明るい住宅街で、追いついた人影の肩をよっと叩く。

「おはよーすいちゃん!」

 柔らかい挨拶に、人影はショートヘアをかき分け耳のイヤホンを外した。

 グレーのチャイナTシャツに裾の広いドレープパンツ。すいちゃんと呼ばれた彼女はやみなべ荘の104号室の住人だ。

「すずちーまたヒデさんと揉めてなかった? 家賃滞納してるの?」

「えへへー。ついうっかり……」

 反省した様子のない笑顔に苦笑うすい。

「そのうちホントに追い出されるよ?」

「まぁその時はその時かな。ところですいちゃんどこい行く?」

「大学。それが終わったらバイト」

 バイト? とすずなは首を傾げた。

「確か男装喫茶だっけ? すずな、すいちゃんみたいな彼氏だったらほしいなぁ」

 残念ながら、その褒め言葉はすいにとっては地雷だった。

 曇る顔色。止まる足。声量大きく、

「おい誰が女子トイレに入ろうとしただけで注意されるほど女に見えない貧乳だって?」

 早口にまくし立てるも誰も胸の話はしていない。

 女性にとっては親しい間柄でもデリケートな問題に、しかし自身の胸を揉んで

「ほれほれぇDカップが羨ましいかぁ」

 不適な笑みで煽りかける。

「羨ましくねぇよ恨めしいよ!」

 と叫んですずなの胸をガシリと掴む。

「ぁあん♡ すいちゃんは強引ねぇえ」

「うるさいもげてしまえ!」

 逃げるように早足で歩き出したすいをすずなが楽しそうに追いかける。

「大丈夫だよぉ、貧乳はステータスだよぉお」

「もうそんな時代は終わったわ!」

「そっかぁ。じゃぁお互い自分の欠点を受け入れてくれる彼氏見つけようね」

 欠点、という言葉にすいが冷静になった。

 すいは大学生でありながら親の助けを借りずに生活費をバイトで稼ぎなんとか一人暮らしをしている苦学生である。もちろん家賃も滞納していないし、したことすらない。酒もタバコもやらなければ賭け事もしない。名家の生まれでそれなりに常識がないわけでもない。

 それに付け加え隣にいるDカップはと言うと、酒にタバコにその上滞納の常習犯で生活も自堕落。

 取り柄といえば、幼さの残る愛らしい童顔と少女然とした華奢な声。

 さて男はどちらを選ぶだろうか。

「アル中でヤニ中でパチンカスのすずちーに彼氏は無理じゃね」

「あーひっどーい、すずなパチンコは卒業したよぁ」

 上から見下し鼻であざ笑うすい。

「だとしてもアル中とヤニ中で十分役満だわ」

 しばしの無言。気まずい沈黙。

 すずながボソリと呟いた。

「……エトルタ海岸」

「おい誰が絶壁だ誰が!」

 そんな小競り合いを繰り返しながら繁華街へと歩く二人。すいの大学は隣町のため、駅前の手狭なロータリで別れ、一人になったすずなはポンとバッグを軽く叩いた。

「さーて、行きますか」

 覚悟の決まったその声にバッグの中から了解の返事が届く。

「了解ムギ。準備OKムギよ」

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