35.

 入谷の様子がおかしくなったのは、別に悪霊や悪魔のせいではないらしい。もちろん、薫子も美祈子も関係ない。

「四日くらい前からかな。あの記者が亡くなったあとから、様子がおかしくなった。僕にも急に刺々しく噛みついてくるようになって、冷静に話ができない。どうも、幻覚が見えてるらしいんだ。僕には見えないから、あくまで『らしい』だけどね」

 園長は私にコーヒーを勧めたあと、戸棚からクッキーの缶を取り出す。洟を啜る私を宥めるように、蓋を開けて目の前に置いた。扱いが子どもと変わらない。赤い目をこすりながら、まんなかにイチゴジャムの載せられた懐かしい一枚を選んだ。

「君にしたのと同じ話をしようとしたけど、侮辱だと突っぱねられて終わった。幻覚と悪霊は別だって話すら、受けつけてくれない。だからって『休んでいい』と言うと陰謀扱いされるしね。本部から指示が出たはずだけど、それで余計に拗れたのかもしれない」

 種村に園長の情報を流したのは入谷だ。協力して記事を書かせ、榎木のように追放するつもりだったのかもしれない。しかしそれが叶う前に、種村は死んだ。不審な死に方に動揺したのだろうか。入谷の目には、何が見えているのだろう。種村の亡霊か。

「彼にとって、悪霊は信仰不足の象徴なんだ。教義に厳格に沿えば『神が傍にいれば悪霊など近づけない』からね。彼は自身の信仰に自信を持っていたけど、そこに内側からひびを入れた形になってしまった。違う解釈を認められないことが、余計に自分を追い詰めて首を絞めてる。最初はもしかしたら、揺れたカーテンの影を見間違えた程度だったのかもしれない。でも今の彼には、彼にしか見えない何かが見えてるんだろう」

 ソファへ腰掛け、園長はいつものように優雅にコーヒーを味わう。

 教義の根幹は、とにかく「信仰」だ。信仰があれば、行動も自ずとそれに見合うものになる。信仰と行動は常に結びつくものだから、「行動の間違い」はイコール「信仰の間違い」になってしまう。

 入谷は、園長や私に目に見えないはずのものが見えるのは信仰不足が原因だと信じていた。特に園長に対しては、厳しく追求をしていたはずだ。教義に徹する自分こそが正しくて、だから自分は見えないのだと思っていたのだろう。それが、見えるようになってしまった。足元から全てが崩れ落ちるようなショックだったのかもしれない。

「先生は、その辺の解釈はどうなんですか?」

「試練の時と役目がある場合は例外だと思ってる。主イエスだって、荒野の誘惑で悪魔にあれこれ言われてたでしょ。まあその辺を話し出すと長くなるからやめるけど、そもそも悪霊が避けて通るほどの人なら宗教なんて必要ないんだよ。宗教に頼らなくても自力で悟って生きていく。門を叩いた時点で、教義を必要とする時点でつけこまれるだけの弱さがあるんだ。だから教団も表立ってではないけど、こうして儀式を奉仕の一つとして認めてる。教義は基礎ではあるけど鉄則ではないんだよ。まあ、これも全部僕の捉え方だけどね。彼は『主イエスキリストのみが例外、神が傍にいれば試みになどあわせられない』と言うだろう。儀式なんてもちろん認めない。相容れないんだ」

「教義の捉え方一つで、諍いやこんなことが起きるんですよね。教義そのものは、悪いものじゃないはずなのに」

「教義は歪むことはない。人が歪めない限りはね。うちの教団だって、カトリックや主流のプロテスタントから見ればカルトと紙一重の新興宗教だよ。歪められた結果でしかない。その中ですら、解釈違いで諍いが起きる。みんな結局、自分の正しさを認めて欲しいだけなんだよ」

 園長は苦笑しつつ、カップを傾ける。私はぱさついたココア味の一枚をかじりながら、入谷の行末を考えていた。


 園長が隣で入谷と話をしている間に、私は教会を出る。一見しては変化の見えない景色を眺めて、ようやく安堵の息を吐いた。いつものように道路を渡ると、園から延長組の明るい声が聞こえる。ここは、今の私には眩し過ぎる場所だ。

「先生、岸田先生!」

 足早に行き過ぎようとした私を、背後の声が引き止める。振り向くと、副園長が玄関の階段を下りてくるのが見えた。

「久し振りね、具合はどう?」

 いつもの笑顔が、一瞬揺らぐ。「休職した時より具合悪そうじゃない。ちゃんと休んでるの」と聞こえた。思わず見据えるが、副園長は母のようないつもの笑みを浮かべているだけだ。

「……おかげさまで、少しずつ楽になってます。薬も飲んでますし」

「そう、良かった(じゃあやっぱり、帰ってくるつもりなの?)」

 幻聴、だろう。幻聴のはずだ。震え始めた指先で拳を作り、揺れる胸を静める。園長の言った「覚悟」がこれなのか。でもそれ以外にはないだろう。傍らで、重い空気が揺らいだ気がした。

「今日は、教会に用事?」

「はい、少し園長にご相談があって」

「そうなんだ(また呼び出し? あいつ、ほんと贔屓しすぎなの分かってるのかな)」

 柔和な笑みでの頷きとは相容れない辛辣な声に、いやな汗が噴く。

「あの、私がお願いしてお時間を割いていただきました。申し訳ありません」

「そんな、謝ることじゃないよ。仕事休んでたら不安なことも多いもんね(この子も、自分がどれだけ贔屓されてきたか分かってないんだろうなあ。お嬢様ってほんといいご身分だわ。あいつと結婚して、まとめてどっか行けばいいのに)」

 本音なのか、本音に似せた嘘なのか。信じたいのに、いやな汗が止まらない。適当なところで切り上げたいが、うまい言葉が浮かばなかった。もしかして、種村の話していたあれは。

――違いますが、信頼できる筋ですよ。

 あれは、まさか。私があの時、任意同行されたのも。

「岸田先生」

 聞き覚えのある声に、背筋が凍る。もう、耐えられないかもしれない。玄関から現れた高橋先生は、笑顔で副園長の隣に立った。

「顔が見えたから。園に用事だったの?(やつれてんなあ)」

「園長にご相談があって、お時間を割いていただいたんです」

「そうなんだ(まさか、もう戻って来るとか言わねえよな? せっかくクラスが落ち着いたとこなのに)」

 やっぱり、気のせいや一時的なものではないのだろう。美祈子が私の心を折るために。

「おかげさまで少し落ち着きはしたんですけど、もうしばらくは難しいと」

「そっか。でも体が第一だからね。無理しちゃだめだよ(良かった。また幽霊騒ぎでも起こされたらたまんねえって。このまま園長と結婚して辞めてくれよ)」

「そうだよ。子ども達だって、先生が元気になって帰って来るの待ってるんだから(まあ、定時定時煩いこの人よりは仕事はできるんだよねえ。どうせ今日もまた手抜きして帰るつもりでしょ)」

 私以外に向けられた矛先に、またぞくりとする。違う、これは美祈子が仕組んだ幻聴だ。

「大丈夫?(やめろよ、また救急車呼ばせんの? 迷惑掛けんのもいい加減にしろよ)」

 高橋先生が、心配そうに窺う。

「はい、大丈夫です。すみません、失礼します」

「ああ、つらいとこ呼び止めてごめんね。お大事にね(喋ってて倒れられたら、またあいつに何言われるか分かったもんじゃないし)」

「ゆっくり休んでね(ババア、考えろよ)」

 下げた頭を戻して確かめれば、そこにはよく知った笑みしかない。副園長は母のような笑みで、高橋先生は宥めるような優しい表情で私を見ている。

 二人とも、私が就職した当時から近くにいて、私を支え続けてくれた人だ。私は、信じない。

「いつも助けてくださって、ありがとうございます。ちゃんと治してきます」

 もう一度頭を下げ、返答は待たずにその場を離れる。こんなことで、折れるわけにはいかない。私が負けたら薫子も、美祈子も救えない。

 涙の滲む目元を拭い、胸に浮かぶ讃美歌を小さく口ずさむ。見上げれば溢れる眩しい光に、見えない神を探した。

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