第34話 暗く湿った森の中 

「さて時間だから向かおうか」

アルとしていた他愛ないおしゃべりをそこで止める。

アブソレムは相変わらず空模様で時間を測るらしく、空を見上げていた。

「あれ?作った薬はどこ?」

周りを見回してもそれらしき荷物がない。

わたしはエプロン姿だし、アブソレムに至ってはキセルしか持っていない。

ほぼ手ぶらだ。

「薬なら俺が持ってる」

アルがそう言って背中を向けた。

その背中には小さな棚のような形の薬箱が背負われていた。

昔の薬売りが背負っていそうなものだ。

「え?アルが持ってくれるのね?」

「うん。そうでもしなきゃ、クロスの知恵の日に俺みたいなミナレット派なんて、連れて行く口実がないからさ」

ああそうか。竜狩りにばかり気をとられていたけれど、これはクロス派の祭日でもあるんだったわ。

確かにそれはミナレット派がいたら浮くだろう。そのために荷物持ちを装うというわけね。

「そんじゃ行くよ。ふたりとも手を貸して」

アルが両手をわたしとアブソレムへ伸ばした。

その手に自分の手を重ねる。驚くほど暖かかった。

「ヴォジャノーイの森」

アルがそう叫ぶと、周りの空気の流れが一瞬でぐわっと変わった。

ものすごい速さで周りに風が吹いているのが分かる。それなのにわたしたちのいる場所は完全に無風だ。ちょうど、台風の目のようになっているらしい。

あまりに風が強くて、目の前に空気の層が見えるようだ。

わたしは空いている手の方で空気に触れてみたくなったが、動かす前にアブソレムに手を掴まれた。

どうしたの、と彼に言おうとした瞬間、突然足元の地面がふわっと柔らかくなった。

あまりに急だったので膝からカクンと崩れそうになる。

あ、転ぶ、と思ったが、アルとアブソレムに同時にグイと引っ張られて倒れ込まずに済んだ。

「はい、到着!」

「え!?もう?」

アルがわたしの手を引っ張ったままとても良い笑顔でそう言ったので、わたしは驚いて辺りを見回す。

どうやら本当に到着したらしい。

見たこともない、暗い森の入り口が目の前にあった。

足元は葉幅の広い草で一面覆われている。このせいで地面が柔らかくなったと感じたらしい。

アルが荷物を降ろして異常がないか点検しているのを見ながら、わたしはアブソレムに声をかけた。

「すごいわね、一瞬だったわ」

「アルは腕がいいからな」

アブソレムはそれだけ言うと、わたしの手をじっと見た。

「……なに?」

「ミナレット派の風移動をしている間に外側へ体を乗り出すと、そこから先がなくなる」

それを聞いて一瞬で背筋が凍り、わたしは自分の両手を開いて確認する。

あの時アブソレムが止めてくれなかったら、確実に外側へ手を出していただろう。

「とめてくれてありがとう……」

わたしは自分の指が10本揃っているのを確認しながら、絞り出すような声でお礼を言った。



アブソレムの森は、きっとものすごく手入れされているんだわ。

わたしはヴォジャノーイの森の入り口を遠目から見てそう思った。

アブソレムの森は、鬱蒼とはしているが地面まで光が入るし、どの木も元気で生き生きとしていた。

色とりどりの実がなる木もあるし、まず葉の色がずっと明るい。

それに比べてここって、なんだかすごく嫌な感じがする。


目の前の森をじっくり見て、思わず一歩後ずさった。

よく観察しようにも、あまりに暗くて中がわからない。

じっとりとした湿気だけがただただ伝わって来る。

気温は寒いくらい涼しいのに、異常なほど湿気が高くて妙な感じがした。

木は何種類かあるようだが、どれもしんなりとして元気がないように見える。

ところどころに朽ちたり、倒れたりしている木もあった。

ここまで不快な森は始めてだ。

怖くなって、キセルを吸っているアブソレムに近づく。

「アブソレム、ここ……」

「言いたいことは分かる。この森は病んでいる」

森が病んでいる?

何かの病気に木々がかかっているということだろうか。

「確かにハシバミ竜はいるだろうが、余計なものまで居付いているようだ」

余計なものって何!?

毒蛇が出るかもしれないっていうだけで、精一杯なんですけど!

怖くなったわたしはアルに頼んで荷物を一度降ろしてもらい、地面にしゃがみ込んで中をゴソゴソと漁る。

毒蛇の毒に効くバーベインのエキスの入った小瓶を一本、ポケットに入れておこうと思ったのだ。


「アリスはそんなところで何しているの?」

荷物を漁っているわたしの頭の上に、少し高めのきれいな声が降ってきた。

この声はトーマだろう。

「トーマ?今、毒蛇の解毒剤を探してるのよ」

「へえ、解毒剤を作ってきたんだね?」

「うん……、そうなの。ちょっと待っててね……」

トーマよりも、今は解毒剤が優先だ。

顔を上げずに適当に返事をして、薬箱の引き出しを片っ端から開けていく。

薬箱には見かけよりもずっとたくさんの物が入っていた。

包帯や薬瓶の他に、よくわからない小物もある。

引き出しのひとつには耳栓のようなものがごっそりと入っているが、何に使うのだろうか。

結局バーベインの小瓶は、上段の観音開きの扉に収まっているのを見つけ出した。

「あったわ!」

小瓶を掴んで立ち上がると、やはり目の前にはトーマが立っていた。

前と同じ、育ちの良さそうな柔らかな微笑みを浮かべている。

「ほら見て、トーマ、毒蛇が出たらわたしに任せて!」

これわたしが作ったのよ、と小瓶を持ち上げた途端、周りの様子が目に入ってサッと血の気が引いた。

いつのまにか森の入り口には何十人もの兵士が到着しており、その全てがわたしとトーマに向かって跪いていた。

なんとアルまでわたしのすぐ側で跪いている。

悠々と立っているのはアブソレムだけだった。

わたしは目だけ動かして周りの状況を確認すると、泣きそうな顔でアブソレムに助けを求めた。

こんな状況、どうしていいかわからない。

アブソレムはわたしの助けに気がついたらしく、小さくため息をついてトーマへ声をかけた。

「トーマ、ここにいるアルは今回私達の荷物持ちだ。このままでは仕事がしにくい。一時的に彼も垣根の上に上げてくれ」

「ああ、そうだね。そうしてくれていいよ」

トーマの言葉を聞いて、アルがゆっくりと立ち上がった。

「ありがとうございます。私はミナレット派のアル=ティーラーと申します」

そうアルが顔を上げて挨拶した途端、横から冷たい声がした。

「貴様、ミナレットの者か」

声の主はトーマの従者であるストラだった。

気がついた時にはもう、アルの首元に細い滑らかな棒を当てている。

あの棒、確かわたしも向けられたことがあったわね。

なんの意味があるのかな?

「ストラ。アルはアブソレムたちの荷物持ちだ」

トーマが静かに声をかけて止める。

「でも、トーマ様!彼はクロス派ではなく……」

「ストラ。トーマ様が良いと仰っているんだ」

反論しようとしたストラを、筆頭護衛のフウゴが止めた。

フウゴは護衛らしく、上半身に鎧のようなものを身につけている。

前に店で会った時は襟の高い揃いの服を着ていたが、今日の方がずっと大きく強そうに見えた。

よく見ると、跪いている周りの兵士も皆鎧を身につけている。

いつもと同じ服を着ているのは、わたしたち3人と執事のリュゴ、それからトーマだけだ。

「は、はい……、申し訳ありません」

ストラは悔しそうに引き下がるが、目はまだアルのことを睨みつけていた。

その様子をチラッと見たトーマは、にっこりと微笑んだままストラに話しかける。

「君はここで荷物番をしていなさい」

ストラはバッと顔を上げて、泣きそうな目でトーマを見つめた。

顔色が真っ青だ。

「そんな!私も連れて行ってください!」

「聞こえなかった?」

有無を言わさないトーマの笑顔に、ストラは呆然としたままその場に跪いて頭を下げた。

体が震えている。

トーマがフウゴに向けて軽く頷くと、フウゴが兵士たちに森へ入る準備をするよう声をかけた。

一斉に皆が立ち上がり、各々準備を始める。


「あの姉ちゃん、前に店に来た人か?」

アルの言葉に、わたしは「そう。名前はストラよ」と返事をする。

「前見た時とは別人みたいに見えるな。大丈夫かな?」

確かにアルが見たのはいかにも上流階級と言った雰囲気の、ビシッとしたストラだったはずだ。

今は皆が立ち上がっているのに、1人だけしゃがみ込んだまま呆然としている。

心配になる気持ちも分かる。

「調子の良いストラと、悪いストラがいるみたいなの」

わたしはアルに向かって肩をすくめてみせる。

「今日は調子の悪いストラだったみたいね」

アルはふうん、と気の無い返事をしたあと少し迷ってから、ストラに声をかけに行った。

会話は聞こえなかったが、何か慰める言葉をかけたようだ。

ストラの呆然とした顔に戸惑いの表情が戻り、二言三言交わした後、差し出されたアルの手を取って立ち上がる。

その様子を見て、あんな態度を取られたのにアルって本当に優しいと、わたしの中のアルの株は急上昇した。


その後、フウゴの指揮で兵士が三隊に分けられた。

最初の二隊は既に出発しており、わたしたちの入っている隊だけが未だ入り口で待機していたらしい。

メンバーはいかにも手練れと言った風貌の兵士が10数名。

ここにトーマ、フウゴ、リュド、それにわたしとアブソレム、アルの3人が加わる。

要は最初の二隊が先にハシバミ竜を討伐して、最後にトーマが美味しいところだけ頂くというわけだろう。

さすがに王子様を前線に立たすわけにはいかない。

「時間だ。そろそろ行こう」

懐中時計で時間を計っていたフウゴがそう言った。

いよいよ森に入るのだ。

わたしは首から下がっている、魔石入りの革袋をギュッと握った。

兵士たちが前後に別れ、わたしたち一行を挟む形で進むことになった。

ここはサンテ・ポルタよりもかなり気温が低いと思っていたが、森の中に入ると余計にひやりと感じた。

アブソレムの森と違って、ものすごく歩きにくい。

整備されていない森はどこもこんな感じなのだろうか。

入ってすぐに大きな木が倒れていて、大股で飛び越えなければならなかった。

地面を這うように生えている大きな葉の植物や枯葉が、湿気を含んで靴にまとわりつく。

まるで沼地を歩いているようだ。

森はシーンと静まり返っていて、鳥の声ひとつ聞こえない。

静かすぎるくらいだ。葉擦れの音すらしない。

水気を含んだわたしたちの足音だけが響くように聞こえた。


「アブソレム。この森、なんだか気持ち悪い」

すぐ隣を歩いているアブソレムに小さな声で囁く。

アブソレムは分かっているとでも言うように目配せをした。

「木々が静かすぎる。何か悪いものが棲んでいるようだ」

「悪いもの?」

大きな水溜りを半ば跳ぶようにして避ける。

体勢を崩しかけた時、タイミングよくトーマが手を差し伸べて受け止めてくれた。

「あ、ありがとう」

「足場が悪いね。気をつけて」

トーマは王子様のくせに、障害も物ともせず平然とした顔で歩いている。

意外と箱入りではないようだ。

「この森、いつもこんな感じなの?」

「いや、いつもは全然違う」

後ろにいたアルが口を挟んだ。

「ここ、俺の母方の実家が近いから、小さい頃よく来ていたんだ。ミナレットの風使いの練習の場として重宝されていてね。その時はぶどうやコケモモの採れるいい森だった」

いつからこんなことになっていたんだ、と悔しそうな声が聞こえる。

「そうなのね。広い森なの?」

「ああ、そこそこ広いけど、このまままっすぐ北へ進むと、古い鉱山に当たるんだ。竜がいるとしたらその辺りか?」

アルが執事のリュゴに向かってそう聞いた。

確か知り合いだと言っていたが、ずいぶん気軽に話す仲のようだ。

「そうだね。情報によると、古い鉱山の中に巣があるらしいよ」

「うわっ、すいません!トーマ様に聞いたわけではなく……」

リュゴではなくトーマが返事をしたせいで、アルはあわあわと慌てだした。

トーマはにっこり笑って、構わないよと言う。

「君はリュゴの従兄弟だったよね?それなら信頼できる。普通に接してくれていい」

アルは面食らって黙り込んでしまった。顔が真っ赤だ。

まさかトーマが自分のことまで知っているとは思っていなかったのだろう。

何か会話を変えなければと、わたしはアブソレムに質問することにした。


「ハシバミ竜って、どんな竜なの?」

アブソレムは厳しい道でも平然とした顔で歩いている。

ガリガリなくせに、体力はあるのだから不思議だ。

「ハシバミ竜は賢く長寿だ。比較的温厚であまり危険はない」

「ああ、それを聞いて安心したわ。去年の知恵の日はどうだったの?」

その問いにはトーマとフウゴが答えた。

「去年は、確か鱗が取れたっけ」

「ええ。鱗が6枚とれました」

「えっ!?鱗だけ?」

驚いて大きな声を出してしまった。

「鱗がとれただけでも大成果だよ。それでも数年ぶりだったんだ」

「そもそもハシバミ竜は殺すものではない」

トーマとアブソレムが交互に答え、わたしは肩の力が抜けるのを感じた。

竜狩りだと言うから、てっきり竜を殺して持ち帰るのだと思っていた。

「アリスとアブソレムは、ハシバミ竜の肉を食べたのだろう?おいしかった?」

トーマが、魔法使いはハシバミ竜の肉を食べて知識を手に入れたという伝説の話を持ち出してからかった。

「私は食べていないが、アリスは知らん」

「うーん。わたしはどこかで食べたのかも」

わたしの呟きに、アルとトーマが声を合わせて笑った。


道がどんどんと険しくなったのもあり、そのまましばらく沈黙が続いた。

息が少しずつ切れてきた。

最初は寒く感じていたのに、背中を汗が伝っているのがわかる。

じめじめとした湿気がうっとうしい。

さんかく帽子の中で、髪が広がっているだろう。

「どうした?」

下を向いて黙々と歩いていた私は、アブソレムの声で顔を上げた。

どうやら前を歩いている兵士が何かを見つけたらしい。

「これを見てください」

兵士が指差したのは、脱ぎ捨てられた靴だった。

兵士達が履いているものと同じデザインなので、きっと制服なのだろう。

「どうしてこんなところに靴が?」

わたしが首をひねっていると、少し先にいた兵士からも、靴が見つかったと報告があがった。

「夥しい数の靴が落ちています」

そう伝えにきた若い兵士の顔は真っ青だった。

成人したばかりか、もしくは10代かもしれない。

緑色の目の奥が完全に怯えている。

「一体何が起こった?」

トーマが鋭い目をして兵士に聞くが、皆わからないという。

先発隊は誰もそこにはおらず、靴だけが落ちていたのだ。

ざわざわとした不安が皆を包み込んでいた。

ただひとり、アブソレムだけがいつもと同じ顔をしている。

「それでは……」

アブソレムはアルに指示を出し、薬箱から何かを取り出した。

「皆、これをつけなさい」

彼の手には耳栓が握られていた。

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