18.

 岸田先生、と呼ぶ控えめな声に視線を上げる。

「休職届、確かに受理しました」

 形式張った口調で告げたあと、園長は書類を傍らへ置いて私を見た。

「これを、ご両親に連絡する気は?」

 俯くと、溜め息が聞こえた。

「卑怯を承知で言うけど、君にもし何かあればこの園で一番悲しむのは子ども達だよ。これ以上、あの子達を悲しませないで欲しい」

「……はい」

 保険を掛けた園長に、頭を下げて踵を返す。確かに今の私には、それが一番効くだろう。でも飲まれそうになったら、あの感覚にもう一度襲われたら、そんな保険はなんの妨げにもならないことも知っている。

「七時半に迎えに行くから、食べたいものを考えておいて」

 ドアに手を掛ける背後で、大人しい声がした。例え話かと思っていたが、そうではなかったのか。拒否はできそうにない要請に頷いて、ドアをくぐった。

 ドアを閉めて溜め息をつき、振り向く。目の前に入谷がいて、びくりとした。

「すみません、驚かせてしまって」

「こちらこそ申し訳ありません。真瀬牧師にご用事ですよね」

 ファイルを抱えた姿に、慌ててドアの脇へ逃げる。

 主任牧師は教会と園の仕事を抱えるが、副牧師は教会のみだ。土曜の夕拝は入谷が担当することが多く、仕事帰りや入谷の説教を好む教会員でそれなりの数を集めている。

「もうお仕事されて、大丈夫ですか」

「いえ、今日はもう……休職することにしたんです。ご心配をお掛けしました」

 今日どころか明日からも当分、私に任せられる仕事はない。入谷は、ああ、と気づいて頷く。入谷も園長と似たようなスーツ姿だが、いつもローマンカラーのシャツを合わせている。より牧師らしい服装だ。

「残念ですが、ゆっくり休んでまた元気な姿を見せてください。子ども達は、あなたの笑顔を待っていますから。助けが必要な時は、いつでも教会においでください」

 入谷は慈しむような笑みを浮かべて、私を労った。色白で肉づきの良い入谷からは、牧師向きのおおらかな印象を受ける。過去を聞いたところで、園長のように尖った話は出てこないだろう。最悪の事態を当たり前のように想定して、保険掛けするようなタイプではない。もちろん、それが悪いわけじゃない。

 では、と頭を下げて入谷は牧師室へ消える。ドアの向こうへ吸い込まれていく一瞬の鋭い目つきに溜め息をつき、踵を返した。これから、何かしらの議論が繰り広げられるのだろう。誹謗中傷を行う相手に真っ向から対決するのか、その相手のためにすら祈るのか、現実と教義の間で牧師室も揺れている。正しさとは、なんだろう。


 園にかかる電話や届くメールはあの翌日から一転して、誹謗中傷を詫びるものへと変わっていた。該当のマスコミやメディアも概ね、園長の要求どおり謝罪を掲載する予定らしい。既に掲載したネットメディアは「取材不足だった」「事実確認を怠った」と、故意ではないと言いたげな様子だった。

 とはいえ、即通報の強硬姿勢と併せて扱いにくい相手と認定されたのは間違いないらしい。遠巻きに園を窺っていた車も、完全に見られなくなった。

 発生から約十日、何もしなければ今もワイドショーを席捲していたであろう事件は、無事に風化へと向かい始めている。ぼんやりと眺めた話題はもっと扱いやすい、芸能人達のスキャンダルに変わっていた。私達には一大事だろうと彼らにとっては飯の種の一つにすぎなかったのだから、拘りはないのだろう。茶の間の興味も得てして同じほど、無責任なものだ。

 垂れ流していたテレビが再びニュースを伝え始める頃、ようやく園長の要請を思い出す。食べて薬を飲んで、寝る。たった三つなのに、死ぬほど面倒くさくて腰が上がらない。溜め息をつきつつ眺めた先で、かわいらしい女性アナウンサーが顔に似合わぬ訃報を口にした。

――自殺と見て、捜査を続けています。

 違う。幸絵が自殺なんてするわけがない。どんな死に方だったのかは知らないが、薫子に殺されたのだ。私も、一思いに殺せばいいのに。不意に熱を持った目頭を押さえ、腰を上げた。

 クラス分け会議の時、薫子は真っ先に引き受けた子だった。薫子は私を一番信頼していたし、私には喘息の経験もあった。幸絵はともかく、しょーくんにも頼られていた。誰も反対はしなかったし、なんなら安堵されていたかもしれない。子ども本人の場合はともかく、問題のある親を避けたがる職員は少なくない。時間外の仕事が増えるのは確実だからだ。

 四月になり、私が担任と知った時の薫子の笑顔が忘れられない。明るく輝いて、頬は喜びで紅潮した。私と手を繋いで飛び跳ね、抱きついた。

――せんせい、だいすき。

 まっすぐに向けられる愛情に幸せは感じても、疎ましく思ったことはなかった。

 確かに手は掛かったし、時間もとられた。要注意リストの子ども達の保育は、副園長への日々の報告はもちろん、児相とも連絡を取り合わなければならない。話は十分で終わることもあるが、一時間近く続くこともある。

 それに加えて通常の指導案の作成、道具の準備、掲示物や配布プリント作り、音源チェックやピアノの練習などもある。四月は、家に帰ると十時を過ぎていた。それでもがんばれたのは、子ども達がかわいかったからだ。薫子を守りたかった。一年もしくは二年、薫子にとって安全な場所でありたかった。

 でもそれは、叶わなかった。もしかしたら死ぬ前に、私を呼んだかもしれない。もし、と何度思ったところで喪った光は蘇らない。私は救えなかった。

 掴んだ藥袋をごみ箱へ捨てる。救えなかったのなら、死ねばいい。生きていればまた、同じことを繰り返すかもしれないのに。私は何度こんなことを……ああ、だめだ。胸がざわつく。

――「自分はこんな扱いを受けて当然の人間」だと?

 もうこれ以上、こちらに踏み込まないで欲しい。あの人は、私を救ってしまうかもしれない。それではだめだ。何がだめなのかは、分からないけれど。

 ジャージを脱ぎ捨て、適当に引っ掴んだワンピースを被る。園外ではふさわしくないみつあみを解いて、一つに結び直した。

 あとは食べたいもの……食べたいもの、か。

 言いつけに従い考えてみたが、思い浮かばないうちに電話が鳴った。

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